リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ドライブ・マイ・カー』を見た。

But you can do something in between

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『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』で知られる濱口竜介監督最新作。西島秀俊三浦透子岡田将生霧島れいかが出演。原作は村上春樹の同名小説。第74回カンヌ国際映画祭にて、日本映画としてはじめて脚本賞を受賞した。
 
 
舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)と平穏な日々を送っていた。ある日「帰ったら少し話せる?」と唐突に告げた音はしかしその夜急死してしまい、言葉を聞けぬまま死別する。そして2年後、『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼された家福は広島へと車を走らせる。そこでは家福の意に反し、演劇祭の規則で運転手を雇うことを義務付けられていた。紹介されたのは渡利(三浦透子)という若い女性。家福は訝しげに彼女を見つめていた。そうして舞台本番までの、長いドライブが始まるのだった・・・

 

 

『ドライブ・マイ・カー』を見て、気になったので『カメラの前で演じること』『ワーニャ伯父さん』『女のいない男たち』を読んだ。チェーホフ村上春樹もはじめてだ。村上春樹についてはなんとなくのイメージで避けていて、実際読むとそのイメージもあながち間違いではなかったのだけれど短編ということもあってかとにかく読みやすかった。特に『木野』が面白く、モダンな『耳なし芳一』というか、怪談といえるような雰囲気があると思う。だいたい『耳なし芳一』で怖いのは、うっかり怪奇の世界へ踏み込んだ盲目の芳一が、恐ろしい足音と声に怯えながら孤独に夜を過ごし、耳を引きちぎられても叫び声一つ上げず座っていたという寄る辺なさにあるのではないか。『木野』も終盤そのような展開を迎えるので、やや怪談めいているなどと考えたのである。

 

 

そんな話と関連して、いるかはわからないが、『ドライブ・マイ・カー』もどこか怪談めいた話だと思う。それはまず声、つまり家福(西島秀俊)の亡き妻である音(霧島れいか)が、肉体を欠いた声が、テープを通じただ一人のためだけに語りかけてくること。その声に応答することからそんな雰囲気が漂っている。平坦な語りはジャニス(ソニア・ユアン)の言う通り機械的で、さらにテープの回転がタイヤにオーバーラップされるとその印象は一層強まり、音の声は真っ赤なサーブ900同様、どこか非現実的な印象をもたらす。声を吹き込む口元のアップがわざわざ音量を上げてまで挿入されているのだから、これを単にテキストの朗読としてのみ扱うわけにはいかない。家福自身も運転手渡利(三浦透子)に「気味が悪いか?」といった言葉をかけている。

さてもう一つ怪談的だと思わせる要素として照明の効果がある。これは家福と高槻(岡田将生)の会話において顕著であって、例えば彼らが初めて二人で飲みに行く場面ではバーカウンターの光が照り返しているのか、二人の顔には青い光がかかっている。いや単にそういう場所だから自然にそうなっただけ、と思うかもしれない。なるほど確かに2回目は黒が深くタバコの煙が映えるバーでの会話で、特段不自然に見えるものはなかった。しかしその帰り道、かつて音が語った物語の続きを高槻が滔々と話し始めたとき、そこで二人の顔には、僅かに青か緑の光が重なっていなかったか。
これもまた、街灯によってたまたまそう見えただけかもしれない。もしくは語られる内容と、単純な切り返しによる効果がそう幻視させたのかもしれない。実際、それまで似たような画面の繰り返しは周到に避けられていた。例えば家福と渡利、ユンス(ジン・デヨン)とユナ(パク・ユリム)が食卓を囲むシーンなど会話に合わせて微妙に角度やサイズを変えていたし、渡利がエントランスで家福の帰りを待つ場面だって一つとして同じものはなかった。だから敢えて二人の顔を順に切り返すという選択は、それだけで異質なものに見える。しかも語られるのは、家福の知らない、奇妙な物語の続きだ。ここで高槻は媒介となって音の声を届けている。

 

 

このようにして音は、実体を欠いたあとも声として記憶としてそこに居続け怪奇の雰囲気を呼び起こす。さてしかしこの声はいったい何を求めているのか。それはアバンタイトルでちりばめられた謎の答えにもなるだろうが、つまるところ「ワーニャを受け入れろ」ということではないか。演出家・俳優としてではなくワーニャになること。知らぬ振りをせずに、全てを剥ぎ取られた男の孤独な余生を受け入れることを、声は要求している。
そして家福はそうなれた。いくつかの着替えと楽屋の場面から、それは理解できるように思う。例えば家福が高槻と出会ったのは『ゴドーを待ちながら』終演後の楽屋で、ここで家福はメイクを落とし衣装を放り投げているけれど、このように疲弊した顔で素に戻るシーンをあえて入れたのは、役者としての姿と普段の姿には差異があると示したいからではないのか。

次に着替えが重要となるのは稽古中に高槻が逮捕されたときのこと。彼は連行される前に「着替えてもいいですか」と問う。自分を抑えられない、と自他ともに認める高槻は「枠」からはみ出していく性質を持ち、ゆえにオーディションではアーストロフをうまく演じられたものの、一方でカメラに収められることを極端に嫌い、また暴行の現場は画面外で起こる。結果彼は役から降り、画面から完全に退場するが、その際わざわざ着替えを要求するのだ。ちなみにおそらく音は彼と同質の人間であって、性交や創作は理性の枠を超えて行われている。高槻が音に執着し家福を求めるのはそれ故であろう。
最後に着替え/楽屋が登場するのは舞台本番。ここでは、出番を終えた役者が楽屋のモニターでラストシーンを見ており、家福には着替え/楽屋が用意されていない。思い返せば音の死後『ワーニャ伯父さん』を上演した際にも楽屋は映されず、劇中盤に舞台袖で苦悩する様しか見られなかった。このとき彼は役を受け入れきれず混濁し、またきちんと降りることもできずにいたのではないか。だが最後にはようやく音の呼び声に応じ、ワーニャをラストまで演じ切ることで昇華させる。だからわざわざ家福不在の楽屋風景が挿入されているのは、ワーニャのまま出番を終えたと印象付けるためではないか。そしてその後のことは、語る必要がない。

