リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ドライブ・マイ・カー』を見た。

But you can do something in between

f:id:hige33:20211010131833j:plain

『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』で知られる濱口竜介監督最新作。西島秀俊三浦透子岡田将生霧島れいかが出演。原作は村上春樹の同名小説。第74回カンヌ国際映画祭にて、日本映画としてはじめて脚本賞を受賞した。
 
 
舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)と平穏な日々を送っていた。ある日「帰ったら少し話せる?」と唐突に告げた音はしかしその夜急死してしまい、言葉を聞けぬまま死別する。そして2年後、『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼された家福は広島へと車を走らせる。そこでは家福の意に反し、演劇祭の規則で運転手を雇うことを義務付けられていた。紹介されたのは渡利(三浦透子)という若い女性。家福は訝しげに彼女を見つめていた。そうして舞台本番までの、長いドライブが始まるのだった・・・

 

 

『ドライブ・マイ・カー』を見て、気になったので『カメラの前で演じること』『ワーニャ伯父さん』『女のいない男たち』を読んだ。チェーホフ村上春樹もはじめてだ。村上春樹についてはなんとなくのイメージで避けていて、実際読むとそのイメージもあながち間違いではなかったのだけれど短編ということもあってかとにかく読みやすかった。特に『木野』が面白く、モダンな『耳なし芳一』というか、怪談といえるような雰囲気があると思う。だいたい『耳なし芳一』で怖いのは、うっかり怪奇の世界へ踏み込んだ盲目の芳一が、恐ろしい足音と声に怯えながら孤独に夜を過ごし、耳を引きちぎられても叫び声一つ上げず座っていたという寄る辺なさにあるのではないか。『木野』も終盤そのような展開を迎えるので、やや怪談めいているなどと考えたのである。

 

 

そんな話と関連して、いるかはわからないが、『ドライブ・マイ・カー』もどこか怪談めいた話だと思う。それはまず声、つまり家福の亡き妻である音の、肉体を欠いた声がテープを通じただ一人のためだけに語りかけてくること、その声に応答すること、つまり肉体を欠いた存在が指名してきていることに怪談の雰囲気が漂っている。その声は平坦で、機械的というかもはや車と一体化したような印象まであり、テープの回転がタイヤにオーバーラップされるとより一層そう感じさせ、目を引く真っ赤なサーブ900の内側は、耳で死者を捉える異様な空間となっている。家福自身も渡利に「気味が悪いか?」といった言葉をかけているのだから、声がただならぬものであることには自覚的だ。

もう一つ怪談的だと思わせる要素に照明がある。これは家福と高槻の会話において顕著で、例えば彼らが初めて二人で飲みに行き、音の思い出を語る場面ではバーカウンターの光が照り返し顔に青い光がかかっている。またかつて音が語った物語の続きを高槻が滔々と話し始めたとき、二人の顔には僅かに青か緑の光が重なっているではないか。

高槻はこの作品において唯一音の思い出を有している人物だが彼は家福との連携を示さずむしろ、特異に顔面を照らす照明の通り、最も忌まわしい他者として現れる。そのことは高槻が音の言葉を語るときに理解できるだろう。このときカメラは2者の間に入り込み、それまで周到に同じ絵を避けてきた画面からは意外に思われる切り返しで顔面を捉える。この切り返しは家福を、ほとんど音と同化した車の中にあってかつてないほど狭く追い込み、また区切られた画面は高槻との連携も示さない。そして語られる内容、家福に語っていた音の物語の続きを、なんてことない若者、ただの喪失感を埋めるためだけの性行為しかしていないはずの若者の口から聞くことで、亡き妻との間にあった特権的な関係も幻想であったと宣言される。怪奇はこのようにして家福を襲う。

 

 

家福は音の行動についてみて見ぬふりをし、その原理については自ら組み立てた物語の中に押し込むことで納得していた。それが高槻と、そして渡利によって否定されるけれども、相手が見えていないということは実は序盤から、緑内障よりいずれ視力を失うらしいという事実によって示されており、また画面として夫婦が対面しているとき、例えば性交に際しても、彼らは正面からきちんと見つめあっていないことからも理解できる。さてこの点について最も面白いのはウラジオストクのホテルにいると嘘をつきオンライン上で会話するシーンではないか。家福と音、パソコン越しに正面から見つめあう両者の目が鏡によって画面には収められているけれどその高さは勿論あっていない。このとても不思議な「見つめあう」シーンで、見て見ぬふりをして逃げ去った家福はいったい何を見ているのか。

 

 

男は耳から怪奇にさらされるよりもはるか以前より、すでに盲目であった。しかし、高槻をしっかりと見つめること、渡利との旅の果てに同一フレームでの抱擁に至ることで、耳と目は解放された。そして(濱口風に言うならば)自分自身の最も深い恥に出会う「はらわた」の場に導かれた家福はこのようにしてようやく、音が唯一残したテキストである『ワーニャ伯父さん』を演じ切ることができるはずだ。
長い旅を経て、家福は完成させた。それはいくつかの着替えと楽屋の場面からも理解できるように思う。例えば家福が高槻と出会ったのは『ゴドーを待ちながら』終演後の楽屋で、ここで家福はメイクを落とし衣装を放り投げている(このカットも素晴らしい)けれど、このように疲弊した顔で素に戻るシーンをあえて入れたのは役者としての姿と普段の姿に差異があると示したいからではないのか。

次に着替えが重要となるのは稽古中に高槻が逮捕されたときのこと。彼は連行される前に「着替えてもいいですか」と問う。自分を抑えられない、と自他ともに認める高槻は「枠」からはみ出していく性質を持ち、ゆえにオーディションではカメラの動きを伴いつつアーストロフという役をうまく演じられたが、一方でカメラに収められることを極端に嫌い、また暴行の現場は画面外で起こる。最後まで舞台に残らなければばならないワーニャを演じるなど彼にはそもそも無理な話だったのだ。だから彼は役から降り画面から完全に退場するけれど、その際わざわざ着替えを要求するのだ。
最後に着替え/楽屋が登場するのは舞台本番。ここでは、出番を終えた役者が楽屋のモニターでラストシーンを見ており、家福には着替え/楽屋が用意されていない。思い返せば音の死後『ワーニャ伯父さん』を上演した際にも楽屋は映されず、劇中盤に舞台袖で苦悩する様しか見られなかった。このとき彼は役を受け入れきれず混濁し、またきちんと降りることもできずにいたのではないか。だが最後にはようやく音の呼び声に応じ、ワーニャをラストまで演じ切ることで昇華させる。だからわざわざ家福不在の楽屋風景が挿入されているのはワーニャのまま出番を終えたと印象付けるためで、そしてその後のことは、語る必要がない。

『ワーニャ伯父さん』を演じ切り涙を流す姿は正面から捉えられていた。その姿は演者によって、渡利によって、観客によって目撃される。正対できなかった男は音と高槻を失ったけれど、いくつもの位置の変化を経て、ようやく向かい合うことができるようになった。これで彼も、いつかほっと一息つけるのかもしれない。

ちなみに『ドライブ・マイ・カー』で優れていたのは四宮秀俊の撮影と山崎梓の編集だと思う。いろんな要素をミックスしまとめた脚色は確かに面白いけれど、言葉に頼る部分も多く特に北海道の場面は過剰ではないかと感じた。雪景色もイマイチ冴えていないし。個人的には次々にトンネルを抜ける夜の道路と、サンルーフを開けて煙草を吸うシーンがベスト。