リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『旅のおわり世界のはじまり』を見た。

YOUは何しに

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黒沢清監督最新作にして自ら脚本を手掛け、オール海外ロケを敢行した作品。主演は前田敦子。共演には加瀬亮染谷将太柄本時生のほか、ウズベキスタンの俳優、アディス・ラジャボフら。
 
 
バラエティ番組のリポーター藤田葉子(前田敦子)は巨大な湖に住む幻の怪魚を探すため、ウズベキスタンに訪れていた。しかし、大魚は簡単には見つからず、急遽予定を変更し名物料理のリポートをするも準備不足で米は半生。精一杯明るい声で番組を盛り上げようとするも、もともと取り繕っている葉子の気は滅入るばかりで、唯一のよりどころは恋人とのラインのみ。言葉も通じない異国で誰とも交わることのない葉子は一人街を出歩くのだが・・・

 

 

異国の男に連れられ舗装されていない道路をバイクで走る冒頭から、これは『Seventh Code』の続編に違いない、と心を躍らせていたのだが、しかしいくら待てども活劇へと向かう様子はなく、それどころか、いかなる地であろうとも黒沢清作品らしさをしっかりと画面に刻み付けていた過去作と比較し、本作は異例なほど「らしさ」から距離をとった作りになっている。人物の躍動に従いカメラが動き出そうとも、不自然な強風にカーテンが揺れようとも、寂れた建築物が出てこようとも、ばたりと床に伏せる人物が出てこようとも、照明が不自然に変化しようとも、それが黒沢清の作品を見ているという確かな感覚までは到達しないのである。だからはじめ、統御された画面から生み出される黒沢清空間にこそ震え上がり、感動し、そして映画的な快感を味わっていたファンとしては、肩透かしを食らったような気分さえしたのであった。

 

 

 しかし、それでもやはり本作は黒沢清作品であって、そのことは主題といえるであろう、迷子の描き方において見て取れる。前田敦子演じるリポーターの葉子は、撮影クルーとともに異国に来ているものの、一人取り残されるような状況が多い。例えば冒頭がそうだし、続く湖でも葉子は一人船に取り残されたままクルーの判断を待っており、またたとえ地続きの場所にいようとも、やはり彼女は輪に加わることがない。そもそも仕事の内容として彼女はカメラに映る側として一人、孤独にこなさなければならない状況を強いられているのだが、しかしそれだけではなく、撮影途中に一人はぐれてしまうことすらある。さらに仕事後も彼女は一人、異国の地理も言葉もわからぬまま街へと出て、奇異の目に晒されながら結果観光などとは無縁の時間を過ごすのである。

この仕事はもともと、彼女にとって満足のいくものではなかった。テレビリポーターは本来やりたいことでもなければ、将来のためにやらなければならないこととも思えないし、カメラマンのような諦観も持てず、ディレクターのように金というルールによって自分の存在を確立させることができていないがために、葉子は積極的にこの場に馴染むということができないのだ。だから序盤、車内で2度着替をするという行為も、思い返せばそれは番組の要請であること以上に自分を覆い隠し着せ替え人形的に仕事を全うするという姿勢に思えてきて、しかもそれは決意ではなく、儘ならなさからくるものであろうことが、彼女の着替えを異国の人たちが遠目で眺めているという、居心地の悪さから感じ取れる。この居心地の悪さの中をさまよう迷子の姿こそ、本作の主題といえよう。

 

 

葉子は、必ずまっすぐ歩きはしない。大通りを横断して、路地裏に地下、または道ともいえないような斜面を下るのだ。キアロスタミのジグザグ道か、もしくはベルトルッチの迷路か、はたまたロッセリーニの行く当てのなさか、とにかく彼女は目的もなくひたすら歩き、そのうちに迷子となっていく。ここでいう迷子とは、帰り道が変わらず困っているということではなく、目的地もなくひたすら歩き続けては疲れ果てる姿のことであり、そして街を歩くとき、そこでは通行人の目線が絶えず彼女に向けられていて、決して好意的ではないその視線は、葉子の異物感を際立たせている。