 

 

ところで家福は緑内障よりいずれ視力を失うらしい。この事実は「見えていない」ことの象徴とするのか。では映画として具体的にはどのように、何が見えていなかったのか。この点について最も面白いのはウラジオストクのホテルにいると嘘をついて会話するシーンではないか。家福と音、パソコン越しに正面から見つめあう両者の目が鏡によって画面には収められているけれど、すでに見て見ぬふりをして逃げ去った家福は、ここでいったい何を見ているのか。また二人が実際に対面しているとき、例えば性交に際しても、彼らは正面からきちんと見つめあっていたか。

失明は避けられない。だから『ドライブ・マイ・カー』とは、耳と目を知らぬ間に失っていた男の物語といえよう。だが家福は最後にきちんと正面から見つめられる。『ワーニャ伯父さん』を演じ切り涙を流す姿は正面から捉えられていた。その姿は演者によって、渡利によって、観客によって目撃される。正対できなかった男は音と高槻を失ったけれど、いくつもの位置の変化を経て、ようやく向かい合うことができるようになった。これで彼も、いつかほっと一息つけるのかもしれない。

ちなみに『ドライブ・マイ・カー』で優れていたのは四宮秀俊の撮影と山崎梓の編集だと思う。いろんな要素をミックスしまとめた脚色は確かに面白いけれど、言葉に頼る部分も多く特に北海道の場面は過剰ではないかと感じた。雪景色もイマイチ冴えていないし。個人的には次々にトンネルを抜ける夜の道路と、サンルーフを開けて煙草を吸うシーンがベスト。

最近見た旧作の感想その47~2021年上半期旧作ベスト~

スポーツにはまるで関心がないのでオリンピックなる祭典からは距離を置いて生活しているのだけれどコロナの脅威からは流石にこの片田舎でも逃れることができず、すでに2回目のワクチン接種を終えたけれど依然として不自由な生活は続くわけで、しかもこの2者はほとんど不可分といっていい状況を呈しており、ただでさえ暑く不快な夏がより忌々しい。まつりごとに関する諸々の言葉は令和の万葉集とでも題し残してくのはどうだろう。

さて本題。今年1月から6月に見た旧作で、特によかったものについて挙げる。

 

 

 

男性の好きなスポーツ(1964)

荒唐無稽が過ぎてめっちゃ面白い。とにかく道具とアクションがふんだん。ドレスのくだりは『赤ちゃん教育』より笑えたし、自転車クマもとんでもない。ポーラ・プレンティスも可愛いくて、また衣装もキュート。最後の大雨には『ジュラシック・パーク』を思い出させる雰囲気があって、『ハタリ!』そして『赤ちゃん教育』のほかここからも影響を受けていたのかと。

 

 

『折鶴お千』(1935)

鬼か、と言わざるを得ないお話。冒頭から雨と風の凄い雰囲気で、またすごく光が印象的。山田五十鈴を照らす照明や自刃のため持たれた剃刀の刃、頭上付近まで吊るされた電灯などなど。とにかく画面全体が豊かである。最後病院のシークエンスは長い廊下も印象的だけど、『怪人マブゼ博士』の数年後にこの病室での幻覚描写。さらに壁に頭をもたれかける姿勢も最高。最後まで不穏。

 

 

『クローズ・アップ』(1990)

 あまりにも不意に泣いてしまった。ラスト10分程度の素晴らしさは何だ。よくわからないけれども何か妙に感動的で、例えば割れたフロントガラスも必然というか、画面としてそうでなければならないように思える。外側から見せていた出来事を終盤内側から語り直すシーンはすべての行動のタイミングが完璧。窓越しに覗くのも良い。その辺の通行人が普通に七面鳥を持ち歩いているのには笑った。

 

 

『密航0ライン』(1960)

編集が大胆で、場面転換の素早さ、それにアクションの流れも最小限で効率よく展開させており素直に楽しい。川沿いの逮捕劇は人物のほか乗り物の出入りにカメラもよく動いている。あと顔の捉え方。特に中原早苗なんて大変魅力的。ほんの一瞬の話だけど、宿直室の白い布もいいね。ところで清順の映画はなんらかの枠や窓、もしくは壁にしがみついたりべたっと張り付いたりするシーンが多く、本作のほか今年見たものだと『東京騎士隊』にもみられた。それにしてもアマゾンプライムは続々と鈴木清順作品をアップしていてすごいな。助かる。

 

 

婚前特急(2011)

『まともじゃないのは君も一緒』も面白かったけれど、これに比べると落ちる。画面への、人物の出入りが基本いいな。しかも物語とは全然関係のないところ、例えば画面奥で放置される酔った女性とタクシーなんてのもまた面白くて端や奥まで意識がいく。そして何より吉高由里子の倒れ方。これはもう感動するほど動物。

 

 

『侠女』(1971)

美術と撮影の美しさに全編ほれぼれうっとり見とれる。琴を弾く室内の美しさ、山岳地帯、そしてもちろん木漏れ日差し込む竹林。どこを切り取っても大変すばらしい。また編集が見事。竹林のアクションは浮遊感のある垂直の動くだけではなく、素早いアクションの編集とさなかに差し込まれる顔、視線あってこそのマジック。画面右から手前を通って走り行く、ほんの少しの動きもすごく疾走感があって印象に残る。僧侶たちによるドラッグ映像、勝新かよ。

