2025年新作映画ベスト
Perfumeがコールドスリープに入った2026年。皆さんあけましておめでとうございます。とはいえもう小正月もすぎましたね。
さて毎年恒例の新作映画ベストテンですが、2025年は過去最も新作映画に心動かされなかった年でした。もちろん見られなかった作品は山ほどあります。横浜聡子、小田香、小森はるか・・・。とはいえそんなの田舎在住民にとって毎年のことですし、それでも一本は「これだ」と思う作品があったものの、2025年はそうならなかった。
もし劇場で鑑賞した作品すべてを対象にするならば1位は『リンダ・リンダ・リンダ 4K』です。高校生時分にテレビで見たときとは異なり、彼女たちあるいは彼らがそこに生きている、という感覚に序盤からめそめそと泣いてしまいました。感傷ではありません。すでに知っている作品、キャラクターに対し生々しく触れてしまった驚きです。ほかにはオリヴェイラを見られたことも忘れ難い。『ジャグラー/ニューヨーク25時』は見逃した。
新作映画に話を戻して、今年はベスト5とします。突出した作品とは出会えなかったけれどいろいろと良作はあった中で、何か心に残るものがあった5本です。
5位 春をかさねて

画面に力強さがある。どの場所にカメラを置けばいいのかの選択が見事で、震災遺構となった大川小学校のむき出しになった裂け目とそこから差し込む光に目が惹きつけられる。あるいはそれは、冒頭で記者からのインタビューを受ける姿と重なるかもしれない。つまりは日常に刻み込まれた暴力的佇まいである。なんてことのない通学路も素晴らしい。湖沿いの道路と自転車、土手、斜面、バスの風景。これは佐藤そのみ監督の経歴によるものだろう。だが重要なのはこの風景の下で視線劇が行われている点にある。視線の行方とそこに広がる空間、例えば保健室の場面にはびくりとさせられるし、終盤は生き残った二人の少女と、当時その窓から子供たちが見えたであろう光景、そして観客である私の視線がぶつかり合うかのようだった。
4位 ドールハウス

とても楽しい映画。画面が有機的に繋がって物語をドライブさせている。例えば冒頭のかくれんぼ=事故以降ではカメラの高さが異なることが多くなるため、常に視点を意識させられる。これが結末部まで続く。長澤まさみが悪夢の中で人形から受け取るおかしな光は、安田顕をもまた照りつける。光は風吹ジュンが不安定にライトを揺らしたりインスタントカメラを使った和室の攻防でより暴力的に進化するだろう。またはドラム式洗濯機の禍々しい円が様々に形を変え何度も登場することも忘れてはいけない。さてその中で心に残った個所を二つ。娘を見つけた長澤まさみの叫びに反応してカメラが掃き出し窓から外へと抜け、住宅街の一角を後退しながら映し出す場面。雨が降ったという情報なないにもかかわらず道路は濡れて、ぽつぽつと明かりが灯りだす光景はどこかアメリカ的でとても良い。もう一つは子役の恐ろしい形相が見られたこと。子役の形相がすごいといえば『祇園の暗殺者』がダントツだとは思うけれどこれもなかなか。
3位 旅と日々