事実、葉子は所在無き異物として画面に収められている。それはすでに述べたように異国で向けられる奇異の目や一人孤立する姿からも感じ取れるだろうが、最も強調されているのはヤギを放つエピソードにおいてであろう。鎖につながれたヤギを買い取り野に放ったその直後、そのヤギはもう誰のものでもないからという理由で、元の持ち主に連れていかれそうになってしまう。何とかヤギは助かったものの、葉子は自らの思いがここではまるで通じないことを知るだろう。撮影クルーでさえも理解してくれないと孤立するだろう。広大な大地の中、背後に並ぶ電信柱とともにポツンと立ち尽くしている葉子の姿がロングショットで捉えられる。これはまさしく黒沢清らしいショットであって、例えば『CURE』や『岸辺の旅』などでもそうであったように、異物は垂直の違和感として画面に登場する。葉子はここで、萩原聖人浅野忠信のように、異物として画面内に存在しているのだ。とはいえそれは、葉子自身の幼稚でニンゲン失格な態度によって引き起こされている問題でもあって、それゆえ彼女は迷子にならざるを得ない。そして分かり合えない他者とは、実に黒沢清らしい話でもある。

 

 

さて、そんな葉子は迷子の果てにあるものを見つける。まさしく迷宮のようなナボイ劇場をさまよい舞台へと足を踏み入れた彼女は、そこで夢である歌手としての姿を幻視する。この迷宮はほかの迷子とはやや様子が違い、画面は葉子の足取りを追うのではなく、ジャンプカット気味に装飾と差し込む光や色が微妙に異なる6つの待合室を繋いでいくため、まさしく迷宮に入り込んだような錯覚を覚えるのだ。だからこの歌唱シーンはその導入からほとんど夢でしかないのだけれども、しかし歌唱シーンは、最後にもう一度訪れる。

それは長い旅と迷子の果てにたどりついた山頂で行われる。ここでも葉子はクルーから離れ一人となるものの、しかしその姿は迷子ではないだろうということが、オレンジのジャンパーを脱ぎ捨てて山頂へと向かう姿からもわかるだろう。ここで葉子は、テレビに映る側としてでなく、もしくはカメラを向ける側でもなければ、幻視された姿でもない。つまり見る/見られるという他者を介した関係性から切り離され、自分は今この場に確かに存在しているのだということを、まるで世界に向けて高らかに告げるかのごとく歌いだし、タイトルは結実する。

 

 

さてしかし、このように物語を追ってみたところでやはり本作を称賛することはできない。何より本作は迷子の映画にもかかわらず、実際のところ動きの魅力には乏しいと思えたのである。確かに、前田敦子は異物として歩くだろう。だがそこに、過去作で見られたような統御された画面以上の快感があるとは思えなかった。というのも、ここでの動きにははなにより驚きがなく、現地で撮れたものをそのまま提示するという態度か、もしくは前田敦子という女優の存在感の面白みにとどまっており、新境地として楽しめるほどの魅力が備わっていないのだ。しかも、どのシーンも異国の触感を感じ取るというよりはやはり低体温で、ふとした瞬間に黒沢清的触感が戻っているのだ。このような、「らしさ」から離れようとしては引き戻される駆け引きを楽しむという鑑賞態度もあるのかもしれないけれど、しかし結果的にどちらでもない分、画面の快感もやはり中途半端だ。また例えばナボイ劇場に入るシーンや葉子がはぐれるシーンなどはいかにも説明的で退屈なショットまで挟んでいて愕然とさせられる。

さらに、ただ座って会話をしているというシーンも多すぎやしないか。例えばナボイ劇場建設の経緯をビルの屋上でとうとうと語るシーンなど、こんな場面を見るなんてと悪い意味で想像を超えてしまっていた。唯一の救いは、屋上に設置されたアーチ状の骨組みらしきものが、どこか過去作でも感じられたような禍々しい空気を発していたということなのだけれども、結局これも「らしさ」とのせめぎあいである。もちろん「らしさ」こそ正しい道というわけではないのだから、どうせなら次回作は本作のラストを受けて全力で引き離しにかかってほしいようにも思う。