リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アイリッシュマン』を見た。

懐柔たちのいるところ 

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マーティン・スコセッシ監督最新作。ロバート・デ・ニーロアル・パチーノハーヴェイ・カイテルら豪華キャストに加え、ジョー・ペシが約10年ぶりに俳優復帰。原作はチャールズ・ブラントによるノンフィクション『I Heard You Paint Houses』。

 

1950年代フィラデルフィア、トラック運転手をしていたフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)はマフィアのボス、ラッセル(ジョー・ペシ)と出会い、数々の仕事を引き受けていく中で徐々に信頼を得るようになっていく。そしてある日、フランクは全米トラック運転手組合のトップであるジミー・ホッファを紹介され、彼の右腕として働くこととなる。フランクとジミーは仕事仲間としてだけではなく家族ぐるみで付き合う仲となるが、マフィアとジミーとの関係は次第に変化していき・・・

 

 

以前、『沈黙』について書いた際、スコセッシらしさについて触れており(『沈黙 -サイレンス-』を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら)、『アイリッシュマン』についてもいくつか当てはまる部分があるため本作もやはりきわめてスコセッシらしい作品であることは間違いないない。しかし、デ・ニーロやジョー・ペシといった出演者から『グッドフェローズ』を連想してしまうのはおそらく間違いであって、むしろ『沈黙』の後の作品であることのほうが重要だと思う。 確かに、ドキュメンタリーの精神で撮られた『グッドフェローズ』と同じように本作も回顧録を原作とし、ナレーションを多用しつつ、人物たちの生活様式を描写しながら多くの情報が通り過ぎていくスタイルは似ているともいえるけれども、決定的に違うのはまずスピードであって、その差は互いの冒頭からもうかがえる。『グッドフェローズ』はソール・バスによる、車で走り抜けていくようなクールなタイトルクレジットだったが本作は全く様子が異なっていて、『アイリッシュマン』の車はゆったりとした走行でかつタバコ休憩やタイヤ交換に集金などたびたび立ち止まっている。描かれていること自体は『グッドフェローズ』、ひいてはスコセッシらしくとも、描き方がかつての実録ギャング映画の方式ではないということを、車からして示唆しているのだ。

 

加えて、本作では「懐柔」という要素が重要となっている。白眉ともいえよう登場人物が一堂に会するパーティーを筆頭に、裏社会に生きる男たちはたびたび懐柔を試みる。これはスコセッシの過去作にもみられた要素であり、例えば『レイジング・ブル』での八百長がそうであり、『エイジ・オブ・イノセンス』は社交界に懐柔させられる物語ともいえよう。そして『最後の誘惑』、『沈黙』はその要素が色濃く出ているのだが、本作に最も近いのは、表面上やさしい口調で改宗を諭してくる『沈黙』であって、実際本作で最も重要な要素となっているのは、あちこちで耳打ちしあい、状況をコントロールし、「懐柔」することなのである。これがまた『グッドフェローズ』と大きく違う点で、つまり生活様式を描くというスコセッシらしさは同じであっても、あくまで兵隊でありルフトハンザ事件のような強奪を主とし金を作り出すことこそ仕事であった『グッドフェローズ』に対し、『アイリッシュマン』の登場人物は兵隊より上の立場にいる人間同士のやり取りこそが仕事の本質となっているため、作品のスピードにも差が生まれるのである。 特にジミー・ホッファが登場してからはいかに彼をコントロールし、懐柔するかということに焦点が当てられている。

しかしフランク・シーランの懐柔はことごとく失敗している。彼はラッセルの口利きによって、パンとワインのみならず夫婦のように指輪を分け合い、裏社会へと取り込まれたのだけれども、その仕事として彼が懐柔しなければならなかった二人の人物との関係は、悲劇的な結末を迎えている。一人は勿論ジミー・ホッファで、フランクは彼を射殺しなければいけなくなる。そしてもうひとりは、娘のペギーだ。ペギーはフランクにも、ラッセルにも懐柔させられずに彼らのもとを去る。だがそれはあらかじめ予想された出来事だ。何故ならば、フランクがペギーを見るよりもはるかに、ペギーがフランクを見るという視線のほうが多いからである。癇癪もちでパラノイア気味の、実にスコセッシらしいキャラクターのジミーは、常にフランクに、ラッセルに見られている。俯瞰的に見られていること、それに気づいていないことというのは、言い換えれば自らが審判されていることに気付いていないということなのだ。だからジミーが懐柔されず、意に沿わないときには排除されるだろう。一方フランクの動向を盗み見ていたペギーは、彼女の審判によって、家族を守るためにやったなどというフランクの言い分に耳を貸すことなく去る。ここでまた前作の『沈黙』が、ただひたすら異国の地で自らの信仰に対する弾圧を見せつけられる視線の映画でもあったことを思い出し、『アイリッシュマン』も視線の果て敗北し、それでもなお続く人生についての物語、つまりいくつもの過去作と同じスコセッシらしいテーマへとたどり着いていることがわかる。