侠女(字幕版)

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悪夢探偵2』(2008)

箪笥の上にいた!とかドア髪挟みとか、全体にホラー表現が面白くて大満足。体育館後ろ走り少女も楽しかった。厭世観から希望に至るような話も好物で、そもそも死にたい人ばっかり出てくるというのがいいところ。水をかける、窓から飛び出るアクションが1,2両作ともある。ちなみに1はhitomiを除き声の調子が良くて、これはこれで面白い。「あ、いまタッチしました」 

 

 

『海の征服者』(1942)

80数分に詰め込まれた活劇の楽しさ、ジャンルらしい大掛かりな破壊ももちろんだけど、色彩と光の美しさが見事。薄い陽のオレンジや夜の青さなどが差し込み影をも織りなす室内撮影は絶品だし、空と海の染め上げ方も心地よい。また冒頭の屋敷ではアーチや階段から予想外にホラーを思い出したりもして興奮した。美術もなかなか魅力的。ここでヒロイン、モーリーン・オハラは白と水色のドレスを身にまとい登場し、画面に軽やかさと清涼感を与えている。

 

 

『処女が見た』(1966)

『雪の喪章』でも『婦系図』でもいいけれど、やっぱり三隅って足フェチというか、こだわりがあるんだろな。若山富三郎演じる生臭坊主は若尾文子の足元に刺激されて直接的な行為に及ぶ。そして反対にその坊主は最後、自らの足元への不注意があだとなるわけだ。彫刻刀や筆を持つ手と目つきを捉える画面の鋭さ、黒が強い撮影、それに強姦後の姿が箪笥の光沢に反射しているショットなんかも印象に残る。後半は安田道代引っ張っており、改めて三隈研次監督による女性映画の面白さについて確認できた。

 

 

いつか読書する日(2005)

大変素晴らしい、見事なメロドラマ。明け方、街灯に照らされた薄暗い道を自転車で駆ける冒頭から引き込まれ、その画面の強さから傑作ではないのかと期待させてくれる。全体に動線の設計が気持ちよく、坂の入り組んだ狭い道をたどる牛乳配達をはじめ、逃げたり背を向けたり詰め寄ったりなど、長回しで捉えられる人物の移動にもしっかり演出がなされ画面に広がりがある。全体に地形というか、場を生かしきっているのだ。葬式や水難事故シーンでのロングショットもハッとさせられるし、黒の出方も見事。加えて、メロドラマらしいすれ違い、そして見る見られるの関係が随所に現れる。牛乳を届けること、それを飲まずに捨てること、そしてまた届けること。認知症の件など少々やぼったいところもあるけれど、とてもいい映画だと思う。

 

 

『対決』(1967)

冒頭の出入りからいい横移動。荷車を使った破壊も楽しいし、そもそも基本的照明がしっかりしていて画面がかっこいい。その感覚が最も良い形で結実しているのは高橋英樹が出所した後に恋人と女郎屋で再会するシーンであって、ここは色彩もよく、展開の悲痛さ、横並びの配置とも相まって非常に印象的な場面だ。落ちぶれ具合が酷い兄貴分、中谷一郎も最後にはきっちり泣かせるのがうれしい。ちなみに一応の続編である『血斗』はコミカルな方向に振れ過ぎていてあまり好みではなかった。

 

 

マリー・アントワネットに別れを告げて』(2012)

身体の映画である。混乱する宮殿を多くの人々が歩き回ったりすっ転んだり。豪華な衣装を身にまといつつせわしなくうごめく人々の様子がまず面白い。姿勢もまた注目すべきポイントであろう。ダイアン・クルーガー演じる女王と従者レア・セドゥ、そして愛人ヴィルジニー・ルドワイヤンの3者はどの程度の距離があるか、それはどう変化するか。カットも小気味良く、さらに蝋燭や自然光による照明も美しく見応えある。そして最後はレア・セドゥの目つき、顔つきできっちり締めており、正しく役者へ信頼が置かれている作品だと思う。個人的に最も好きなのは宮殿の外側をはしゃいで回るシーン。

 

 

『ひかりの歌』(2017)

個別記事があるので、https://hige33.hatenablog.com/entry/2021/07/04/005333こちらを参照。杉田協士監督は来年に新作『春原さんのうた』が公開されるようで、公開規模については全く期待できないけれども作品自体はとても楽しみ。

 

 

このほか、湖のランスロ』『都会の女』『その男を逃がすな』『カメラを持った男』『七人の無頼漢』『泳ぐ人』『ゴーストライター』『ルルドの泉で』なんかも良かった。いまさらホークス、溝口、キアロスタミについて書いてもなとは思ったけれど、思いがけない作品とのリンクや想定外の感動があったのでついつい。

さて今年の後半も全くどうなるか読めない情勢で、新作の鑑賞なんかは特に厳しそうだし、またブログの更新に関してはめっきり感想が思い浮かばなくなっているのでなんだかあまりい話はないけれど、とりあえずいろいろ見れたらいいな。

 

最近見た旧作の感想その46

『ひかりの歌』(2017)

 

それは唐突に、こんな風に始まる。一人の女性が、うどん屋の暖簾を下げて店仕舞いをしている。カウンターではまた別の女性がすでにまかないに手を付けており、この二人はどうやらアルバイトとしてこの店で働いているらしいが、一足先に仕事を終えていた髪の長い女性の方は、それも今日で終わりのようだ。

