リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』を見た。

心のなかのこの燈火が

『セインツ -約束の果て-』や『ピートと秘密の友達』で知られるデヴィット・ロウリー監督最新作。主演はケイシー・アフレックルーニー・マーラ。画面はスタンダードサイズが採用されている。


作曲家のCと(ケイシー・アフレック)とその妻M(ルーニー・マーラ)は田舎の一軒家で平穏な暮らしを送っていた。だがある日、Cは自動車事故によって突然命を落としてしまう。呆然と彼の死体を見つめるM。しかし彼女がその場を去ると、Cはシーツを被ったまま、幽霊としてよみがえり家へと戻る。Mはその存在に気付くことなく、Mは彼女を見守り続けるのだが・・・

重たそうな荷物を、引きずりつつ家から運び出す様を遠景から捉えた長いショットがあまりにも素晴らしく、その素晴らしさの、文字通り中心を担っているこの平屋が本作のために用意されたものではなくもともと取り残されていた廃屋だったことにすら驚くほどであるし、仮にこの緩やかなパンを伴ったショットのためだけにスタンダードサイズを選択したのだ、といわれても納得してしまうかもしれないほど、この家と、そしてその玄関から手前の路肩へと懸命に荷物を運ぶルーニー・マーラを捉えたショトは素晴らしい。
いったい何がそんなに素晴らしいかと問われれば、まずこの家の横に伸びた佇まいと背後にそびえる木々という横と縦の配置であると答えるだろうが、その画面を包む光の配分も忘れられぬ要素であり、これらの的確な画面配置と光の塩梅については最後まで途切れることなく気が配られ充実しており、幽霊譚の骨格となっている。



その骨格の上に成り立っている一つ一つのショット/カットの、その長さについても注目したい。まず目につくのは4つの長回しだろう。一つはすでに述べた荷物を外に運ぶショットだが、他の三つとは、夜、物音に驚いたケイシー・アフレックルーニー・マーラが寝室へと戻り、シーツに包まりながら愛撫しあう二人を俯瞰でとらえたショット。ケイシー・アフレックが事故で亡くなり遺体安置室でシーツを被った幽霊として再度起き上がるショット。そして夫の死後、一人部屋でパイを食べ続けるルーニー・マーラを捉えたショットである。これらはすべて序盤に配されており、だからまずは静かながらも大胆に時間を使う映画だなと思って見ていると、中盤から、具体的には新しい家族が幽霊の取り残された家に引っ越してきて以降、一つ一つのショットの時間が短くなり、むしろ細かく場面を繋いでいくようになる。
なぜこのような編集になっているかといえば、それは物語が次第に、通常の時間感覚とは違う世界を語り始めるからである。序盤、つまりはまだ男が生きていた頃と、その残り香の消えない段階ではカメラも現実に近い時間を見つめるものの、それが次第に薄れてくると次々に時間を飛び越え、いつとも知れぬ未来から開拓時代の過去にまで行きつく。そしてそれに合わせて繋ぎも細かくなるのだが、それはおそらく、この幽霊が時間にも空間にも縛られていないからだろう。時間についてはショットの長さと場面転換からも明らかだが、空間については、もし彼が、単に妻と過ごしたその家に縛られているのであればもう一人の幽霊と同様に消えてしまうだろうが、そうはならない。確かに本作は幽霊屋敷物としても側面を存分に含んではいるし、彼もはじめこそ居住者の入れ替わりを拒絶したものの、幽霊としてこの世にとどまっている理由の核心になっていないのである。



では一体なぜこの幽霊は居残り続けるのか。そのことに触れる前にこの幽霊が体験する旅路をたどると、彼は途中、ある男の話を聞くこととなる。それは、この世界はいずれ終わりが来るのだから、例えベートーベンの「第九」であろうとすべては無意味である、という内容だ。それをただ黙って聞いているといつの間にか家は廃墟となり、いつのまにか高層ビルが建設され、風景は一変する。そこで「飛び降り自殺」を図った幽霊は、一変して開拓時代へと飛び越える。そこで彼が見たのは、家を建てようとする家族が、先住民に殺される姿だ。だが問題は、はかない命であった少女が、鼻歌を歌いながら岩の下にメモ書きを残したということである。この何者としても名を残さなかった少女の誰にも知られぬささやかな行為は、時を超えて、彼の妻がしたこととの一致を見せる。それは単なる偶然でしかないが、しかしそれでもこの偶然を無視できないのは、たとえ人間の営みに意味はなくとも、これらの偶然の行為からはそれでも彼らは確かに実在したのだという思いを時間も空間も超えて感じ取ることができるからであり、家そのものではない彼らの思い=記憶こそ、幽霊をこの世にとどまらせている理由である。



夫と妻の思いは、この幽霊譚において具体的な触覚と聴覚によってあらわされている。例えば冒頭、シーツに包まって愛撫する二人の手、二人の聞く音楽、亡骸にシーツをかぶせること、夫が死んだ後に寝室のシーツを丸めて座り込むこと、夫の残した音楽を聴きながら掌を上にしてどこともなく差し出される腕、幽霊になってシーツの上から妻の体に触れる手、そしてただ一つの思い出としてメモを家に残すことと、そのメモを取ろうと壁を削る音。これらはすべて、具体的な触覚であり聴覚である。だから妻が一人パイを食べるシーンは、そこで触覚から発せられるのが無機質な金属音であるからこそ触れることから遠く離れているのだと感じさせ、胸を打つのである。そしてまた、触れることとして唯一彼に残されていたメモをついに取り出し、書かれた文字を読むとき、そこに何が書かれているかは問題ではない。確かにあなたとわたしはここにいたという、ふたりの思いがあったのだという事実、「ああ、ではこれが―これがあなた方の宝なのですね。」という思いこそが何よりも重要なのであり、だからこそ彼は成仏したのである。ほとんどセリフのない中、具体的な行為によって意外なまでに素直な愛を描き出す、愛おしさのあふれる作品であった。