リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『寝ても覚めても』を見た。

きみと見つめ合わない

柴田友香によって著された同名小説の映画化。監督は『ハッピーアワー』などで知られれる気鋭・濱口竜介。主演は唐田えりか東出昌大瀬戸康史山下リオ伊藤沙莉ら。第71回カンヌ国際映画祭にてコンペティション部門に選出された


大学生の朝子(唐田えりか)は運命的に出会った鳥居麦(東出昌大)という青年と恋に落ちる。しかし麦はある日突然何も語らずに姿を消してしまった。2年後、大阪から東京に越してきた朝子は、麦と顔が瓜二つの丸子亮平(東出昌大)と出会い、その姿に戸惑いつつもお互いに惹かれあうのであった。そして5年度。朝子と亮平は共に暮らし、幸せな日々を送っていた。しかしある時、朝子は麦のゆくえを知ることとなり・・・

いくつもの不穏さを伴ったショットに恐怖と感動を覚えつつ、同時に「何故」が絶えず浮かび上がるがために、画面に目がくぎ付けになってしまった。例えば、何故二度もカメラは後退移動するのか。一度目は、麦がパンを買いに行くといって家から出るシーン。二度目は再び現れた麦が朝子の手を引きレストランから出て行ってしまうシーンだが、二つともカメラの視点と移動する人物の視点が一致していない。これはまず、離れていくということを映画の視点で表現しているということはできるのだろう。またこの二者は突如消える人たちであるという共通点を持っていたことからも、こういった移動が特権的に許されているともいえるかもしれない。特に麦に関しては顕著で、二度目の後退移動において朝子はまだ画面に見切れるよう残されているものの、麦は決して映らないのである。しかし問題は、何故この2つのショットが他と比較し特段誰かの視点を装うのだろうか、ということである。
次に、何故朝子は眠るのか。彼女は亮平と麦と、それぞれの車で高速道路に乗るわけだけれども、彼女は必ず眠ってしまうのである。しかも眠りから覚めると、それらの移動は渋滞や堤防によって妨げられていることも判明する。しかしどうやら、一人東北から高速バスに乗って亮平の下へと帰ろうとする彼女は、眠ってはいない。
何故男女は右側から歩み寄るのか。朝子と麦の出会いも、朝子と亮平の再開も、必ず画面右側にいる人物が歩み寄っている。では左側からの移動はないのかというとそんなことはないのであるが歩み寄りではない。例えばコーヒーポットを取りに来た朝子を追いかけて非常階段に出ていくシーンは画面左側から追いかけているし、麦に連れ去られる朝子が乗るタクシーも、亮平が1人東京から大阪へ向かうタクシーの移動方向も左から右である。そして亮平が東北から戻って来た朝子を突き放して走りだすシーンも、左側からであった。
そしてとりわけ、何故川であり、海であり、雨なのだろうか。朝子と麦の出会いは爆竹が鳴る川沿いだ。彼らはバイクで海沿いを走り、近くに川の流れる友人宅で花火をして朝を迎える。また亮平の職場にある非常階段からは朝子がいる職場の裏口が見えるのだけれど、彼らが高低差のある中はっきりと目を合すのは雨の日である。そしてその非常階段でキスをする二人の奥には、海上を走るクルーザーがこの時とばかりに見えている。大阪に越してきた二人の新居近くには川が走っているようだ。麦が朝子を連れ去る夜は雨が降っている。そして麦が見なかった海を、朝子は目にして再び目の前を川の流れる家へと戻る。そのきっかけの一つには、かつて花火をした友人宅に訪れるという出来事があるわけだけれども、そこでも突然の雨に降られていたではないか。



ただこれら幾つもの何故については、単に頭を働かさせられるから釘づけになってしまう、ということではない。わからない、とつぶやきつつしかし引きつけられてしまうのは、恐らくこれらは異なる要素に見えていても、実のところそれぞれが関わり合い重なり合うようにして画面に登場し、絶えず連続性を持って繋がれているから、目が離せなくなるのではないか。
麦と朝子の出会いから振り返ってみよう。彼らは牛腸茂雄の写真展の会場にて運命的に出会うわけだけれども、そこでは朝子の視点の高さにカメラが合わせられているため、麦の顔は確認出来ない。その後エレベーターや階段といった、高低差に阻まれつつ麦の背中と朝子の正面とを切り返すのだけれども、こういった繋ぎの魅力もさることながら、やはり高低差というのが一つ、重要な要素になっていることは否めないのではないか。そしてその高低差が画面上においてぴたりと合うのが、爆竹の音にか朝子の存在に気づいたからかして振り返った麦が近づいてきてキスをする一連のショットであり、そこでは既に述べたように、後ろに川が見えている。
次に川が見えるのは、パンを買いに出かけたまま翌朝になるまで帰らなかった麦の元へと朝子が駆け寄りキスをするシーンである。ここで朝子は麦の友人・岡崎家の二階から駆け寄るのだが、彼らが再開するシーンはその二階からの視点で撮られており、脇道には川が流れている。このように、川はきわめて日常的な光景の中においていかにも自然な様子でただ気配として登場するだけでありながら、しかしまるで高低差を流れるかの如く無効化し、男女を引き合わせているかのように思えるのである。これは亮平と朝子の出会いにおいても同じで、男が駆け寄る方向こそ麦とは逆になるわけだけれども、やはり一度目のキスは高低差のある階段であり、二度目は屋内であり、そしてどちらも川が見えているのである。
では海はどのように登場したかといえば、まずは麦とのツーリングである。しかしこの際彼らは事故に遭い、結局立ち止まって海を眺めることがない。この作品において海を眺めることが出来たのは朝子ただ一人であり、それは麦との、決定的な別れをした後であった。さて海とは終着点としていくつもの映画において描かれてきたわけであり、この作品においても例外ではない。けれどもそういった引用めいたことを言わずとも、海が終着点となっていることは朝子の「目が覚めて、何も変わっていなかった」という台詞からも分かるのではないか。