唐突に、というのはこれらの状況に対し説明がほとんどされないからということに加え、この冒頭2ショットがすべて店の内側から撮られていることに対しての反応である。つまり、この店がどんな地域にあるのか、どんな道に面しているのか、そういったことは一つもわからない。さらにこの二人の女性の顔すらもそうはっきりとはわからない。カメラは彼女たちの背中を捉えて動かないままだ。そんな風に、場所も状況も、話している人の顔もよくわからないまま、唐突に始まる。

 

 

『ひかりの歌』は説明をしない。第1章では電話越しに友人の歌を聞いた詩織(北村美岬)がそのとき何を思ったのかはまるで分らない。第2章ならば、今日子(伊東茄那)がひたすらに走る姿から行き場のない思いとでもいうものを感じ取ることはできようが、とはいえなぜ走るかの具体的な理由は存在しない。第3章において、時折ぽつぽつと信号を発する灯台の近くで海を見つめる雪子(笠島智)は、いったい何を求めてここに来たのか。この素晴らしいショットはその答えを提示してはくれないし、後々もっともらしい理由が説明されることもない。第4章で、男はなぜ幸子(並木愛枝)の元に唐突に帰ってきたのか、そもそもなぜいなくなったのか、それは不明なままだ。

しかしだからといってこの作品は唐突で不可解であるばかりかというとそうではない。理由が明かされない=映らないからこそ、目の前にいる人物の些細な反応に神経が向かう。カメラはどこか観察するかようにして、ほんの少しのアクションからその人そのもの、あるいは内面とでもいうべき部分が表出する様を捉えているかのようなのだ。そんな、隠すことと明るみになることの間のせめぎあいによって生まれる、人物の生々しい存在感。過去も動機も知らぬうちに含まれてしまう、ただ目の前で動作する人間。これこそが『ひかりの歌』の画面ではないか。それぞれ、彼らならきっとそうするであろうということがその存在をもって証明しているから、もっともらしい理由づけなど不要なのである。

 

 

ところですべての章でもっとも印象的な行為は「見つめる」ことであって、それは時に画面内の人物たちに関係性を付与し、時に画面外へと意識を広げ方向性を示す。こういった視線の扱いは各章共通しているが、しかし若干性格が違っているようにも思える。第1章においての視線は、いうなれば立場を示しているものが多い。例えば、教師が高い位置から生徒を見つめるというシーンは二度あって、のちにキャッチボールを通じて同じ位置に至る。また、不意の告白は視線を逸らすことへと繋がるものの、絵を書くということを通じて正面から受け取られる。第2章においては、見つめる先を見失うという特徴が見えないだろうか。ひそかな思い人を乗せ去り行くバスを見送ること、どうしようもない思いを受けっとて下を向いてしまうこと、走り続けたのちのどこともない闇へと向かうこと。これらのすべてで、今日子の顔は隠されている。第3章で、フェリーから海を見つめていた視線と、電車の窓から外を見つめていた視線は決して同じではない。それは雪子の短くなった髪からも想像できる。第4章において、はじめかみ合わない視線のやり取りはしかしやがて、親密な距離を取り戻すだろう。

 

 

先に観察という言葉を使ったけれども、こういった視線の在り方、もしくは画面の切り取り方や編集は非常に巧みで、ただ俳優に任せたようななまけた姿勢とは全く異なる。もちろんそうでなければ、はっと息をのむような美しい光の光景も、ふと感性を刺激する画面への出入りもあるわけがなく、その人らしさのはみ出る些細な動きなど映し出すこともできまい。映すものと写さないものの取捨選択が的確な、とても豊かで優れた映画だった。杉田協士監督作は今作が初めてで、いまさらな話ではあるのだけれどこういった作品が特に地方ではまともに公開もされず、またその後カバーする方法も限られているというのは本当にもったいないと思う。

ところで変な話をすると、第1章で絵を書くために各々校舎のあちこちにイーゼルを立てて風景と向かい合うその姿がまるでカメラをのぞき込む姿であるかのように見えてしまったのも、きっとこの映画の在り方によるものだろう。さてそのとき、ふと風が入り込んで揺れるカーテンを果たしてあの生徒は見ていたのだろうか。もしくは何か違う、彼女だけに見えていたものを描こうとしていたのだろうか。

お茶を濁す

・2か月も放置して、このままでは死んだブログになってしまうと危機感を覚えたので苦肉の策として日記でも書いておこうと思う。中島哲也の『来る』では死んだ妻夫木聡の魂がブログにとどまって死後も更新され続けていたけど、こんな状態のままではうっかり自分が死んじゃったとしても、どうもそうならないんじゃあないか。そんな不安もあってとりあえず何か書いて延命措置を施しておきたい。そうすればほとんど息をしていないこのブログも生きていたことを思い出し、なにか書かせるよう仕向けてくれもするかもしれないし。まぁ、死んでブログにとどまるのがいいかはよくわからないけれども、少なくとも家に染み付いちゃうよりはましでしょう。

 

・この2か月映画を見ていなかったわけではない。田舎暮らしでこのような情勢、往来自粛になると映画館こそ遠い存在になってしまって新作は全然見れていないけれど、U-NEXTを筆頭に配信が充実しているおかげで日々の鑑賞数はむしろ多いくらい。中には「これは」というものもあったので、それについては6月中に更新する気でいる。あくまで気だけど。それにしても、月に40も50も見ている人の体力って一体どうなってるんだ。こっちは毎日寝ても覚めても眠くて眠くて仕方がないというのに・・・なんて言い訳をしているうちは白帯だというとことなのか・・・。

 

