リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ホットギミック ガールミーツボーイ』を見た。

いつか地球に生まれたら

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相原実貴による同名漫画の実写化作品。主演は乃木坂46の堀未央奈。その相手役として清水尋也板垣瑞生間宮祥太朗が出演。監督は『5つ数えれば君の夢』『溺れるナイフ』などで知られる山戸結希。

 

 

「女の子の命を弔うような21世紀 真実の映画が生まれるだろう 私たちは 21世紀の女の子」という言葉を放ち、今まさに光が、様々な形へと変化し生まれる瞬間を、ほとんど儀式的な舞と祝詞によって自由自在に祝福した短編『離ればなれの花々へ』は実に山戸結希らしい作品であり、しかもそれら画面に映る・聞こえるすべてが、物語やテーマの中に回収されるのではなく瞬間ごとに広がっていく様には異様な高揚感があった。大胆不敵な宣言に賭けてみたくなる力があった。

そんな宣言ののちに公開されたのが、『ホットギミック ガール・ミーツ・ボーイ』である。極めて山戸結希色の濃厚な、歪な作品である。

 

 

 山戸結希色、つまりこの作品の特色は冒頭数分間ですぐに理解できるだろう。カット数は異常に多く、せわしない繋ぎは不規則に角度を変え、ときには直前の画面に対し平然と嘘をつくようなことさえしてみせる。静止画の唐突な挿入に鳴りやまない音楽と止まらないポエテックなセリフ。過剰に主張する色彩。これらの要素がひと時も手を休めることなく目の前に現れる。意表を突く、というよりは混乱をきたす表現だというのが妥当だろう。長回しなど動線の設計が面白い部分はあるし、アクションの瞬間をしっかり捉えてる箇所もあるとは思うけれど、基本的に生身の存在感や緊張感は希薄である。

ここで特に注目したいのがセリフである。ただし問題は内容ではなく、セリフの間だ。これが異常に短い。まるで本来の間を切り取り間隔を詰めたかと思わせるような言葉の応酬がここではなされており、そのせいか、まったく別の人間が別々のことをしゃべっているにも関わらず、ひと続きではないかと思えるほどなのだ。その間の短さとリズムは人物の特性を表すでもなく、掛け合いや衝突によって生み出される感情でもなければ、もちろん思わず歌として表出されてしまうミュージカルでもない。それらの場合、言葉は人物・状況の後からやってくることが多いと思うけれど、本作の場合はまず言葉が先行しているように思える。ゆえにセリフはどこか実体を欠いて、もはや声というより文章に近いものとなっている。しかしまさにこの手法、話者の存在感が希薄な言葉を異常なカット数によって畳みかけることで山戸結希は異界としかいいようのない世界を画面内に創出している。しかもここでは風景も人物と並列で、非常に力のあるショットで捉えられるSFめいた建物でさえ一括りに取り込んでいる。

 

 

だがこの異界はまだ不完全である。なぜなら山戸結希は少女が自らの精神性を身体を通し表現することにこだわってきた作家だからだ。その動きを舞として、そしてセリフは祝詞として、どこか儀式のように動きと言葉とを密接に関わらせる作品を撮り続けている山戸結希作品において、言葉、特に男性のそれが先行しているだけでは、まったく不十分なのだ。

実際、終盤まで堀未央奈演じる初は主体的な行動をとっていない。単に動きということであれば駅構内での長回しは『溺れるナイフ』における円を描くような動線を思い起こさせもするものの、ここで動きを主導するのは亮輝(清水尋也)であって、初は亮輝に命令されたり、もしくは梓(板垣瑞生)に手を引かれてなど彼らの身勝手な振る舞いに対し受け身でいることが多く、また言葉を発するときもリアクションが主であって、妹である茜(桜田ひより)と比べ主張は弱い。主体性に乏しい初は、だからこそ動画や写真に収められ、モノ化されてしまうのである。梓の策略によるリベンジポルノとして、もしくは凌(間宮祥太朗)の部屋に飾られているような願望として、初は、彼女を所有しようとする誘惑に、意図せず向かっていくのだ。

だが、『溺れるナイフ』においても写真、もしくはモデルという職業は表面を掬うものとして扱われ、必ずしも肯定はされていなかったことからもわかるように、それらの目論見によって初の精神性が引き出されることはない。そもそも、梓はモデルとして自らがすでにモノ化されており、その魅力を誘い水に同じ地平まで引きずり込もうとしているわけだし、一方「そのままでいい」と語りかける凌にとっての初はいわば人形であって、つまり彼らは初がモノ化されることを望んでいるに過ぎず、「空っぽ」と自らを表現する彼女の精神性を引き出すことなどできはしないのである。そしてだからこそ、彼女を奴隷とし、「見込みあるバカ」と投げかける亮輝との関係性において、反発であれ彼女は自分の内面から湧き出す感情を捉えることができる。彼がいう「一緒に変わりたいと思った」という言葉の通り、初はついに自らの精神性を、肉体を通して表出させるのだ。

 

 

ここでついに、言葉と身体が密接に関わりあう山戸結希的異界が壮大なスペクタクルとなって現れる。次々に繰り出される言葉は決して説明的ではなく、むしろ少女から母まで次々に役割を変えながらその時その時の言葉を放っている。彼女の動きが解放感のあるものであると同時にじたばたとして未熟にも見えるのは、ここがまさに誕生の瞬間であるからともいえるだろう。こうした初の振る舞いは物語の要請に対し過剰であるといえて、『離ればなれの花々へ』同様、物語の中に回収されるというよりは、テーマや物語を踏み台として、さらにアクションを捉えつつぶつかり合うようなカットに音楽までも加えて、その瞬間ごとにさらに広がっていくようである。だから山戸結希的異界とは自らのセンスに閉じこもるようなものではなく、言葉と身体によりどこまでも拡張していこうとする儀式の場であり、それはまさしく、映画においてのみ降臨させることができる場なのだ。

だからこそ、山戸結希の作品には注目してしまう。正直、見ていてこっぱずかしい、というよりは明確にキツいと思う瞬間も多々あったのだけれど、ここにしかない異様な高揚感を味わったのは紛れもない事実だし、これからも「21世紀の女の子」を見続けていきたいと思わせてくれたこの作品を僕は擁護する。