 

ただし、スコセッシはここで彼の作品らしさという軸のほかに、映画史的な軸を追加している。それはアル・パチーノとの初組み合わせからも当然予期されていたことだがつまり、『ゴッドファーザー』を引用して家族の物語に仕立て上げようとしている点だ。この引用は、例えば湖畔にたたずむジミーの姿だとか、道路沿いのレストランで殺しをするシーンであるとか画面上にも表れているけれども、最も重要なのは扉の使い方においてである。『ゴッドファーザー』は殺しに関与したことへの疑念の抱く妻と、ドンとなったマイケル=アル・パチーノの間に断絶が生まれていることを、閉まる扉によって示していた。それが『アイリッシュマン』では妻も友も死に、娘とも縁を切られたフランクが、それでもそこに誰かが訪ねてくることを期待してか、半開きにした扉のショットで幕を閉じる。この扉の主題はおそらく『捜索者』から直接的に続いているものであろうが、はじめそれは家の中と外とを分ける扉であったものの、『ゴッドファーザー』では部屋の扉へ、そして『アイリッシュマン』ではもはや家ではなく老人ホームの扉へと変化しているという点も興味深く、『ゴッドファーザー』のマイケルが愛娘の死後、我が庭でひっそりと老衰するのに対し、フランクは家も家族もないところで死なずにいる。原作から『アイリッシュマン』というタイトルに変更した本作がどれほどジョン・フォードを意識しているのかはわからないが、数々の映画で「死にゆく」アル・パチーノの起用に関しては、「生き残る」盟友デ・ニーロに対して死を身にまとうギャング映画というジャンルに対しての敬意であり、自らを傍流としてではなく本流の歴史の中に組み込むという意識があったのではないか。

もうひとつ、スコセッシはフィルムの修復・保存を行う財団を立ち上げるほどのシネフィルではあるが、作品の特徴としてとしては古典にみられるスマートさよりもむしろ語りの効率とはほとんど別に映像の修飾を多用している印象が強く、その技量をいかんなく発揮している作品こそ、スコセッシのパラノイア感覚を最も効果的に引き出しているように思う。しかし冒頭で書いたように『アイリッシュマン』においてはその手法が抑えられ、重厚であろうという意図が見えているのだが、それは本作がおそらく、時間の長さをこそ描こうとしているためであろう。フランクの人生は激流に乗るようなものではないし、一つのことに執着し追い求めるようなものでもない。ラッセルやジミーと連れ添った、時間の長さこそが彼の人生だ。思えば、白眉たるパーティーで彼が表彰されるのはほとんど生涯の功労に対してであろうけど、そこではラッセルとジミーからそれぞれ違う品を贈呈されており、また彼は当然ペギー=家族をまともに見ていないものの、一方のペギーはやはり、彼を見ているのだ。そしてそれらの行為も当然であろうと納得させられてしまう人生の歩みにこそ重きを置いているから長くならざるをえないし、その長さを体感させるために映像としても重みを必要としたのであろう。これを思えば、ラッセルが逮捕されるとき背後に『ラスト・シューティスト』の看板がかかっているのも当然である。

 

このようにして『アイリッシュマン』は重厚さを湛えているわけだが、しかしそれが作品をより上質なものへと昇華させたかということについては疑問が残る。確かに本作を見れば、老境を迎えたスコセッシと重なるような、深みとでもいうべき良さがあるといえるのかもしれない。しかしすでに書いてきたように、本作で描かれている内容はいつものスコセッシとほとんど同じである。それは悪いことではないし、どの作品もそれぞれに色が違って面白いことに間違いはないけれども、思うに、スコセッシ最大の武器とは、老成しないことではないか。例えば最新のインタビューを見ても、出演者と比べて誰よりも早口で誰よりも口数が多いままであって、また『アイリッシュマン』においても、面白いと思うのは語りとして非効率であっても見入ってしまうテクニックやリズムではないか。どっしりと構えた風格ではなく、目まぐるしい非効率で魅せる。それがスコセッシ最大の武器であって、この分野であればいまだに数多くのフォロワーの追随を許さない存在だと信じているからこそ、『アイリッシュマン』についてはあまり大げさにほめる気にはならないのである。

 

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

ちなみに本作で採用された顔だけ若返らせる技術については、顔はともかく動きがどうしても老人にしか見えず違和感が大きかったので、成功とは言い難たかったように思う。