・そういえば最近『寺山修司詩集』と『表層批評宣言』を読み終えた。けどどっちも良くわからなかったな。ほんとに表面にさらと触れただけのような感じ。一応メモなんてとりながら真面目に考えたりもしたけれど、それを整理する頭がないのから諦めてその場その場での引き込まれたり視界不良だったりをそのままにしつつ、つらつらと書かれた文字を眺めていたような感じ。本人も「肉体的なエンターテイメントを目指し」とか言っているしそれでいいか。そんでもって今は積本の中から『孤独な散歩者の夢想』と『白夜』を選んで読み始めている。『白夜』についてはどうもブレッソンの映画版を見る機会が早々には訪れなさそうなので、まず本でも読むかという話。読むスピードが遅いしさっきも書いたようにとにかく日々眠いので全然進まないけれど。

 

・積本を読み終えるまで新刊は買わない、ようにしたいところではある。だけど本って、なんだか買っただけで軽く知識を手にしたみたいな勘違いを起こしてしまうところがあって、そのお手軽でうっすい知識欲を刺激するためついつい手を出してしまう。残念な人間。とりあえず今月はすでに『霊障』を買ったし、末には吉田広明氏による三隅研次の本が発売されるのでこれをマストとし、それ以外はなるべく購入を抑えたいところ。

 

・ちなみに今年買って読んだ本で一番良かったのは岸本佐知子氏の『死ぬまでに行きたい海』。風景とかそれにまつわる記憶をこんな風に言葉にできるなんて、憧れるというのか、うまく言えないけれど、風景や記憶がこう書かれることを望んでいるような文章でとにかく惹かれた。読むのは一日一章だけと決め、一つ一つ大切そうにして、まるで高級なチョコレートを一粒ずつ食べるみたく、じっくりゆっくり読みたくなる本だった。中にはきっちりホラーな話があるのも意外で嬉しい驚き。

 

・さてもう書くこともなくなってきたのでこの辺で終わり。 

 

『あのこは貴族』を見た。

いまは見える

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山内マリコによる同名小説の映画化。門脇麦水原希子高良健吾石橋静河山下リオらが集結。監督、脚本を務めるのは本作が長編2作目となる岨手由貴子。撮影は『寝ても覚めても』などの佐々木靖之、美術は黒沢清作品を数多く手掛ける安宅紀史が担当している。
 
 
 
開業医一家の末っ子として生まれた榛原華子(門脇麦)は、20代後半になり家族から結婚を急かされるようになっていた。友人たちも多くが結婚し、焦って婚活に励むもさんざんな結果に終わってしまう。そんなある日、義兄の紹介によって青木幸一郎(高良健吾)という青年に出会う。会話も身なりも魅力的で、華子にとって理想の結婚相手だった。数度の出会いののち、プロポーズを受け入れついに幸せな結婚生活が始まろうとしていた矢先、華子が幸一郎の携帯に時岡美紀(水原希子)という女性からの、親密な関係を示唆するメッセージが届くのを目にする・・・

 

 

 

名著「映画術 その演出はなぜ心をつかむのか」で、塩田明彦監督は『秋刀魚の味』における「場」について解説している。岩下志麻が自らの好意を諦めざるを得なくなる場面で、彼女は無表情でありながらふとうつむくことによって内面の葛藤はむしろ強調され、気持ちではなく彼女の置かれている状況、つまり「場」が立ち上がっていると指摘しているのだ。ふらっと集まっただけの居間がいつのまにか法廷へと変換され、結婚話の進まない岩下志麻を被告人として処刑するかのような「場」が、人物配置や視線によって演出されているという。なるほど確かに、塩田監督のいうように『秋刀魚の味』のほか小津作品における役者と「場」の関係はそのようなものに見える。表現することではなく、存在すること。それがエモーションを掻き立てるのは、その通りであるように思う。

『あのこは貴族』を見て、このことを最初に思い出した。本作も特殊な「場」の立ち上がりが魅力的な作品だからだ。冒頭、貴族たちの会食シーンからそれはすでに見事である。恋人と別れた貴族の独身娘・華子は、その事実が親族に知られるや否や本人の意思とはほとんど無関係におあつらえ向きな相手とのお見合いをセッティングさせられてしまう。このとき、華子は特に何を言うでもなくただ目を伏せたりあいまいな表情ではっきりとしない返答を繰り替えずばかりなのだけれど、それゆえに貴族社会の息苦しさをありありと感じとれるだろう。そしてこれこそが、「場」が立ち上がるということではないのか。つまり、この会食は元旦に集まった親族同士の懇親の場でありながら、『秋刀魚の味』ほど残酷ではないにせよ娘の結婚に対して問い詰め決定する法廷のごとき場であり、さらにまた、貴族社会という特殊な場なのである。貴族社会という特殊な場については、敷居をまたぐという動作が教えてくれるだろう。一人遅れて会場に到着した華子は仲居さんの誘導により部屋に連れてこられるが、仲居さんは決して敷居を跨がず顔もわからない。当然のことと思うかもしれないけれど、ここに、扉が閉まるのをじっと見つめる貴族たちの顔のショットが入ることによって、敷居の先は立ち入ることが許されない特殊な空間であるということが印象付けられる。

『あのこは貴族』における空間はこのように閉じられているもの、区切られているものが多い。例えば彼らの主な移動手段たるタクシーは、誰かが運転してくれるということに加え、やはり運転手の顔がついぞ見えないままであることもポイントではないか。同じ車内であり声は聞こえていながらも、その空間は区切られている。華子の世界とはこのように区切られ、囲われた世界である。それは自立も自由も必要とされていない世界だからか華子には少々子供じみたところがあるし、外ではうまく振舞うことすらできない。例えば飛んできた帽子を拾おうと動いたりはしないし、指についたジャムを舐めとったり、また待ち合わせにもたいてい遅れてくる。とはいえ心地よさそうというわけでもないのは冒頭の会食ですでに分かっていることだけれども、華子の貴族らしさとはあからさまな豪華さではなく、このような空間内での在り方にあらわれている。