河合優実が海辺でつけた火花と堤真一が囲炉裏の前で細く吐き出す煙の間には何の関係もない。あるいは、荒く切り立つ崖と円みを帯びた雪の山の間にも、蛸が住む湾と鯉を飼育する庭池の黒さにも、夜の闇に沈んだ風景の奥でかすかに存在を示す男女にも、何の関係もないはずだ。けれども、まるで前半の旅が後半の旅を暗示するかのように画面は呼応し合っている。それにしても光の美しいこと。夏の坂道にトンネル、おんぼろ宿屋に差し込む朝日、かすかなろうそくの明かりだけが灯るお屋敷の廊下(そして足元)、そしてようやく脚本を書き始めるシム・ウンギョンの周りで光沢する食器。こういった景色の一つ一つ、ショットが切り替わることに驚きがあるけれどそれは意外性ではなく、きちんと出来事の経過を示している。この映画自体が東京から旅をしている。ところで車に電車そして徒歩と続く旅は、どこか清水宏作品を思い出したりもした。宿の主人が使うジャッキのような装置の赤(『ケイコ 目を澄ませて』のジムを思い出す)もとても印象に残りましたね。
2位 あの歌を憶えている
無数の顔のアップから始まるものの以降カメラが顔に近づくことは禁じられて常に一定の距離を保つ。正面より横画を、あるいは後姿をと、顔は隠されてしまう。あまつえ横長の画面に頭部が切り取られてしまうこともしばしばで、顔はどんどん遠ざかってゆく。例えばピーター・サースガードがジェシカ・チャスティンの後をつける、いわば出会いの場面でも不用意にアップを選択しない。2度目の出会いで二人は横並びになるけれど決して親密ではなく、むしろある過去ゆえに突き放すための呼び出しだった。それが誤解だとわかって3度目の対話。はじめ男の顔は画面の四角に切り取られて見えないが、和解の後に視線の高さが揃って、おそらく唯一の、切り返しが挟まれる。ここで彼らは出会い直したわけだ。無駄なく進行する画面において、このような位置関係は重要な役割を持つ。例えばジェシカ・チャスティンは親との間には大きな問題があるので、彼女のみ立ち位置が異なる。この男女が横並びになって肩を寄せ合うことと、それぞれの娘と横並びになって肩を抱くことは全く別のアクションになっている。あるいはその娘が、”とある事実”以降叔母と正面では対峙していない。そして浴槽に落っこちる場面が感動的なのは、これらの積み重ねがあるからだ。もう一つ触れておきたいのがラストシーン。本作は基本的に室内の自然な薄暗さが特徴的で、だからこそ中盤以降は外の明るさが印象的なのだが、いわば4度目の再開となるラストシーンで、最も強い光を受けているのは彼らの出会いを導いた一人娘の横顔である。慎ましく美しい映画。
1位 HERE 時を越えて
ある座標の一点に刻まれた、幾世代もの家族の記憶を巡る奇怪な映画。というけれども記憶よりむしろ行為の再演と言った方が近いように思う。天井の水漏れは破水を導き同じように床を濡らして助けを求める。匂い分子を吸い込むという話題は百年後のコロナの罹患を先行し、のろまな自動掃除機は可愛らしい幽霊と騒がしい犬の侵入に変貌する。ご機嫌なウォークマンとエアロビはクリスマスにソファでふざける長男=父に端を発するが、そこでは同時に妹が勢いよくソファから落下するアクションも導かれる。これは来客の卒倒と、崩れた脚立とツリーの根元で横臥する母へ至るだろう。おかしなリクライニングチェアの発明は車いすの移動と収納型のソファーベッドにたどり着く。数々のアクションが時代を超えて同じ場所で再演される。思わず笑ってしまうこの連鎖は記憶というより、まるで家がなにかの装置になって、時代を超えて何世代にも渡り同じようなアクションを引き起こさせているかのようだ。そして固定されたカメラは、或る座標から眺めてきた歴史を過去としてではなく行為の再演によって現前させる。時間の流れは存在しているものの、回想のように画面を過去として扱いはしない。
そのうえで、記憶の薄れつつあるロビン・ライトが「すべて覚えている」と口にしたときに涙を誘われるのは視点の移行が行われるからだ。不動のカメラは彼女と夫の背後へ回り、彼らが見ていた風景=私達には見えていなかった風景を映し出す。画面に映るのはすでに売り家となったがらんどうの空間でしかない。だが、ある”思い出”をすらすらと語り始める彼らの脳裏には、我々が見てきたような時間を超えた風景が広がっているはずだ。このとき、観客である私(つまり家)と登場人物の間に、奇妙な絆が結びあがる。視点の緩やかな移行を通じて共有できるはずのない視点が共有されてしまったわけで、妙に感動してしまった。というわけで、この作品が2025年のベスト1です。
さて、このほかに挙げるとすれば、靴紐とマラソン集団と鬘の『新世紀ロマンティクス』、あられもない下半身で笑わせる不穏な『ミゼリコルディア』、綾野剛の目や顔に声の震えがほぼ天災の柴咲コウと対峙する『でっちあげ~殺人教師と呼ばれた男』、「心が折れる」までは相当に楽しい『爆弾』、ソフィー・サッチャーで魅せきる『コンパニオン』、巨大化不思議ノワール『愛はステロイド』、あるいは回転が楽しい子供ノワール『ふつうの子ども』、そしてジェイミー・リー・カーティス以来の困惑ダンスが炸裂する『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』の複雑な高低差アクションと妙な倦怠感も好き。好きだけど、ベストに並べるのは何か違うなと思った作品たちです。
ワーストは『〇〇式』です。近藤亮太監督は『UFO山』もいまいち。『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は良かったけれどね。どちらも役者の声が生かされているのはいい点だと思う。
さて2026年はスピルバーグに黒沢清と好きなベテランの新作のほか、久々に岨手由紀子監督作品もあるようですね。緒方明もか。ベニー・サフディも楽しみ。2015年以来となるPerfumeのドキュメンタリーもある。
それにしても、東京やら首都圏で小規模に公開しておしまいとか、地方で1日だけ特別上映しておしまいとか、そしてその後配信もありませんとか、そういうのはやめてほしいものです。なんとかならんもんか。
それでは次回は2025年旧作映画ベストでお会いしましょう。
最近見た旧作の感想その54 ~2024年旧作ベスト~
今更!2024年に見た旧作の中から特別面白かったあるいは心に残った作品についての感想を書いておこうと思います……と書き始めたのが今年の3月頃で、もういくつ寝るとお正月という2025年末になっていました。いまさらもいいところではありますが、せっかくちまちまと書いてきた記事を消去することもできず、しかも今年は一回もブログを更新していないのでこれはあまりにも虚しい、というわけでとりあえず完成させました。だいた旧作なら年度とか関係ないですしね。
よい子と遊ぼう(1994)
90年代生まれにとって平山秀幸監督といえば『学校の怪談』シリーズでなじみ深い偉大な監督で、例えば今年リバイバル公開された傑作『リンダ・リンダ・リンダ』に出演している前田亜季もやはり『学校の怪談2・3』に出ていたという点において特別な思い入れがある女優なのだけれど、さてその前年に撮られた本作にはデビュー間もない高橋一生が出演しており今見るとフレッシュに感じるものだが、とはいえ本作は『学校の怪談』のように妖怪が跋扈する奇怪な世界観とは異なり、子供たちは、現実的な鈍い暴力の危険にさらされる。
子供たちの縦横無尽な動きが面白い。例えば彼らの秘密基地にはおそらくすべて盗品であろういくつもの遊具が置かれ、ローラースケートにバスケットゴールと、ルールなくそれらと戯れては飲んで食って寝転んでと、気ままに楽しんでいる。彼らの周囲には、常に無数の光源が設置されているのも大きな特徴だろう。例えば盗んだ冷蔵庫をトラックの荷台に乗せ、テールランプの光並ぶ薄暮れた道路を走り抜ける場面で、彼らはやたらと電灯を弄んでいるし、秘密基地の屋上にはどうやって集めたのかというほど煌々と灯りが溢れている。暴行魔と対峙する夜の郊外風景は金属に反射する光が冷く、工事現場や階段など異空間と言いたくなるほどだし実際カットによって光の位置も変わっている。だからこそ面白い。ちなみに撮影は芦澤明子。インタビューによるとこの作品をきっかけに、映画のカメラマンとして活躍していくことになったようだ。
続・丹下左膳(1953)
マキノ雅弘監督の作品を多く見た一年だった。見るほどに、この監督の200を超えるというフィルモグラフィーの全貌とはいったいどのようなものであったのかますます気になる。とにかく楽しい。そして常にはっと目を奪われるような美しいショットがある。例えば窮地の女を抱え素早く身を翻したり(『いれずみ半太郎』)、あるいはしなりと身体を崩させたり(『喧嘩笠』)、または不意な光によって際立つ顔あるいは影(『港祭りに来た男』)、といったような場面で、挙げればきりがないのだが、さてこの映画に関してはそんな中でも突出した美しさを持っている。
闇夜に大勢の御用提灯が浮かぶ冒頭から張り詰めた緊張が一度も解かれることはなく、ひたすらに狂気と破滅へ邁進してゆく男を描いた本作はどの場面も密度が濃く、冒頭にある橋の場面だけで瞠目させられるし、セット撮影に豊かな奥行きを与えるように人々が行き交う風景にもいちいち感嘆するのだけれど、一層素晴らしいのは水上をゆっくりと滑る小舟の上で水戸光子が吐き出す、一条の孤独な白い吐息である。土手を囲む提灯の軍勢から凶刃を受け、彼女はすっと最期の息を吐いたあと、小舟の流れに従って背中から崩れる場面の美しさに、思わず息をのんだ。映画史に残る場面とはこういうものを指すのではないのか。
ちなみにこの場面、この作品からはマキノ雅弘が水に愛されている監督であることも理解できるだろう。疑うならば『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』で森の石松が政五郎と出会う場面を、あるいは『仇討崇禅寺馬場』で小舟たちが岸へ押し寄せる様を見てもらいたい…と言ってたもののマキノ雅弘なる作家のほとんどは結局わからないのだから、分かったようなことなど何も言えないのである。
シモンの空(2012)
スキー客の荷物から食事と飲み物を漁り出し、板まで盗み出した少年は山を下り、ソリに戦利品を乗せて道路を渡って「何でも手に入る」とうそぶき金に換える。冒頭のシークエンスである。この少年の行為、やせっぽっちな体にぼろぼろで汚れた靴下、または鈍い色の空に寂れた建物、そして登場するやいなや車を蹴り立ちションをする少年の姉(レア・セドゥ)といった存在たちが簡潔なショットによって積み重なり、この作品の淡々として息苦しく、孤独で退廃的な空気を醸成する。
姉弟、というがこの2人の役割や立場は流動的で、それは彼らにまつわる真相ともかかわる話になる。繰り返されるリフトや徒歩での移動は、目の前に道路が伸びているにもかかわらず彼らがどこへも行けないことを示しているようにも思えて(車を拒否されること)、その極めつけとしての惨めな家族泥レスとすれ違いが胸を打つ。ずるずると引きずること。
蜂の巣の子供たち(1948)
清水宏監督の風景がいつだって感動的なのは、その風景が単に絵葉書的美しさにとどまらず、歩くということを通して、風景が、いわば息遣いを伴っているからではないか。戦後の下関駅から、線路沿いの道を抜けて山間部から海辺へと至る舗装されていない道を子供たちは裸足同然で駆ける。ひたすら人や乗り物とすれ違いながら旅を続ける。地面を踏みしめていく肉体や車や船の確かな感触が、風景を過去のものとしてではなく、今まさに子供たちが生きている場として映し出されている。それにしても画面をゆっくりと横切る蒸気機関車とそれに並走する、粒のように小さな子供たちを捉えたショットの雄大で優雅な美しさはいったい何だろう。思わず涙を流してしまうほどだ。
さて、物語のクライマックスは少年が栄養失調で倒れた友人をおんぶして登山する場面である。四つん這いになって斜面をよじ登る姿にも涙を禁じ得ないが、ここではその山の頂上を、麓の小屋から二人で見つめる場面について話したい。病気に臥す友人から、「ヤギの乳を飲んでいいから頂上へ連れて行ってくれ」と少年はお願いされる。乳の入った薬缶は陽の光によって寝床で美しく輝き、湯気は優しく小屋に漂う。友人はそのまま、地面に足をつけることなく少年におんぶされて小屋を出ていき、帰らぬ人となって小屋に戻ってくる。そのとき薬缶はやはり寝床の上に、しかし冷たく、ふたが閉められ置かれている。この表現にも目を瞠った。余談だが、三宅唱監督『旅と日々』を見た際この場面のことを思い出した。
ロケーション(1984)
ある映画クルーの珍道中を描いた作品。彼らが手掛ける作品はほとんど崩壊しかかっており、冒頭からセットは崩壊し、主演女優は自殺未遂を起こし代役も逃亡、さらには監督まで緊急入院する羽目になっていて、急遽監督代役を務めることになったカメラマンべーやん(西田敏行)は残り数日でクランクアップさせなければならないという絶望的な状況に追い込まれる。しかし偶然、クルーは撮影現場で掃除婦をしていた少女・笑子(美保純)と出会う。
連れ込み宿の裏口からボイラー室に入ったクルーたちは、いくつもの吊るされた洗濯物をよけるように身をかがめつつ、ここで殺人シーンを撮影しようじゃないかと話している。戸を外しながらあちこち見て回るうち、彼らは白いシーツに覆われた遺体のような何かを見つける。おそるおそるシーツをめくると、そこに横たわっていたのは美しい半裸の若い女性であった。死んでいるのか?足で軽く触れてみると彼女ははっと目を覚まして素早く立ち上がり、ボイラー室を逃げるように立ち去る。
このシーンの素晴らしさたるや。狭い室内の風景を複数のカットで変貌させつつ、探索・発見・逃走のアクションで流れを作り上げる手腕もさることながら、重要なのは殺人シーンについて話しているうち、あわや遺体かという女性を見つけること。つまり虚構が現実になるような瞬間が描かれているという点にある。しかも不意に見つけたその女性は結局映画のミューズとなって死にかけの映画を救う契機になるのだから、彼らの作る映画という虚構は、動き出しの時点で現実との境目を曖昧にしていることになる。その後もクルーは脚本を都度変更しながら路地や学校や廃屋で度々無断撮影を繰り返し、ただひたすら笑子の足取りを追いかけ、目の前で起こる現実を執念のカメラによって映画にしてしまう。生きている人は倒れたり転んだり、死んでいるはずの人がふらりと現れたり、本当と嘘が拮抗し合いながらすさまじいエネルギーで転がってゆきながらも、それらを眠りと風呂、つまり生活を冒頭と結びに置いて挟さんでしまうとんでもない傑作。
以上が2024年に見た旧作のベストです。あと数日で大晦日になりますが、その時にはまた2025年新作映画ベストでお会いしましょうね。
いまさら!2024年新作映画ベストテン
2025年が馴染んできたころかと思いますが、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
さて、当ブログではかつて「今年の映画、今年のうちに」と題して大晦日にその年の新作映画ベスト記事をアップしていましたが、昨年に続き今年もPerfumeカウントダウンライブのため遠征していたので間に合いませんでしたね。2年連続で時流に乗り遅れての更新となりました。
とはいえ、ちゃんとやります。2024年新作映画ベストです。新作、といっても僕の住んでいる地域で初公開となった作品を指しますので、よっぽどのリバイバルは入りませんけれども、多少のずれは気にしないでください。
以下、ベストテンです。
10位 Chime