本作には多くの眠りに関する、というより夢の中を彷徨っていることを暗示するかのような要素が散りばめられ反復しているのだが、その夢とは二人の男の流れに身を任せるような、メロドラマの夢である。そもそも麦と朝子の出会いからして、岡崎に「そんなわけあるか」と言われているのだが、本作ではそんなわけあるか、というような男女の間柄において反復が数多くなされているのだ。例えば写真展での出会い、警備による制止、朝食として食べられるパン、穀物の名前と日本酒メーカーといったような細かいシチュエーションから、勿論男女の出会いに付随する川や高低差もそうだし、突如消えたかと思うと突如再会するというのもやはり反復される。朝子が初めて亮平との出会った際に「麦」と「バク」とを反復し勘違いするというのも、「バク」が夢を食うという伝説に則った冗談なのかもしれない。視点不明な後退移動の度に麦の姿が消えてしまうのはそれが夢の視点であるならば不思議なことではないし、海を見ることが出来ない麦の、実体としての存在が欠けているとも言えるかもしれない。そして高速に乗る度に朝子が眠り、二人の男にその身を、行き先をゆだねるという反復もやはり仕掛けの一つであろう。だから移動を阻んでいた防波堤のある海へとたどり着きついに眠りを自覚した後、彼女は眠らない。東北から深夜バスに乗る彼女の、街灯に照らされた顔には眠りの気配はないのだ。朝子は海を見ることによって、雨がやがて川へと流れいずれ海へと到達するその果てを見ることによって、麦と亮平の間で見ていた夢に終わりを告げたのである。
そうして朝子は再び亮平の下へと向かうわけだけれども、ここで彼女の進行方向は左から右となっている。この方向は、物語の向かっていた流れとは逆を向くときに使われていた方向である。つまりそれは亮平とのキスであり、公園で麦を追いかける朝子であり、朝子を連れ出す麦の乗るタクシーの進行方向である。そんな逆行を自ら主体的に選び取り走り出すことによって、再度生まれた高低差を埋めようとするそのエモーションは、白い服なびく数々のロングショットよりも美しく胸を打つ。反復によって重なり合い連続性を帯びた画面は、海を経て自ら主体的に走りだす朝子を導くのだ。



そうして最後、再び高低差のなくなった二人は同じ高さで川を見て、一つの画面に横並びで収まっている。ここで彼らはベランダと室内とを区切る大きな窓枠の中に納まっているわけだけれども、この枠という要素もまた、反復の一つである。コーヒーショップの窓枠から朝子を眺める亮平、写真展のウィンドウに映る亮平をみる朝子、キッチンから演劇についての口論を眺め反論する朝子、街頭ビジョンに映る麦と高く伸びるカフェの窓枠など、多くの場面で長方形の枠が登場人物の周りを取り囲み、そしていくつかの場面では見る、見られるという関係性を生み出している。だが枠に囲われた2人の人物が、ピタリと同じ方向を向いて止まっているというのは最後のショットのみである。とはいえ実はそれも反復された光景であって、では一体どこでそのような二人と出会ったかといえば、冒頭の、牛腸茂雄の写真である。
同じ服を着た二人の少女の写真を見たとき、それは麦と亮平のことであろうと思ったが実際はそれだけでなく、朝子と亮平のことでもあったのだろう。麦はそもそも、枠を超えることが出来ない人物である。だから彼は防波堤を超えて海を見ることはできないし、ドアの前に佇み語りかけるだけなのだ。だが朝子は防波堤を超えるし斜面を超える。車の窓から手の身を差し出して携帯電話を捨てる。亮平はドアを開けて朝子の下へ駆け寄るし、やはりドアから手のみを差出し猫を渡す。そんな類似性を持った二人が同じ川をそれぞれ違う感情で見つめるという結末は、彼らが他人に身を任せた共有の望むのではなく(亮平の「お前のそういうところが俺を頑張らせる」という言葉を思い出す)、個人の感情によって生きることを自覚したからこその結末であり、抱き合うでも見つめ合うでもない、「SELF AND OTHERS」とでもいうようなメロドラマの結末なのだ。
『めまい』か、それともノワールか、はたまた怪談なのかというような要素を含みながらメロドラマを語るというジャンルの越境をしつつ、写真/ピクチャーから活動写真/モーション・ピクチャーへと、素晴らしいショットとその持続性、そして唐田えりかの目をもって越境する、語りつくせない魅力に満ちた傑作。