リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を見た。

黄色いレンガの道をたどって

ウェス・アンダーソン監督最新作。ビル・マーレイオーウェン・ウィルソンティルダ・スウィントンフランシス・マクドーマンドジェフリー・ライトらが出演。

 

アメリカの新聞カンザス・イヴニング・サンの別冊でフランスにオフィスを構え、オリジナリティあふれる記事を届けるフレンチ・ディスパッチ誌。その編集長であるアーサー・ハウイッツァー・Jr(ビル・マーレイ)が亡くなった。彼の遺言により雑誌は廃刊。当代随一のジャーナリストたちによる最終号には毛色の異なる4つの記事が掲載された。

 

 

レア・セドゥ演じる看守シモーヌが、自らをモデルとしたフレスコ画の前を闊歩するシーンの、あまりにも不意な美しさに涙を流してしまった。理解というよりはほとんど反射的で、自分でもそのとき一体何に心を動かされているのかわからないまま、ただただ、目を奪われてしまったのである。

 

ここでの唐突なカラー、そして音楽とスローモーションは本作の構成、つまり各話が雑誌「ザ・フレンチ・ディスパッチ誌」の一記事という体に沿うならば、見開きのカラーページにあたるだろう。ではモノクロとはおおむねが文章に相当するはずで、その紹介を読み終え紙面をめくった瞬間の、美しさにはっと息をのむ感覚がこのショットには宿っているとひとまずは言える。だがまるで雑誌を読んでいるかのような感覚が映像によって再現されているから感動的なのではない。それはそれで仕掛けとして面白いが、ここではむしろ雑誌であることから離れて優雅に、映画が動き出しているからこそ感動的なのだと思う。

このフレスコ画について、作者であるモーゼスは「全部シモーヌだ」とつぶやく。なるほど、ならばこのショットは絵を通してではなく目の前にいる生身の存在としてシモーヌを見る彼の主観であるに違いない。そしてその彼女が不意に闊歩しだすアクションとは、「確固たる名作」を巡る物語を超えた、モーゼスの瞳だけが捉えた瞬間のはずである。しかもそれは、特異な状況で親密になった男女の、ある決定的な瞬間についてのショットだ。実際、奇妙に繋がりあう彼らの関係はここが頂点で終着点であるということは、のち添えられる言葉を待たずともほとんど理解できるだろう。ただ一度きりの、誰に語られることもない小さな、しかし決定的な瞬間が物語を超えて突然浮上する驚き。これが映画の美しさではないか。少なくとも僕はいたく感動した。フレーム外からの唐突な侵入や逃亡ももちろん見ていて楽しいけれど、これほど美しいアクションを内側から立ち上げるとは。これだけでもう、すっかり心を奪われてしまった。

ところで、これだけ親密に思える瞬間であってもシモーヌの厳格なる看守服がこのショットに過度な解放感を与えていないことは重要だと思う。ウェス・アンダーソンの作品においては、解放しきらないこと、その足掻きがまた何かと魅力的な気もする。ここではモーゼスも自傷により車いすを余儀なくされている。

 

さて「確固たる名作」はカンザスの大平原に、その顛末は「カンザス・イブニング・サン」の別冊である「フレンチ・ディスパッチ」に残された。ところでアンニュイ=シュール=ブラゼなる架空の街を作り出してフランスへのあこがれを表明しつつも、一方でなぜ本社はカンザスなのだろう。どうせカンザスといってもほとんどどこかわからないような場所しか映らないのであればそれもまた適当な地名でもよさそうなものではないか。

そう考えたとき浮かんだのがやはり『オズの魔法使』だった。望むものは既に持ち合わせていた仲間たちと別れ、「お家が一番」というかの有名なセリフによって故郷のカンザスに帰るドロシーの姿とこの作品が重なったのはカンザスという特別な地名に加え、終盤、ポリス料理の名人ネスカフィエ警部とローバック・ライト記者による「私たちは探している 置き去りにした何かを」「運が良ければ見つかるさ 私たちが故郷と呼んだ場所で」というセリフによってである。異国への憧れと同時に故郷の喪失が描かれ、それでもかつてもっていた理想へたどり着こうとあがくウェス・アンダーソン作品は虹の向こうとエメラルドシティを目指す話ばかりだ、というとちょっと極端な考えかもしれないけれど、しかしここでカンザスという地名が編集長の故郷として登場したという事実はなんとなく書き記しておきたいと思った。

 

ちなみに、ウェス・アンダーソンの作品はなぜ雷に打たれたり電流が体を走ったりするシチェーションが多いのだろう。謎だ。