2024年に公開された3つの黒沢清作品のうち、最も感動したのが吉岡睦雄が土手を登り赤いシャベルを投げ捨てて走り出す場面。狂人の徒労感というのはやっぱりいいなと。怪奇へ突入していく『蛇の道』と『Cloud』も好きだけれども。
9位 フェラーリ
サングラスがまるで顔と同化したようアダム・ドライバーの歩き姿だけで面白い。けれどもなんだか、よくわからない作品だ。おそらくはどこか不気味な印象を残すところに惹かれているのだと思う。不気味とは上手か下手かに配置された顔の、どこをも見ているとも知れぬアップか、あるいはペネロペ・クルスの幽霊じみた表情へのピンと送りか、または2度、サングラスをかけるという動作が強調される場面の不思議さか、もしくはほとんど棺桶のようなレーシングカーに乗せて送り出す様か、そして紙屑のように吹き飛ぶ人体か。
8位 ロー・タイド

良質な犯罪映画。落とした靴からギプスへの、極めて自然な流れにサスペンスが組み込まれている。葉巻や拳銃もそう。無理なく、無駄なく配置された人物から引き出される最小限の説明によって、最大限の効果をもたらす効率の良さに舌を巻いた。嘘のように浮足立つ観覧車と対比されるように、「成果物」は深く隠される。その結末を飾る(あるいはこれも、水辺をも照らす冒頭の懐中電灯と呼応しているのか)花火が美しい。
7位 トラップ

ライブ会場での流れるような手つきと目線誘導、それにジョシュ・ハートネットのデカさが際立つ移動や、障害物としての群衆、切り返しではやや上にくる顔面の圧と表情芸も楽しんだけれど、一番好きなのはサレカ・ナイト・シャマランが彼の自宅へ乗り込む場面。1対4の関係性を上手く入れ替え、また絶妙なタイミングでカメラを引くなど非常に見ごたえのある場面だ。あのでかい図体が中途半端にシャッターで隠れるショットも忘れ難い。
6位 夜明けのすべて

傑作『ケイコ 目を澄ませて』同様、なんてことのない街並みや路地に橋、トンネルといった不意に映し出される風景のあり方に感動させられる。例えば松村北斗が住んでいるアパートは線路沿いにあるらしく、はじめそれは音によってのみ示されるが、後半には画面を横切る電車が見える。同じ玄関から、異なる風景が生まれているのだ。だからカメラは、常に「ここしかない」という場所に置かれており、なおかつ大胆に外から内あるいは右から左へと動いて、今この時の風景を形作っている。そんなさらりと通り過ぎていく一瞬たちに感動した。ただ最も印象に残っているのは、上白石萌音が倉庫で見つけたノートを開いた瞬間顔に当たる、理屈の不明な、しかし忘れ難い強い光である。
5位 ありふれた教室

イルケル・チャタクというドイツの監督は1984年生まれだからちょうど三宅唱監督と同年代で、この作品が長編4本目にあたるらしい。一方、撮影監督ジュディス・カウフマンは62年生まれですでに長いキャリアがあり、かつてはラウール・クタールに師事していたらしい(ピア・フランケンベルク監督『Burning Beds』(88)か?)。前置きが長いけれど、つまりはこんなことを調べてみたくなるほど面白い。ちょっとした手続きのミスが波紋のように校舎中へと広まって、右から左、出たり入ったりのアクションを連続させる。立体的な画面を生み出す装置としての窓ガラスや扉に階段は、同時に分断と追跡のサスペンスを生み出す装置でもある。せわしない動き中でも埋没しないレオニー・ベニシュの表情。これらが臨界点を迎えるまでが、緊張感を保って描かれている。
4位 コット はじまりの夏

