リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』を見た。

とは云うものの、お前ではなし
ボブ・ディランが憧れたという伝説のフォークシンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクの回想録にインスパイアされた作品。監督はコーエン兄弟。2013年カンヌ国際映画祭において審査員特別グランプリを受賞。第86回アカデミー賞では、撮影賞と録音賞にノミネートされた。


ニューヨークのグリニッジ・カレッジで苦しい生活を送るフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)はある日、成り行きで隣人の愛猫を預かることになってしまう。住む場所のないルーウィンは猫と共に友人のもとを訪ねつつ、歌にしがみつく生活を送っていたが・・・

ルーウィンは、誰かに必要とされているわけではなく、むしろ不要だと思われているようですらある男だ。同じ部屋に住むことも、子供も望まれない。音楽家としてここに存在してはいるが、それが特別どうこうという事はない。どうも、特別な才能はないらしい。歌に特別な力があるとも描かれない。むしろ歌が現実に敗北する様ばかり描かれる。商売にもならないらしい。彼がいなくても金は回る。世界は回る。
猫は、その自由ままな振る舞いが厄介で迷惑なこともあるが、いないとさびしい気もする可愛らしい生物だ。どこに行くでもなくフラフラいなくなったと思ったら、いつの間にか帰ってきている。なにか役に立つわけではない。なついているのかもわからない。犬のように忠実なペットでもない。とはいえ、自分なりの考えがあるようでもない。
ルーウィンは、人様が大切にしている猫を大事に抱えているが、それが実はまったく違う別の猫であると気付かない。また探してたヤツじゃないならと猫を置き去りにし、あまつさえ殺しかけてしまう。家に帰れば猫はいつの間にかそこにいる。そしてその猫の名は、ユリシーズだという。



この映画全体が『オデュッセイア』のパロディなのは間違いないだろうが、僕としては「2つある」が気になった。例えば猫、扉、パートナーといったものが2つある。そしてそのうちの、「選択されない方」がルーウィンを表しているのではないかと僕は思う。映画のラストも最大級の「じゃない方」が出てきて終わる。
ルーウィンは漂流し、数々の人物と出会い、時に冥府へ彷徨い死者と(間接的に)対話し、結果皮肉的で哀しい結末へたどり着くが、「じゃないほう」ではなく、彼らしい生き方を取り戻すこともできた。その生は「それでもここにいるしかないか」という生である。ルーウィンは歌によって、希望らしきものを浮かばせてはそれが勘違いだと知る。現実はそんなもんだけど、それでもこうやって生きるさ。力強い宣言ではなくとも、絶望や冷たい諦観でもない大人な態度を、どこか優しさのある画面で迎えるのがこの作品だったのではないかと僕は思う。



撮影はいつものロジャー・ディーキンスではなく、ブリュノ・デルボネル。そのためか、キレッキレの画面というよりはほんのり暗い、靄のかかったようなイメージに僕は見え、それが作品のテイストにはあっていたと思う。ルーウィンが舞台に立つカフェの色味というか、雰囲気もとてもいい。冬の風景も厳しすぎず、嫌な寒さと足元のおぼつかなさが印象に残っている。
役者については、とりあえずジョン・グッドマンは毎度のごとく最高だとして、端のキャラクター、例えばセーター軍団や、やたらいい声のバックコーラスの存在感も可笑しい。そして当然、ルーウィン役のオスカー・アイザックである。ルーウィンという人間が滲み出ているかのようであり、声や仕草、そして目。僕はこの人の目に惹かれてしまった。



そして何と言っても、キャリー・マリガン。この人が最高だった。今までこの映画を褒めるように書いていたが実は、僕はこの映画を、いい映画だと思いつつ積極的に好きな作品とは感じていない。そんな中で、最も心惹かれ、ピンポイントで大好きなのがこのキャラクターなのだ。キャリー・マリガンという女優が好きなのではないし、タートルネックがどうということも・・・ないとは言わないけどそこではない。演じたキャラクターの毒舌というか罵倒のあまりの切れ味の鋭さに、思わずほほが緩んでしまったのだ。素晴らしき罵倒芸



罵倒されつくされたルーウィンの姿は惨めという言葉を通り越して切なさがあるが、そんな顧みられない彼も時に必要とされるようなこともあるし、やっぱり必要なかったりでも優しさに触れることもあったりする。希望は無くてもそこにいるということに、もしかしたら意味はあるのかもしれないと感じさせるこの映画は、好みではないけど渋い良さがあったとは思う。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス

インサイド・ルーウィン・デイヴィス