さてそんな華子はひとまずのゴールとして幸一郎にたどりつく。彼らが出会うレストランでの会話は本作の白眉といえる名シーンで、それはまさに、表情や視線、切り返しによって、公の空間の中に華子にとって特別な「場」が立ち上がっているからである。

 

 

では幸一郎はどのような人間なのかというところが第二章から語られる部分であり、そこには上京してきた平民・美紀も大きくかかわってくるだろう。彼らの関係性をあらわすものは階段である。はじめ、「内部生」の幸一郎はほんの少し段差があるテラスにいるし、また授業後、美紀にノートを貸してくれと頼む場面では階段を降りてくる姿が映される。つまり美紀は下の階層の人間であるということが、そんな高低差によって示されている。だから内部生たちとアフタヌーンティーをたしなむ高層のカフェも、下品な同級生に絡まれる同窓会の会場も、幸一郎と泊まり「女性が爪を切る姿を見たことがない」なんて会話がなされるホテルも、階層の違いから彼女にとっては違和感を覚える空間となる。反対に、幸一郎が相手であろうと下の階=居酒屋の席であれば、美紀にとって幸一郎は心細い東京で得た唯一の友人であったことも吐露できるだろう。

同じく貴族である華子の関係性はどうかというとこれも決して対等ではない。印象的なのは結婚に際しての二場面で、まずは華子が挨拶のため幸一郎の実家へ赴くシーン。華子はここで敷居をまたぐときに仰々しい礼儀作法に沿った所作で入室するのだけれど、入室から席に着くまでをじっくりと見せるのは、これが自分とは異なる空間=階層の中に入る儀式であることを、確りと示す必要があるからではないのか。

もう一つは結婚式そのものだ。両家族の集合写真を撮った後、幸一郎はすぐさま会場の外へと呼び出され何やら仕事の話を始める。『ゴッドファーザー』よろしく、仕事と家庭を扉が区切ってしまうのだ。幸一郎とその家族は、自分のいる階層の維持が目的であってそのためにすでに囲われている。幸一郎はなにより人の集まりによって身動きが取れない。それは二人の最後の切り返しからも見て取れるだろう。彼はもうすでに、降りられないのである。

 

 

華子は幸一郎と結婚したところで新しい世界が待っているわけではなく別の息苦しさに囲われるだけであって、結局大した変化にはつながらない。では華子と美紀の関係はいかなるものか。しかし考えてみると、二人の間には関係性とよべるほどのものは結ばれていない。にもかかわらず、華子を変えるのは美紀である。

というのも、今まで華子には美紀のような存在が見えていなかったからだ。「違う階層の人たちとは出会わない」という言葉の通り、きっと自転車に乗る人などは気にしたこともないに違いない。だが美紀を知ってしまったがゆえに、見えるようになった。ここで華子の世界、囲われた空間は静かに融解する。ふざけあいながら自転車を漕ぐ学生に向かって手を振るなんて行為が感動的なのは、タクシーに乗って移動しているときには目にも留めなかったなかったであろう人の姿が、今はっきりと見えていることがわかるからだ。かつて触れ合えなかった人々と同じ空間を共有している感触があるからだ。世界へのあたらしい視点。そしてそれを見つめる門脇麦の表情。序盤とは違う人間にすら見える彼女の目は、言葉よりはるかに雄弁だ。『あのこは貴族』とはつまり、華子の表情をめぐる冒険である。

 

 

というわけで、そんな表情をめぐる場や空間の生成、そして変化が素晴らしい作品であった。役者の存在感だけで十分に画面は見ごたえのあったことに対し、やや言葉が強すぎるきらいはあるけれども、それを差し引いても傑作といえるように思う。

さてところで、この作品で最も割を食っているのは田舎に暮らす美紀の同窓生たちである。確かに、彼らはしたないし不快な言動を発する品のない人間ではあるけれど、しかし寂れたシャッター街に囲まれる田舎でいばる三代目社長だって、それはそれで本人の意志に反し囲われた、どうしようもなく抜け出せない世界にいるのかもしれない。きっとあのこも貴族。

あのこは貴族 (集英社文庫)

あのこは貴族 (集英社文庫)

 

 

最近見た旧作の感想その45~2020年下半期旧作ベスト~

一月ももう終わるというところでだいぶ遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、昨年末に更新した新作ベストテン記事にて予告したように、2020年下半期に見た旧作の中で特別面白いと思えた作品について、一言程度コメントを添えつつ紹介したいと思います。並びは見た順です。ちなみに、昨年の旧作鑑賞数は172本でした。少っくな。なお、上半期ベストについてはこちら<最近見た旧作の感想その42~2020年上半期旧作ベスト~ - リンゴ爆弾でさようなら>をご覧ください。

 

 

 

小原庄助さん』(1949)

清水宏監督作品における横移動の美しさについては改めて言うまでもないかもしれないが、しかし例えば裁縫に勤しむ女性を捉えながらやや斜め手前に水平移動して広間を通り過ぎ客間へと到達する動き、タイミングはやっぱり素晴らしい。このタイミングの面白さはミシンの足踏みと坊主の叩く木魚の音対決といったギャグにもみられるし、結婚式へ向かうため乗車するバスが画面奥からやってくるそのスピードとカメラ位置も何か適切という感じがして心地いい。「近頃客も少なく静かでさみしい」という言葉と対応するようにいつのまにか家へ入り込んでくる鶏だってそうだ。さてこの言葉通り物語も後半になるにれ先祖代々引き継いだ屋敷はさびれ、家具は売られ、ロバを引き渡し、人もどんどんいなくなり、ついには女中や妻までいなくなってしまう。そうして何にもなくなったところへ入り込んできた強盗を一本背負いで返り討ちに合わせる大河内伝次郎の動きは目を見張るものがあるけれど、それよりその過程で倒れてしまった一升瓶を慌てて直すところにおかしみがある。これはいままでさんざん「酒を注ぐ」ことを描写してきたからでもある。最後の切り返しは『按摩と女』と少し思い出させるが、ここもやはり、適切な場面で適切な画面を入れるているように思えたのであった。