牛乳をひっくり返され疾走する冒頭でいきなり心をつかまれた。水汲み場面での二重気味なアクション繋ぎにはちょっと笑うけれど、スタンダードサイズの画面はフレーム内フレームによって静謐かつ端正で、その中で口数の少ない少女コットは何かを見つめてよく首を動かす。この横顔と視線の繋ぎの確かさが全編を貫き光っている。例えば月夜の浜辺での、微妙にズレて表情を読み取れない切り返しは「これが最も良い選択だ」と思わせてくれる。一つだけ惜しいのは、最後にリフレインする場面が、すでに一度登場したショットであるということ。コットの目線からはこう見えていたという新しい目線であったならばより好きになっていたと思う。
3位 劇場版 ほんとうにあった怖い話 ~変な間取り~

誰もいるはずのない戸建ての方々から不意に伸びてきた手が、きわめて単純な動作を静かに執り行いはじめる場面の恐ろしさに息をのんだ。その行為がもたらす光景も勿論不気味ではあるが、しかしそれ以上に、まるで何かが「語りかけている」と錯覚させられたことに恐怖を感じたのである。これは3篇ともそれぞれ異なるジャンルを扱いつつも、思い返せばすべて「声」が重要なモチーフになっている連作だからこそ押し寄せてきた禍々しさであり、そうとは気づかずに連れてこられた地平から生み出される途方もない悪意に、すっかり心を奪われてしまったのである。そして芸人・みなみかわが魅力的なのは、風貌よりむしろあの特徴的な声にある。
2位 エイリアン:ロムルス

感想はこちら→『エイリアン ロムルス』を見た - リンゴ爆弾でさようなら
これは単に過去作の要素を詰め込んだだけのリサイクル品ではない。むしろ『エイリアン』を特異点として神格化する姿勢を拒み、アメリカ映画の中へ積極的に埋め込もうとした結果生まれた、極めて良心的な娯楽作品だと感じた。だからこそ好き。
1位 枯れ葉

傑作。不意なカメラのパンによってある男女の空間が繋がり、視線を投げかけあってはすれ違う出会いの場面を忘れることはないだろう。皿を買うことと花を買うこと、その皿たちをごみ箱へ捨てるアクション、窓辺に佇む紳士をはじめそこにただ居る人々の魅力的な顔と背中。美しい明と暗が連鎖する画面に心奪われる。
女の自宅でささやかな食事を終えた男が、彼女の目を盗むようにして酒を飲むとき、画面の中心に表れるのは犯罪映画のごとき黒い影である。それを咎められて、男は室内へ通じる開いた扉を無視して退室することを選ぶ。こうして女はただ窓の外を眺める生活へ、男は酒に飲まれる日々へと戻る。『枯れ葉』は窓と扉のメロドラマだ。彼らは窓の外のどんな風景を見ているのか、あの映画館がどんな通りに面しているのかは、誰もわからない。けれども「窓」と「扉」がある男女を結び付けてはすれ違わせる装置として働いていることは確かだ。路面電車の光、あるいは雨の窓辺にもいたく感動して、オールタイムベストの一本となった。
以上が2024年ベストテンです。このほかには『オーメン:ザ・ファースト』『陪審員2番』『メイ・ディセンバー ゆれる真実』『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』『どうすればよかったか?』も好きでした。
見られなかった作品だと、『石がある』『すべての夜を思い出す』『ラジオ下神白』『化け猫あんずちゃん』『デッドストリーム』が特に気になりますね。田舎民にはかなり厳しい条件のものもあります。たとえば『若武者』のように公開規模は小さくてもすぐ配信で見られればいいんですが。ちなみに『SUPER HAPPY FOREVER』はつい先日見ることができました。
ワーストは『ルート29』。悪し様に言うような作品ではありませんが、狭くて驚きのない画面だと思いました。『こちらあみ子』が面白かっただけに残念。
2024年もブログの更新回数はひどく少ないわけですが、なんとか増やしたいものです。内容はともかく、書くのって面白いですからね。とりあえずは2月中に旧作ベストをなんとかしますので、そちらもよろしければ読んでくださいね。
『エイリアン ロムルス』を見た
遥か空に暴君

