大げさで説明的かつ効率の悪い話運びには閉口させられるし、キャラクターの一貫性にも疑問を持たざるを得ず、ゴジラ撃退へ至る流れには居心地の悪さを感じるわけで、どうしても首を捻る部分の多い作品ではあるがしかしある場面、ある一連のアクションにふと惹きつけられ身を乗り出したシーンがあったのもまた事実である。それはゴジラが登場する場面……ではない。確かに、水平と垂直に円の動きを加えた場の創出や黒い雨のアイデアには喜び、特に小舟を追いかける様はどこか不気味で気に入っているものの、一方省略と呼ぶには実に都合のいい瞬間移動などややサスペンス不足でもあって、ニコニコ眺めていられる程度に収まるものだった。
では一体どの場面か。それは東京近海にゴジラが現れ、戦艦高雄が藻屑と化した後、神木隆之介演じる敷島が自宅へ戻り同居人の典子と会話をする、狭い室内でのやりとりについてである。
敷島を脅かし支配する恐怖の正体について告白するこの場面において、はじめ座っていた典子は煮え切らない彼の態度に思わず立ちあがり向き合おうとするも、男はその視線を避け女の背後に回り込むようにして逃げ、ついには座り込み、位牌や写真に目をやり怯えうなだれてしまう。この一連の人物の動き、そしてその流れを丁寧に、古典的な、アクション繋ぎで見せていることが重要なのだ。
立ち上がる、振り向く、歩く、また座り、見る。繋ぎの効果によってこれらの動作には滑らかなリズムが生まれている。セリフはともかく、説明的な切り返しによる硬直した空間、あるいは惰性で流そうというのではなく、映画の画面にしようという意識が窺える。そうやってきちんと画面を作ろうとしているおかげで、この場面は日本語がわからなくても何の問題もなく理解できるものになっていると思う。
敷島が何度も典子に背を向けるのは、これまでの視線の在り方からも自然に思われる。彼の目が捉えるものといえば両親の位牌であり戦死した仲間の写真であり機雷であり果てはゴジラと戦争の面影ばかりであって、戦後に出会った、生きることを肯定する典子とはそう簡単に対面できるはずもない。典子たちとの暮らしにおいて家族を意識させられる瞬間に映るのも、団欒ではなく彼女の背中だ。
さてこの場面は典子が敷島の背中を覆う形で抱擁することにより終わる。抱擁といえばこの前にも一度突発的な暴力のような形で登場していたが、その時と比べると典子は敷島の恐怖と向き合う気持ちが芽生えていることがわかる一方で、敷島は依然として現在と向き合えていない姿勢を保つ。そんな姿勢について、思い返せば大戸島の場面から敷島はよく座っており、立ち姿の人物から話しかけられる画面が続いていた。そんな彼が立ち上がる時はだいたいが何かに背を向けるためで(例えば逃げること、ゴジラ殲滅作戦に反抗すること)、ついには地面を這うところまで落ちるが、最後には戦闘機の座席から落下傘で飛び出すという、座る→立つの変奏に他ならない身振りをもって、背を向けるためではない直立の姿勢をとる。それが三度目の抱擁へと結実するのだから、人物の姿勢に関しては一貫した振付がなされていたように思う。
不満というほどではないが、少し気になるのは照明だろうか。先に上げた室内シーンもカメラの位置が下がると黒というほどではない薄暗さが顔にかかる。確かに床に照明などあるわけないからその方が自然だし、翌朝台所にて娘と戯れる場面にクローズアップがあるからそれでよいということかもしれないが、浜辺美波に関しては少し勿体ないように思えた。なお彼女の顔に当たる光で最もよいのは、はじめてゴジラを目撃するため振り返った瞬間だろう。一方神木隆之介は「震電」についての説明を受ける場面の光が最も良い。ここの切り返しはやや誇張された陰影がかかるようセットアップされていて、その光には贅沢を感じた。
ここまで書いてきたこと、繋ぎや照明を丁寧にやるなどということは本来は当たり前で、そのうえでここぞという場面を作り上げるものだとは思う。しかし莫大な予算をかけた大作映画、例えば最近のマーベル・シネマティック・ユニバースなど見ているとあまりの画面への興味のなさに頭を抱えることもしばしばで、その中にあって『ゴジラ-1.0』は貴重かもしれないと錯覚するほどなのだ。称賛できるような作品ではないとは冒頭にも書いたけれど、しかし映像に対する丁寧さがないわけではなく、割と楽しく見られましたよという話。