小原庄助さん

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  • 発売日: 2020/09/19
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『女咲かせます』(1987)

 松坂慶子田中邦衛ら元炭鉱夫たちによる現金強盗作戦。監督は森崎東。物語は松坂慶子が父親の骨を埋めるため海の見える故郷の長崎へと帰ってくるところから始まる。かつては栄えていた町も今ではすっかり職を失った者たちのたまり場となっており、そこで暮らす仲間とともに、彼女は足を洗うため一世一代の大勝負に打って出るというわけだ。つまりすっかり時代に取り残されてしまった者たちの復讐劇でもある。彼らがデパートの地下に穴を掘ったり、エレベーターを使い上へ下へ現金を受け渡す姿は炭坑の作業さながらといえるのかもしれない。そしてこの上下の動きは二階に住む貧乏チェロ弾き役所広司との恋愛においても活きていて、松坂慶子はまず、床のきしむ音で男の存在を感じている。この二人の関係性は宙づりの告白から階段の下降を経て小高い丘に至る。またテンションが謎な宴会とか海に落ちたりとか、笑える箇所も多い。そして何より素晴らしいのは弁当を食べるシーンで、わかっていても思わず泣く。ベスト弁当。

女咲かせます [VHS]

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  • 発売日: 1988/06/21
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『「無頼」より大幹部』(1968)

物語や人物の背景が手際よく語られている。冒頭わずか5、6分ほどの中で無駄なく発端を語り、また画面では少年院からの脱走、電車、そしてパトーカーといったライト使いで楽しませてくれる。出所してきた渡哲也が過ごすわずか一夜の中に彼の運命のすべてを配置させているのも効率が良く、会話の内容、ヒロインの松原智恵子、緑と赤を基調とした色彩も魅力的だ。さらに夜が明けてからのうすら明るい道路や線路などの風景もやはり素晴らしく、わずか数ショットでありながら非常に印象に残る。このような日常的シーンの出来がいいというのが美点の一つである。他にも、渡哲也がかつての恋人である三条泰子と対面するシーンは横長の画面が効果的で、松原智恵子との距離の対比が見事である。もちろんジャンル映画として重要な殴り込みシーンもまた格別の面白さ。雨降りしきる土木作業現場、屋敷、狭い通路など舞台は様々だがどれも縦横縦横無尽に駆けまわり展開することで空間を広げていて楽しい。ラストはほとんどフィルムノワールの光景。

「無頼」より大幹部

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  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

『絶叫する地球 ロボット大襲撃』(1964)

ご存知テレンス・フィッシャー監督作品。突如として人々が意識を失い、次々に車や列車転倒し、飛行機までもが墜落。そうして静かに終末が訪れる・・・なんて完璧な冒頭だろうかとうっとりする。『ハプニング』の自殺が近いかと思うけれど、しかしこちらは突然意識を失うというシンプルさで、しかも単にその場で倒れこんだりという非常に簡素なアクションではあるのだけれど、それでも十分に見ごたえのある画面となっている。人のみならず、なにか広大な規模で、本来そこにあるべきものが突如奪い取られたような感覚に満ちているのだ。そんなわけで機能が停止した田舎町の風景も大変素晴らしいし、怪電波に操られた死者が階段を下るシーンの照明もよい。大満足。

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  • 発売日: 2020/04/24
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『発禁 秘画の女』(1983)

黒沢直輔監督作品。いいショットがたくさんあるが、それに先立ってまず下町のアパートそのもの、つまりぼろぼろの室内、L字に折れ曲がる設計、緑生い茂る中庭といった場が素晴らしい。そこに撮影・照明の塩梅が加わり、いかにみすぼらしい部屋であろうとも不思議に豊かさを感じさせる空間となっている。さてこの豊かさというのには窓や格子越しに見える外の風景、光も重要な要因となっていて、例えば中田譲治と仁科まり子が初めて関係を持つ場所、お堂だろうか、ここでの光と影は強烈な印象を残す。ほんの短いシーンだが、窓の外に見える船着き場の風景も妙に忘れ難い。そしてこの光というのは竹林での強姦以降、徐々に非現実的な色合いを帯びてホラー映画の風味を増し、それに伴って仁科まり子のファムファタルっぷりも強くなってゆく。この辺りが黒沢直輔監督らしさなのであろうか、『ズーム・イン 暴行団地』や『看護婦日記 獣じみた午後』もイタリアホラーの雰囲気を纏っていた。ちなみに『看護婦日記』については性器に挿入された器具で操られるという話がやばいし、螺旋階段の下に監禁部屋というセットも最高で、さらに操られた美保純が看護師姿で歩くシーンはほぼ幽霊のそれであり、紫の街灯や赤い背景も面白く、天窓、首つり、炎上と感性がくすぐられる作品なのでこれも必見。

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『赤死病の仮面』(1964)