1979年に公開された記念碑的名作『エイリアン』。そのシリーズ6作目となる最新作。監督は『ドント・ブリーズ』などで知られるフェデ・アルバレス。主演はケイリー・スピーニー、デヴィッド・ジョンソン、イザベラ・メルセドら。製作にはリドリー・スコットが名を連ねる。
原点回帰という、胡散臭くて退屈なあのきまり文句を、今回に限っては大いに歓迎したい。『エイリアン:ロムスル』は真っ当に原点回帰を果たした堂々たる恐怖映画である。ただしここでいう原点とは、1979年に公開されたエポックな、完全なる有機体という新たな恐怖を生み出した歴史的名作を指しているのではないし、何かしら尖った表現で人気を保ってきたシリーズのことを指すわけでもない。俎上に上げたいのはそれらよりはるかに古典的な、吸血鬼という怪物についてである。
陽の当たらぬ惑星で不法な労働を強いられてきた若者たちはあるとき、はるか上空にわけなく漂う宇宙船を発見した。ロムスルと名付けられたそれはその名に反してすっかり聖域が侵され廃船と化しているらしく、彼らは過酷な環境からの脱出のため、物盗りとなってその船へ侵入する。
アイリス・インのような丸扉をくぐった先に広がるホール。そこに階段があるということに感心した。利便性の低そうな、やや大仰にも感じされる階段から、あぁこれは恐怖映画の舞台と反射的に納得させられる。それになぜ階段を上った先に冷凍睡眠カプセルが置かれているのか。しかし理由など問題ではない。本来屋敷の主人がいるはずのスペースに保管された、この棺桶に似た装置はいずれ我々を震え上がらせることが何より重要なのだ。
さてすんなりと目的の物を見つけた若者たち。しかし誤算は、その船がウェイランド・ユタニという著しく倫理観を欠いた会社の持ち物だったことにある。例えば人間の顔に張り付いて体内へ種を植え付ける寄生体を保管していたり、あるいは「完全なる有機体」の体液を人体に適応させる研究を行っていた彼らは、その成果物がひとまずの形になった矢先、怪物に襲われて全滅したらしいと、喋る航海日誌ことユタニ社製アンドロイドによって語られる。哀れな若者たちは宇宙を漂う廃船が化け物の巣窟であったことなど露知らず内部に潜んだ邪悪を目覚めさせてしまうわけだ。
これまるで『吸血鬼ノスフェラトゥ』ではないか。つまり、病を広めるネズミの大群と、闇に紛れる怪物を積んだあの帆船。最後には無人となって水面を静かに滑るように入港する、死そのもののような恐ろしく美しいあの幽霊船のことである。
ロムルスが崩壊して廃墟となった今、ユタニ社の目的はその無事に研究成果を持ち帰ることだ。その手先たるアンドロイドは、物取りとして侵入した若者たちに対して解放を約束する代わり、研究サンプルの確保を命じる。宇宙の植民地を再興させる切り札になりうるその物体はローマの伝説に倣うのならばさながらサビニの女か。もちろんユタニ社製の薬品など当然安全なはずもなく、醜悪な惨劇を招くことになる。つまりいくつもの悪を乗せたロムルスもまた、決して港に到着させてはならない、死を運ぶ幽霊船なのだ。
醜悪な惨劇。それはイザベラ・メルセド演じる妊婦・ケイの身に起こる。彼女は先の液体を自らに注入したことでエイリアンとも異なる怪物を産み落とすわけだが、その生白くて虫のように細く伸びた手足が奇怪な、しかしヒトに似た怪物が母親たるケイの首筋に噛みついて、極めて陰惨かつセクシャルな雰囲気を漂わせる姿など、言うに及ばない。
思い返せば、肩をこわばらせ指先を開き怖気立って歩くケイの、一目で恐怖が伝わるシルエットに『吸血鬼ノスフェラトゥ』の息吹を、マックス・シュレックの伝説的姿を重ねることができたのは偶然ではないだろう。彼女は首元に打ち込んだ液体によって、妊娠・出産という自分では調整できない体内の仕組みから犯され変容させられたわけだ。ちなみにこれはフェデ・アルバレス監督が精液・血・蝋と繰り返してきたモチーフでもある。
エイリアンシリーズでは珍しく船の内外で役割を持たず、守られることが前提となるケイが、物語上最も重要な存在であることに異論はなかろう。そしてそれは、本作が古典的な恐怖映画の流れを汲むのと同時に、実のところ家族の映画であるということにも関係している。
『エイリアン:ロムルス』とは実際、独裁的に若者を支配し益を独占する旧世代と、その体制の元親を失った者同士が身を寄せ合ってコミュニティを形成する新世代との衝突の物語である。自由を押さえつける支配的な惑星=我が家から抜け出して新天地での生活を夢見ている若者たちは、故郷へ戻ることなど考えはしない。それが地球という絶対的故郷があるエイリアンシリーズとは大きく異なる点だ。だがそう簡単に支配を手放さない旧世代=ウェイランド・ユタニ社は、自分たちが支配できる宇宙船内に彼らを閉じ込め、都合良く働くことを強制する。つまり本作で繰り広げられるのは宇宙の果てで神秘的恐怖と対峙する物語ではなく、加藤幹朗氏がいみじくも指摘した、ファミリー・メロドラマなる世代間闘争の1形態といえるのではないか。
その中で、赤ん坊は新世代にとって「太陽の光を見せたい」という希望であり、旧世代にとっては彼らの成果物と合わさることで「植民地復興の鍵」という希望になる。ケイは捕獲と奪還によって両者の中間に位置させられることで結果最も踏みにじられ、尊厳を破壊される存在だ。
そうして生まれ出た畸形の赤ん坊をレインは船外へ捨て去ろうとするものの、その体液に酸を感じて投げ捨てる。あわてて冷気の噴射による殺害を試みるもその瞬間、外殻の裂け目からチラと除いた顔が自分たちに「似ている」ことに動揺して手を止めてしまう。この一連のアクションは旧世代の遺物である怪物を相手にした世代間闘争が最も苛烈に表出しているとともに、「あってはならない現実と触れ合ってしまう恐怖」に襲われる素晴らしいシーンである。そして実際、怪物は姉弟・兄妹が中心の新世代において、親殺しあるいは近親相姦という「あってはならない現実」を行う破壊者でもある。我々はファミリードラマがホラーによって内側から食い破られる様を目撃するわけだ。
闘争を制したレインとアンディの姉弟は新天地へと旅立つ。ユタニ社製アンドロイドのアンディは旧世代を代表する存在なので本来目的地へは行けず、途中で投棄されるはずだった。仲間から本当の家族じゃないと諭され、今や機能停止に陥りつつある、"もともと捨てられる予定"のアンディを助けるなど、目的を達成しタイムリミットが迫る状況では、全く無駄なはずだ。だがそれでもレインは扉を開いて引き返す。その瞳が活劇を生む。事実、ここから彼女は侵入者・被害者から対峙する者へと変貌し、いよいよ自ら扉を開き上下への移動、切り離すことを繰り返して、エイリアンとアンドロイドに代わって活劇を牽引する。映画が扉の開閉のリズムによって走り出し、最後まで緊張感が持続されるのはこういった主体の変奏があるからだろう。
『エイリアン ロムルス』はだから、定型的な娯楽映画といえるかもしれない。だが一体それの何が問題だというのだろう。定型的だからこそ到達する映画の面白さに触れられるこの作品は、個性的を装う凡百の作品よりもよっぽど素晴らしいと私は信じてやまない。
最近見た旧作の感想その53~いまさら!2023下半期旧作ベスト~
本来今年の1月に更新するはずだった2023年下半期旧作ベスト記事ですが気づけばもう2024年の上半期が終了。今更書いてもな、とは思ったものの一応は継続してやっている内容なのだからと思い直して記事を書きました。しかし半年以上前に見た作品数本についてあれこれ思い出して書くのはいつも妄言ばかり吐いているようなブログとはいえさすがに難しい。なので、今回は昨年下半期に見た中で最も印象に残っている一本に絞って感想を書くこととします。
『紅蓮華』(1993)
