リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その51

『喜劇 “夫”売ります!!』(1968)

喜劇の名手として有名な瀬川昌治監督作品。といっても喜劇、コメディというのはどうも苦手であまり手が出ないジャンルであったため、最近まで恥ずかしながら作品どころか監督の名前すらも知らなかった。しかしふとU-NEXTで目に入った『喜劇 急行列車』を見て、これはなかなか面白いではないかと関連作品を探っていたところ、タイトルに惹かれ本作を鑑賞。これがとても素晴らしい、傑作であった。

 

京都の西陣織や灘の生一本を隠れ蓑に目立たず組紐や酒造りで栄えるこの忍者の地・上野伊賀、他人の監視と噂話が絶えない。そんな上野一の富豪、神代家の女当主・里子(佐久間良子)は2度結婚し2度夫に先立たれ、心なしか寂しい日々を送っていた。神代産業の副支配人・石上(川崎敬三)はそんな彼女の欲求不満を解消するため、里子の幼馴染でもある運転手の山内(フランキー堺)に目をつける。気弱で甲斐性なしの山内はそそのかされるまま里子と夜を過ごすようになるが、しばらくして事の次第を妻のなつ枝(森光子)に気付かれてしまう。しかし、なつ枝はどうせ稼ぎの悪い夫だから、そんなに欲しいなら売りますと言い出し・・・

 

 

言葉に耳を傾けるべき映画というものがある。それは断じて小難しい説明が続くとか気取ったセリフに溢れているからではない。この場合重要なのは内容ではなく、言葉がいかにして使用されているか、ということにある。脚本上にセリフとして書かれた言葉は、適切なやり方で実際に声になって発せられるときに、元々紙に書かれていた内容を以上にその人物や土地、あるいは集団、はては歴史という厚みを増すときがある。

この映画の場合、まずはまくしたてるようなペースで伊賀上野について語られ、続いてあちらこちらからあれやこれやのうわさ話が風のように駆けてゆくシーンから始まる。なるほど忍びの里である伊賀ではどうやら言葉の足も速いらしいく、ここで言葉の速さは舞台となる土地の風土か、気風を表している。実際に声になって発せられたことにより、言葉がその内容以上の厚みを持っているのだ。

さてではそこで暮らす人間はいかなることを、どのように喋るのか。例えば野望を抱えた川崎敬三フランキー堺をそそのかし、橘ますみと密約し、支配人である父を誘導する。彼の言葉はすべて暗躍、つまり忍びの言葉であるためトーンも話す場所も秘めたものになるだろう。あるいは世間体を案ずる安芸秀子が浴びせる雪崩のような小言は噂の広まりやすい伊賀を長年生き抜いてきた知恵の一つによるものかもしれないし、佐久間良子の初心と厳粛を行き来する口調には夫に先立たれた女当主という在り方が表れているのだろう。役の個性が喋り方に内包されているから物語の要請によって無理に喋らされているとは思わないしいわゆる自然体というものとも違う、いうなれば映画の喋り、役の活気を増し推進力となる言葉がここでは話されている。

 

 

そんな喋りの魅力が最大限に引き出されているのはタイトルでもある夫を売る場面だろう。細々と組紐を生産するもリンゴを買うことすらままならない貧乏暮らしに疲弊した森光子は淡々とした口調で話をするが、夫が売れると気づいたとき里子に彼の値段を試算し交渉する場面の生き生きとした話しぶり。小うるさい姑に別れを告げ、夫を売って得た金で大きく組紐生産に乗り出し、使われる側から使う側へと変わってゆく際の話し方の変貌ぶりは本作最大の見せ場で、もともと借金に追われているがゆえに金の計算に関してはめっぽう早く、その言葉の速さによって周囲を呆然とさせながら過去を清算しく様子は痛快である。

 

 

しかし森光子にもまして言葉をうまく利用する人物が最後に登場する。それは忍びの里伊賀上野らしい、自らはひたすら陰に隠れながら糸を操り自分の望む方向へと物事を運ぶという、なるほど土地と系譜の説明から始まったこの物語にケリをつけるには非常にふさわしいやり方を使う、老獪な人物である。そこで行われていること自体は喜劇らしいというのか、くだらないやり取りで軽妙さを失わない。言葉に耳を傾けるべき映画としてよくできた構成だと思う。

 

 

言葉の話を中心に書いてきたがもう一つ、視線の演出にも注目しておきたい。これは常に運転手として平身低頭、おどおどとして気弱な、売られる夫であるフランキー堺を中心に展開する要素で、特筆すべきは佐久間良子に連れられ二人で渓流へと出かける場面のこと。運転手は階段を下りる女主人の手を引く。しかし主人が段差を踏み外したことで偶然、彼らは同じ高さで見つめあってしまう。普段はまともに目を合わせることもできない間柄で唐突に起こる視線のぶつかりあい。一瞬の停止ののち、きまり悪そうに視線をずらすと二人はすぐさま体を離し、背中合わせになるようにして橋の両側へ避けていく。ふと川へ目を向けると遊ぶ子供たちが見える。やがて佐久間良子が場所を移し、横並びになってからもう一度向かい合い、二人は過去を再現する。この数分の中にある体運びと二人の視線の動きに、物語の発端となってゆく感情が詰まっている。見事じゃあないか。二人の演技と、おそらくは監督の振付のたまものであろうこのシーンからしても、瀬川昌治、只者ではないなと思わされるのであった。