リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見た。

瞳に刻み込め
1979年に公開された『マッドマックス』シリーズ約30年ぶりの新作。主人公はメル・ギブソンから変更となり、トム・ハーディーが新たに演じる。共演はシャーリーズ・セロンニコラス・ホルト、ヒュー・キース・バーンら。監督は旧シリーズと同じくジョージ・ミラー


放射能汚染により資源が枯渇し砂漠化した近未来。法も秩序もない世界で、かつて警官だったマックス(トム・ハーディ)は武装集団ウォーボーイズに捕まり、奴隷となる。ウォーボーイズ達を率いるのはイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)と呼ばれる独裁者であった。彼は資源を入手するため、大隊長フュリオサ(シャーリーズ・セロン)を改造車に乗せ出発させるが、フュリオサはイモータンが「子産み女」として軟禁していた女性を改造車に隠し乗せ逃亡を企てていた。怒り心頭のイモータンはウォーボーイズを引き連れフュリオサを追跡する。一方マックスはウォーボーイズの一人であるニュークス(ニコラス・ホルト)の輸血袋として車に括り付けられ、その追跡に駆り出されるのであった・・・

一体何が起こっているのだ。いきなり全力で走りだしたと思ったら、いやいやアクセルに足をかけた程度ですよと言われ、エンジン全開かと思ったらまだまだ、我々にはニトロエンジンがあるんですよとニンマリした笑顔を見せつけられる。しかしそこで驚いている暇などは与えられず、さぁこれからだと一気に爆走。一体どこまで連れてゆかれるのかと我が身を任せるもその走りは一向に速度を緩めるそぶりを見せず、デス・ロードを全速力で完走してしまう。この暴走ぶりは決してブレーキが壊れているからそうなったというものではなく、いやいやそもそもブレーキは装備させなかったんだよと笑顔で答えるような素振りからくるものである。そしてそれはつまり、この狂騒は実のところジョージ・ミラーの理性的な判断と無茶な撮影をも統御する力によって作り上げられた作品であるということに他ならない。
それ故本作は見た目とは裏腹に極めて的確かつ理知的な演出とエモーショナルなドラマで成り立っている。鎖でつながれモノとして扱われた人間達が、それぞれ己を抑圧していた場から逃げるのではなく、自らの生と場を戦いによって勝ち取るというシンプルな物語が、憤怒の一本道を往復するというこれまたシンプルな舞台の中で、口数は少なく、しかし確かな演出によって語られている。この抑制された語り口は感動的で、しかも美しくすらある。台詞と説明が極限まで削られた結果、残るのはアクション、つまり行動のみである。台詞の応酬ではなく、行動こそが人物である。マックスもフュリオサもニュークスもイモータン・ジョーも誰もかれもが行動することによって己を証明している。車もまた、ただただ走り、装備された武器と機能を惜しみなく使うことによって己を証明している。この動くということの魅力。言語を超えたアクションの、野蛮で凶暴で純粋で圧倒的な興奮と快感は最早感動的であり、キャラクターたちの善悪を超えた本能の行動は美しいのだ。



そんなわけでこの映画についてはこれ以上あれこれ語る必要はないと思う。ないと思うのだが言いたいことは色々あって、例えばこれは『駅馬車』だ、いいや『周遊する蒸気船』のようでもあるぞとか、サーカスのように無謀なアクションの連続はバスター・キートンの映画のようでもあるとか、もしくは宮崎駿のアニメを見ているかのような動きの興奮と婆さんの強さがあるとか、そういったことを言うのがまず楽しい。果てしない砂埃の後に見えた青い夜の雰囲気も素晴らしく、しかしあのシーンでマックスは一体どうやって敵車両を破壊したのか。それは明らかにされていないがゆえにマックスが神秘性を帯びた存在に見えてくることについてだって考えてみれば面白い(単に『七人の侍』だという話もあるが)。彼は女たちの勝利のために武器を持ち込んでくる。他にも砂埃の中からヤマアラシの特攻車が姿を表すシーンの興奮であるとか、いつだって隊列を組んでやってくる敵の皆様、谷でバイカー集団に襲撃されときのマックスとフュリオサの銃使い、渡されるライフル。
そしてまた重要なのが人と人、物と物とを繋ぐ数々のアイテムと行動である。マックスに取り付けられた鎖とマスクが、エンジンを繋ぐという動作によって切り取られることから始まり、ニュークスを繋いでいた鎖が断ち切られ木に括り付けること、鎖をタンクへ打ち付けること、それを断ち切ること、輸血すること。「繋ぐ」というこれらの要素が、鎖や輸血のチューブやボルトカッターなどのアイテムにより無駄なく機能し、人間関係の信頼と善意や支配と横暴を表していることなど、もうこういったイチイチの要素をただ列挙してニンマリとするだけでも幸せなのである。



ただもう一つだけ付け加えておきたいのが、シャーリーズ・セロン演じるフュリオサについてである。この物語の主人公はマックスではなくフュリオサである。凄まじいカーチェイスも女たちの戦いも、すべては彼女の瞳に集約されていく。フューリーロードの爆走も反乱も絶望もアクションも、何かが起こるとき、そして起こった後には彼女に瞳が映り、その瞳が何もかもを物語っている。フュリオサだけでなく、瞳というのは過去を幻視するマックスにとっても、「俺を見ろ」というニュークスにとっても、「私を覚えているか」と言われるイモータン・ジョーにとっても重要なモチーフとなっているが、フュリオサの瞳の力強さがやはり全てを引っ張っているように僕には思えた。



異様なテンションで展開される狂騒から本作は確かに知能指数の低い、馬鹿映画だと思える面もある。しかし真の馬鹿映画とは見ている側の頭をからっぽにさせて楽しませてくれるような映画のことであって、そんな気持ちにさせてくれる作品というのは当然理知的であり、撮影から脚本、デザインまでしっかりとしたしっかりとした骨格と適切な演出がなければ出来上がらないのではないか。僕はこの映画で大笑いし、興奮し、感動し、すっかり大はしゃぎしてしまった。そんなわけでこの映画は決して馬鹿な映画ではなく、極めて真っ当で、真に「映画」として素晴らしい作品だと思うのでありました。