光を受けて明るくなったステンドグラスの他はほのかにランプが灯るだけの暗く落ち着いた喫茶店で、ある男女が結婚について話している。女・さくら(秋吉久美子)は、戦時中にわずか4日間ともに暮らしただけの夫があるものの戦死し、その後も夫の実家で幼い息子と苦しい暮らしを強いられていたが戦後解放されてからは懸命に働いて財を成し、息子もだいぶ成長したことを機に再婚を考えていると、少し浮足立ったように話している。男・建造(役所広司)の方は落ち着いて、結婚には前向きな姿勢を見せつつ現在はほかに付き合っている女性がいるからその関係を清算するまで待ってほしいと、淡々とした調子で答える。
『紅蓮華』の冒頭にあたるこの場面は全12カットで構成されている。そしてその12のカットには、一つとして同じ画面がない。カメラの位置あるいは被写体のサイズは常に変化し、二人はその内側から、あるいは急に離れた距離から捉えられる。非常に手の込んだ設計だが、やや急いて話すさくらとそれを受ける建造の関係に似合うものにも見えるし、喫茶店という、公衆でありつつ内緒話が似合う特殊な空間に似合うようにも見える。
手の込んだ空間設計は続く。例えば、さくらと建造夫婦の下へ押しかけてきた愛人・洋子(武田久美子)と3人で朝食をとる場面ではまず室内に置かれたカメラがその奇妙な共同生活を捉えるが、建造が仕事へ行くという段になるとカメラは家の外へ飛び出す。そうして素早く立ち上がって甲斐甲斐しく尽くす愛人の背中と、広い空間に一人取り残されたさくらの姿を、我々は「外側」から見つめることとなる。
ここでは愛し合う夫婦の親密な空間であるはずの「家」が一人の闖入者によって乱され、本来あるべき姿からははじき出されてしまっている状況がカメラの位置によって視覚的に理解できる。つまりカメラポジションを変えるのはただ徒に画面の変化を求めた結果ではなく、物語に沿って丁寧に構成・選択されているのだ。
一方で、かなり「おかしな」カットも存在する。さくらが稲野和子演じる母に再婚を報告するも没落旧家の長男などもってのほかと取り付く島もなく否定され、しかしそれを意に介さずに負けじと批判し返して反目し合う一連の場面。さくらの言葉に憤慨した母は彼女の存在を遮断するように部屋の奥へ去って襖を閉めるものの、間髪開けずに襖は開かれ、その圧に押された母はほとんど見放すようにして再婚を認めることとなる。
この流れは3つのショットによって構成されているが、おかしなことに、さくらの「襖を開ける」動作が二重になっている。「母が室内へ逃げ込み襖を閉めるも間髪入れずに開けられる」カットが一つ、「その勢いに驚いた母の顔のアップ」が一つ、「閉じていた襖を開ける娘と、背を向けてその場に座り込む母」のカットが一つで、つまり「襖を閉める」動作は1回のはずなのに、「襖を開ける」動作はアップを挟んで2回行われている。これは画面の流れに混乱を生じさせるほど不自然で何かの間違いかとも思わされるが、しかしその直前ではきれいにアクションで繋いでいるのだから意識的に二重にしたと思われる。実際このおかしさによって、本来襖によって区切られるはずの空間がこじ開けられたという印象は強まっている。
建造と愛人との関係についてさくらが問い詰めるシークエンスにも不思議なずれが生じている。はじめ、カメラは書斎奥の机に向かう建造の背中と、その斜め後ろで真横を向いて座るさくらの両者を捉えており、建造が居直って妻を非難しはじめるとカメラは男の真横に移動する。そして度々視線をこちらに向けながら喋っているのだが、これはおかしい。さくらは彼の斜め後ろに座っているのだから視線を向けた先には誰もいないはずである。しかし確実に、その誰もいないはずの空間に目線を向けている。3カット目にはまたカメラ位置が大きくずれて、狭い室内で視線はちぐはぐに交錯する。
これらの画面について考えたとき、そもそもこの作品には切り返しというものがかなり限られていることに気が付く。クローズアップ、構図-逆構図で向かい合って関係性を結ぶような2者はほとんど登場せず、だいたいの会話は一定の距離を保つことで客観的に捉えられるものの、そこに突然主観性を持ったアップが挟まるか、あるいはズレることで身勝手さや噛み合わない孤独が強調されている。
ちぐはぐな夫婦の関係性を示す空間としてとりわけ見事なのは、ダイニングキッチンで酒をあおる建造と、和室で着替えるさくらとのやり取りである。隣り合って繋がっているはずのこの空間でのやり取りは3度繰り返され、それぞれ異なる色合いを持って男女の断絶が強調される。
さくらの提案により、建造は愛人の洋子と実の弟を結婚させるがその式の後、憑き物が落ちたように軽やかに帯を解くさくらに対し、夫は背を向けたまま「今後も指一本触れない」と冷淡に宣言する。一瞥もせず、ただ妻の提案は間違いだったと口にし続けるばかりだ。
数日後、今度は上機嫌に酒を注ぎながら「仲のいい友達同士の夫婦でいよう」と告げる夫を静かに見つめて、さくらはだらしなく座り込んで荒涼とした面持ちのままストッキングを脱ぐ。相変わらず、この二人の目線が合うことはない。さくらのクローズアップから全身のカットへ変わるタイミングがやや奇妙で少し動揺するわけだが、それ以上に彼女の孤独を強調するジャンプカットにここでは驚かされる。
さて3度目はそれから長い年月が経って建造の母の葬式後のこと。ここでついに二人は不意に見つめあうけれども、建造はさくらの艶めく肉体に魅了されながら、同時に怯えるかのようにして再び背を向けてしまう。
それからこの夫婦の間にもようやく身体的な接触が増える。とはいえ、それは自殺へ向かう夫を止めるための行為だから夫婦らしい生活が始まったとはいえまい。戦中に旧家の長男として生まれ、没落していく中で自分の人生などないと信じ、社会の変化に背を向けていた男。それがうっかり妻の生々しさを見つめてしまったことによって、反対に積極的に死へと向かう羽目になる。妻が差し出す物には決して手を付けず、荒れ果てて家を出ては律儀に戻ってきて臥す姿などどこか怪談の趣があるようにも感じられて、夫の体に手を這わす妻の姿には引き留めるというより憑りついたという表現が似合うようにも思われた。というのも、過去と家に自分の存在を縛り付けてきた建造にとって、過去と家を捨てて新しい生活を切り拓いたさくらは、そんな古臭い生き方は脆くて空虚でとっくに衰亡しているのだと突き付けてくる「おそろしい」存在かもしれず、まともに向き合って目が合えば死が待っているのも必然ではある。建造はそのことを自覚してしまったから自殺せざるを得ないのではないか。
建造は紅葉の盛る川岸でガソリンを飲み干して、自らを車もろとも爆発させこの世を去る。やや作品にそぐわないトーンにも見えるが、これは、彼がほとんどの場面でたしなんでいたタバコと酒の変奏に他ならない。彼は酒癖の悪さによって現代への憤りや普通の生活の否定を表出させてきたが、戦中派の男が内部にため込んだ現代への抵抗は母の死と妻のまなざしによって無意味な過去となり、本質的な脆さだけが残った。酒場で飲んで倒れる反動的アクションはリクライニングシートでゆっくり後ろに体を傾ける緩やかな動きへと変化して、男は生涯を終える。
ここに登場する水と火のイメージはさくらも無関係ではない。彼女の場合水と火とは北海道での凍える冷たさと松明の記憶として登場し、子と共に命を絶とうとしていた土地を巡る忌々しいイメージ、つまり映画冒頭ではとっくに避けられ退けられたイメージである。「時代は変わった」と母を制して新しい生活を望むさくらと建造ははじめからズレることが前提の男女で、親密に触れ合ったりなどしたら片方が否定される存在同士だったということになる。女は、家や家族、男の身勝手を踏み越えて現代を生きる。
2024年の上半期旧作別は早めに書きます。今回が長くなり過ぎたので次はパパっと。というかここまで読んだあなたはすごい。
『蛇の道』(2024)を見た。
夜との境をなすいや果ての地

劇場長編映画は4年ぶりとなる黒沢清監督最新作。1997年に監督した『修羅の極道 蛇の道』を、舞台をフランスに変えてセルフリメイクした。主演は柴咲コウ。ほか、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、西島秀俊らが出演。
ねぇ どうして誰もなんにもしないの?
1999年に黒沢清監督が映画美学校の学生とともに制作した『大いなる幻影』に、こんなセリフがあった。『大いなる幻影』は黒沢清監督作品に頻出する旅行というモチーフ-過去を忘れて何かやり直すための漠然とした、果たされることのない約束-が色濃く表出している作品である。
地図上から日本が消え、いたるところでひどく舞う花粉に対抗する薬は人から生殖機能を奪い、どうやら何かしらの集団的な対立も起こっているらしい世界を舞台にしたこの作品のヒロイン・ミチ(唯野未歩子)は、国外からの郵便物を取り扱う仕事をしているうち、海外への憧れを募らせるものの何かしらの理由により日本を出ることができないらしい。しかし、結局彼女は海に流れ着いた白骨死体を見て、彼の地も悲惨な状況にあると知り慟哭する。
セリフは、コピー機を使おうとするミチに投げかけられる。作動しない機械に困惑する彼女の傍へ、音もなく近づいてきた、暗い影が落ちシミのように顔が滲んだ女性は、その機械が「もう何年も前から壊れている」ことを告げ、続けざまにかのことを問いかけてくる。これは忘れられ、見捨てられた過去=廃墟が、忘却を許さずに暴力的に迫ってくるといういかにも黒沢清的瞬間であって、『叫』『クリーピー 偽りの隣人』『廃校綺譚』そして『蛇の道』など、かなり多くの作品で扱われる図式である。
1997年にVシネマとして発売された『修羅の極道 蛇の道』は、見捨てられた過去と、その過去が暴力的に迫ってくるまでの宙ぶらりんの時間ががらんとした空間の利用によって視覚的に表現されており、また日常的光景を虚ろへと還すような哀川翔の茫漠たる存在感も際立つ傑作である。それが四半世紀も経った今、セルフリメイクされた。
オリジナルと大きく異なる点には当然主人公が女性であるということ、妻という存在が前面に出てきたことがある。元々は夫たる男しか画面には登場せず、惨殺された子らを産んだ女性の姿は見当たらなかった。そして柴咲コウ演じるサヨコは哀川翔と異なり、確かな足音を響かせながら男たちに迫りゆく。幼いころからの憧れでパリに暮らしているという彼女は、海外に行けなかった唯野未歩子とも、幽霊となった夫に付き添い旅に出た深津絵里とも、アメリカに渡った「らしい」蒼井優とも、仕事で仕方なくウズベキスタンに滞在する前田敦子とも、どこか違うようである。では一体、彼女は何者なのか。
結論から言えば、彼女は『妖女ゴーゴン』(1964)に登場した怪物メゲーラに違いない。ゴルゴーン三姉妹の一人、その顔を見た人間を恐怖で石に変えてしまう、あの怪物である。
その怪物は、村はずれの屋敷の窓から見える石造りの階段をいくつか下ったところでアーチ型の扉を開け、その先に広がる森を進み、崖を登って、橋を渡った向こうに見える古城に潜んでいる。夜風に揺れる朽ちた旗と、蜘蛛の巣のかかった石像が出迎える広間には枯れ葉が舞い込み、家屋は廃材と化し打ち捨てられている。古い城の内部は中2階になっていて、左端に折れ階段がある。踊り場に鏡が掛けられているその階段を上った先の、玉座を囲む柱の陰に怪物は潜む。彼女が、ひとたび緑のドレスに包まれたその身を、真っ赤に充血したその目を、なによりその蛇の髪を露わにしたとき人間は石になるほかなく、鏡に映った姿か水面への反射でさえ恐怖で失神してしまうほどだ。
サヨコがメゲーラめいた怪物性をはっきりと現わすのは、影が落ち真っ黒に塗りつぶされた廊下から不意にその姿を見せて、監禁している男たちの正面に座り「真犯人をでっちあげよう」と提案する場面のこと。窓からは由来不明の赤のようなオレンジのような光が差し込み、倉庫を不思議に染め上げている。日常的な光景の範囲にとどまっていたオリジナルからの変更がひときわ目立つこの異常光線は、ゴーゴンの背後で玉座を照らすオレンジと呼応する。これが単なる偶然ではないことは、「蛇か、その目は」とオリジナルには登場しなかった「蛇」なる単語をわざわざ口に出している点からも了承されよう。これまでも一つの言葉を契機に世界をがらりと変えてきた黒沢清なのだから、大胆に発せられる「蛇」の一語から2024年のパリにメゲーラを召喚しても、時空を超えて光が差し込んでも何も不思議はない。だからサヨコが着ている服が緑であることも無論偶然ではないし、彼女が羽織るフード付きのコートが、メゲーラの仮の姿である村娘・カルラが羽織るコートと重なって見えるのもやはり偶然ではない。あるいは、遊園地の奥に広がる廃工場で上階に佇むサヨコを見つけるショットが、古城の中2階で堂々と構えるカルラを見つける場面を想起させるのもまた、偶然ではない。ごろんと転がる三つの死体がどれも目も開いて呆けた表情で固まっているのも必然である。
倉庫そのものの在り方にも違いがある。オリジナルでは、どうやら下町風の建物が並ぶ一角に立地しているらしく、人が出入りする狭い扉はあるけれど建物の外観は隠されており、一体どうやって車があの広い倉庫の中へ入ったのかはまるで分らない。一方、今回倉庫はどうやら生活圏からは少し離れた郊外に位置しているらしく、車は入り口付近に停められ、そこから袋詰めにした男をずるずる引きずって建物へ入り廊下を渡り、監禁部屋へたどり着く。こんな、元々は省略していた描写をなぜわざわざ入れたのか。なぜ外観によって日常との接続点、あるいは切断点を見せたのか。
怪奇だと考えればこの点にも合点が行く。先に長々と書いたが、怪奇の雰囲気は舞台設定に依るところが大きい。その陰鬱な道のり、室内の古風で大げさな装飾や迷宮めいた廊下、あるいはそれらを取り囲む墓地などの環境にポイントがある。実際、例えばマリオ・バーヴァの映画を思い出すとき、朽ちてはいるが荘厳なアーチとか墓地へ下る階段とかハッタリの効いた室内を想起しない者はいない。どこか遠くに見える不気味な古い城や館に、うっかり到着してしまう怪奇の導入はマチュー・アマルリックが拉致されてくることに変奏されている。怪奇映画とは、何より生と死が衝突する特殊な場所の設定に肝があるのだ。つまり2024年版『蛇の道』とは、同じ物語でありながら微妙にジャンルをスライドさせたリメイクなのである。
『大いなる幻影』で投げかけられた問いを、怪物・柴咲コウは進んで引き受ける。物事を解決する気があるのかないのか、責任の所在を曖昧にし続ける男たちに向かって視線を向けるサヨコはあの顔のない女性と繋がってその先へと進み、怪物となって見捨てられた過去を問い直すためにやってくる。
ところでここに一人の、黒沢清世界特有の男性がいることを忘れてはならない。青木崇高演じるサヨコの夫だ。彼はたびたびサヨコへの連絡を試みる。曰く、娘が亡くなったことは忘れて、夫婦二人での生活に戻ろうじゃないか。こちらに帰ってきてはどうか。これは「旅行」というモチーフの一つの形である。だがサヨコはこの瞬間をこそ待っていた。アパートの一室。機械ばかりが無限に作動し続ける、ピントの合わない、異界化したこの空間で、彼女はただ、その時を待ち構えていた。
ゴーゴンは何もせずただ古城の奥に立っていればよい。すると人間の方からフラフラと近づいてきて「あっ」と驚く 。ゴーゴンは相変わらず何もしない。しかし人間の側の被害は甚大だ。(黒沢清 著「映画はおそろしい」)
サヨコの目の上に、夫は蛇を見たに違いない。
いまさら!2023新作映画ベスト
新年のご挨拶を申し上げます。今年も当ブログをよろしくお願いします。
さて、いつもであれば「今年の映画、今年のうちに」と題して大晦日にその年の新作映画ベストについてブログを更新していましたが、今年は大晦日・元日にかけてPerfumeカウントダウンライブのため旅行しており間に合いませんでしたね。しかも帰ってからはまったり気ままに過ごし、気づけば1月も終わろうかという時期の更新となってしまったけれどちゃんとやります。2023年新作映画ベストです。新作の基準は僕の住んでいる地域で今年劇場公開された新作、ということで初見でもリバイバルは除外ですし、都心部では2022年公開の作品でもこちらで年内公開ならば対象です。なお今年も今一つ心に刺さった作品が少なかったので、ベスト5+次点です。
次点 ヒンターラント

第1次世界大戦後、ロシアの収容所から解放された元刑事が変わり果てた祖国で連続殺人事件に巻き込まれるお話。ブルーバックで作り出されたドイツ表現主義的歪んだ世界はほとんどやり過ぎの奇天烈ではあるけれどもとにかく拘りがあることには違いないし、背景にかまけるだけではなく90分ほどで人間の歪みと痛みを語り終えているのだからただの珍奇とはいえまい。これよりもほかに楽しんだ作品はたくさんあったけど、2023年にはこんな映画があったなぁと思い出したくなる感じから次点に選ぶ。6位でも10位でもない次点です。
5位 なのに、千輝くんが甘すぎる。

雨降りの道、畑芽育の髪の毛についたテントウムシを、学校一のイケメン高橋恭平がそっと手にとってやる場面。ここでは髪に触れる手のアップから掌中に収まった虫と、それに驚いた顔を見せた直後一歩退くヒロインの姿を非常にリズムよく繋いでおり、うっかり近づいてしまった距離がもたらす緊張と解放をスムーズに見せている。このように気持ちのよいアクション繋ぎ、あるいは適切なタイミングで引くカメラが映し出す距離の描写が光る作品で、終盤には見る・見られる関係の逆転もあって終始楽しく見られました。物語は気持ち悪いけれど。
4位 トリとロキタ
難民としてベルギーに渡ってきた偽姉弟が次第に追い込まれてゆく大変息苦しい作品ではあるものの、思いのほかとても娯楽映画らしいサスペンスに満ちていて驚かされた。飯屋の厨房を拠点に夜の街を彷徨いながら大麻を売りさばき、時に売春までさせられるが常に金は足りず、うらぶれた姿でまた夜の街に繰り出す様子にはプログラムピクチャーを重ねもする。さらに、遠い遠い倉庫に軟禁され大麻の栽培を任された姉を恋しく思ったトリが、その幼い体ゆえに閉ざされた倉庫の内部へと侵入する様子などさながら冒険・探検であって、室内の構造までいちいち丁寧であるためにサスペンスも持続している。ダイナミックな地形を生かした逃走と冷酷な暴力まで用意されていて大満足。森はいつだって暴力の味方です。
3位 ファースト・カウ
視界を覆い隠すほどの草木生い茂る手つかずの森は人が生活することなど微塵も考えてはいないし、ぬかるみの上を歩かなければならない小さな集落も決して心地よくはないだろう。ぽつねんと置かれた小屋は仮住まいでしかなく、狩猟団も英国の仲介人も先住民も、誰もが満足していないであろうこの土地、鳥だけが自らの存在を誇示して囀る環境の描写がとりわけ素晴らしい。その中で運ばれるミルクの滑らかな白やドーナツの甘美な音に心奪われるのはそれらが環境に不釣り合いなぬくもりを持っているからではないか。あるいは薪き割りと掃除の動作が同時に画面内フレームへと収まるショットが美しいのは、そこに人間らしい共同の空間が立ち上がっているからではないか。
ところで冒頭から繰り返される、隠れ、隠し、そして覗き見るといった行為はクッキーとキング・ルーという弱い男たちがこの環境で生きるための適切な方法であって、牛乳泥棒もその自然な延長として受け止められる。また彼らの共犯関係は「匿うこと」から始まっており、その倫理は最後まで貫かれる。つまり非常にシンプルな動機に貫かれた作品だけれどもそれは画面から不要な複雑さを排したがゆえの結果であり、映画の美徳だと思う。傑作。
2位 猫たちのアパートメント

再開発のため取り壊されることが決まったアジア最大級の団地と、そこに住み着いている猫たちを追ったドキュメンタリー。はじめ画面に映し出されるのは木々の緑が程よく配置された居心地のよさそうな、しかし徐々に移住が始まっていることを重機の存在が訴えかけている団地の姿で、猫たちはその光景をじっと見つめている…ように思わされる編集がなされており、つまりはまず編集が素晴らしい作品といえよう。さて猫たちは風に揺れる緑の間を、あるいは街灯に照らされて煌めく新雪に足跡をつけ闊歩する。しかしそんな風景も季節が過ぎるうち次第に瓦礫と雑草生い茂る廃墟の様相を呈しはじめ、植林が進むと土砂は崖のように盛り上がり荒野を想起させるまでに変貌してゆく。
このようにして小さな世界が崩壊していく過程がここには記録されている。猫たちは狭い地下を駆けまわり、人のいなくなったアパートを探索し、土砂の崖を登り寂莫とした世界を生きる。人類の手助けも決して感傷を呼ぶことはなく、ひたすら居住空間の崩壊と猫を主眼にした厳格さに心打たれる素晴らしい作品。
1位 レッド・ロケット

grate ageinの有害さをまき散らし一切反省をしない元ポルノ俳優が故郷で存分にその迷惑な人間性を発揮させる喜劇。彼の田舎は広い土地に横長の疲れた平屋と廃墟が並び、ゆったりと貨物列車の走るその反対側ではトラックが朽ち果てているような貧困地域で、製油工場のでっぷり丸いタンクや高く聳える煙突以外に発展の兆しも見えず、青く広い空にも解放感を見つけられない環境である。環境とは登場人物の生活と人生の背後を包み込む装置であり、ポルノ俳優のみならずここに生きる人間たちの一様に褒められたものではない在り方は、この環境にひとまず要約される。
しかし朝夕の陽、あるいは工場が放つオレンジと青の光に照らされながらふらふら移動するショットの心地よさ。または16ミリのざらつきと色彩、豊かな黒。そしてやや光の強めな画面は鮮やかで風景の切り取り方も美しく、環境は単純な要約からはみ出して滲み、さらに非現実への遭遇を促し始める。
男はポルノ業界への再起をかけ未成年の少女に近づく。予行練習として彼女の家で「撮影」に及ぶとき窓にかかるカーテンは非現実的な緑の光を蓄えており、まるで『めまい』だ。あるいは、ショーン・ベイカーらしいほとんどアクションとしての生々しい口論の末、裸で放り出された男を待つのは自分よりもさらに強烈なハリボテの光景である。ここでスーツケース・ピンプの間抜けな顔に滲む汗は、うっかり扉を開いてしまった異常な世界への緊張のようにも思え、そんな現実と非現実が対峙する特異点まで連れて行ってくれる、笑えて怖いこの作品を2023年の1位にします。
以上がベスト5+次点でした。他には
スピルバーグの恐怖映画『フェイブルマンズ』
壊れたテープのような異界玄関とタイトル回収が素晴らしい清水崇のヒップホップ『ミンナのウタ』
背景にいる何の関係もない人物が妙に良いポール・シュレイダー『カード・カウンター』
存在しない妻との会話に泣くウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』
ジャンルを横断しながら細かくタイムミットを設定して緊張感を保つジャン・フランソワ=リジェ『ロスト・フライト』
役者が光るアメリカお仕事映画ベン・アフレック『AIR/エア』
フルショットからアップまで役者の収め方がうまく移動も達者なマリア・シュラーダー『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』
ほとんど理不尽スラッシャーと化したアントワン・フークア『イコライザー3』
あたりが良かったですかね。配信スルーになったパーカー・フィンの『Smile スマイル』が期待よりずっと面白かったのも印象的で、これらを入れてベストテンにできるじゃないかとも思いましたが、なんとなくの並びの気持ちよさですかね。上位3本以外は気分次第で入れ替えてもいいかなというくらいの差です。
さて2023年も見られなかった映画、公開されなかった映画はたくさんあったわけですが、そのうちすでに『こいびとのみつけかた』と『ショーイング・アップ』は配信が開始されているのでこれから拾っていこうと思います。ちなみにワーストは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』やマーベル実写映画に『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』あたりですがこんな作品どもはどうでもいいんですよ。ワーストと言いたくなるほど嫌いではなく、単純にただただつまらないだけですからね。とにかく今年はもう少し見る作品の幅を広げたいです。ちょっとでも気になった新作は目もしておいて劇場・配信できちんと見るようにします。あと次回は山形の映画祭にも行ってみたい。ちょうど繁忙期なのがネックですが。
というわけで2023年新作映画の話はこれでおしまい。こちらの地域ではつい先日カウリスマキの『枯れ葉』が公開され、来月頭には三宅唱『夜明けのすべて』もはじまるわけですが、それまでに下半期旧作映画ベストの更新でお会いしましょう。それではまた。
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