エドガー・アラン・ポーの同名原作に「跳び蛙」「ウィリアム・ウィルソン」を追加したような話。とにかく色の面白さに尽きる。もっとも極端な例としては、一面黄色の部屋があったかと思うとその奥には一面紫の部屋があり、さらにその奥には白、そして黒へというように、全く色の違う部屋がひと繋ぎに続いている屋敷の構造であろう。『刺青一代』か。さてそのほかの屋敷内部構造としては、アーチの先にある大広間は緑がやや支配的な床の配色が印象的で、またそこかしこに青緑黄色とカラフルな蝋燭が立てられており、石造りの壁は無骨だけれど「恐怖の振り子」時計など装飾が楽しく、舞台そのものはなかなかに魅力的。ただ屋敷モノとして色以上の面白さがあるかというと、それは正直微妙なところ。地下牢や白いシーツ揺れる寝室もイマイチ盛り上がらない。そのうえで本作を支持するのは、屋敷の主人であるヴィンセント・プライスの下へと群がる赤死病に罹った客たちの姿が、まるで『ゾンビ』のようでサイコーだったからである。あとヒロインのジェーン・アッシャーもかわいかった。スコリモフスキの『早春』のヒロインですね。

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『血塗られた墓標』(1960)

反対にこちらは白黒ホラー。冒頭の鉄仮面ハンマーが大変暴力的で素晴らしい。内側に仕込まれた針で顔面串刺しというわけだ。とはいえ、本領は森の中を駆ける馬車や朽ちた墓場、そして古城といった、いかにもな舞台の視覚的楽しみである。特に照明、黒の表現は古城の佇まいと合わさって格別に美しい。そんな古城の雰囲気を存分に楽しませてくれる代表的なシーンを二つ挙げる。一つ目は、幽霊の接近が風によって示される場面である。扉が開き、楽譜が飛び、カーテンが揺れ、鎧や椅子も倒れていく様子をじっくりとカメラが追う。そしてついに幽霊が目の前に迫ると、今度は素早いカット割りとズームによって十字架による撃退までスピーディーに展開する。二つ目は馬車に乗って森に現れた幽霊の導きにより、城門をくぐって広間を通り幾許か歩いたところで地下墓地へ至るという一連の場面。ここは幽霊の持つランプの光が印象的で、黒の強調により恐ろしくも非常に美しい画面となっている。ちなみに森のシーンでも白と黒の美しさは大きな効果を上げていて、こちらは木々の黒さに対して霧の白さが恐怖の雰囲気を漂わせている。この2つの表現は後年の作品である『呪いの館』にもみられるが、そのうち、室内を歩く点に関しては『呪いの館』で違う方向への進化を見せているものの、風についてはこちらに軍配が上がる。しかしバーバラ・スティールは『幽霊屋敷の蛇淫』といいホラーの似合う方ですね。

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というわけで、以上が2020年下半期に見た旧作のベストでした。ここ数年あまり映画を見れてなく、昨年は特に駄目だったわけですが今年はとりあえず現在27本というところで個人的にはいいペースで見れているので、これを落とさないようには見ていきたいと思います。

今年の映画、今年のうちに。2020年新作映画ランキング

年の瀬でございます。というわけで今年もやります、2020年に見た新作映画ベストです。今年鑑賞した新作62本の中から選びたいと思います。尚、新作の基準は今年はじめて公開となった作品でリバイバルは除外。Netflixオリジナルなど配信作品についても今年初めて日本で見られるようになったもののみ入れることとします。さて、前置きはこのくらいにして早速ベストに移りたいところではありますが、今年度はベストテンではなく、ベスト5+次点にします。理由はまた後ほど。

 

 

次点 のぼる小寺さん

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小寺さん(工藤遥)がのぼる理由は結局わからない。対面しても響きあわないので、結局周囲の人物は小寺さんを見つめ、また彼女に倣って何かをするしかない。のぼることも卓球も心理的な意味には回収されず、素晴らしい音の(音響は小川伸介や青山真治作品を担当した菊池信之)の中、純粋に行動として画面に現れる。それが良い。ミニマムな作品でキャラクターも多くはないが不快な人物はおらず、『桐島、部活やめるってよ。』の影響下にあって『アルプススタンドのはしの方』のような押しつけがましさもない。そして見つめることのほか見つめられることの意外性も描いていて、例えばネイルのような細かいことから、誰もが見られることについて驚きつつ受け止める。それは最終的に、2回目の背中合わせの関係で結実するだろう。古厩智之監督作品は初めて見たけれど、とてもよかった。

 

5位 透明人間

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玄関から家を出る話である。セシリア(エリザベス・モス)はDVから逃走しその余波で隠れて生きるようになるが、その上策略によってまともには取り扱ってもらえなくなり隔離される。建物の外から中へを繰り返し、ついにそれが体にまで達したとき内から外への反逆を開始し、最後には元の玄関を正面から堂々と出ていくに至るという話なのだ。この外から中へを繰り返すうちパラノイアチックな恐怖に襲われる感覚がとても面白く、見えない足は大変怖いし、何もない空間のあちこちからノイローゼを引き起こすようだ。ホラーがきちんと画面に定着している。『透明人間』は勿論女性の性被害についての映画だが性別を入れ替えても成立しないことはないだろう。そして当世風以上であること以上に、サスペンス/ホラーとしてとても古典かつ最新の気味悪さが付与されているのが嬉しい。

 

 

4位 ソウルフル・ワールド

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ピクサー久々の当たり。特に魂世界が良く、死者が導かれる先の光は有無を言わさぬ圧力があって怖いし、触れた瞬間の音もまさに「消失」という感じでやばい。パステルカラーの魂世界ではカウンセラーと呼ばれる一筆書き風キャラクターの表現が目を引く。基本的に魂世界はどうも胡散臭いけれど、迷える魂たちなどホラー部分は本気。そしてなにより素晴らしいのはアッティカ・ロスとトレント・レズナーによるテクノな、『ソーシャル・ネットワーク』を思い出させるバランスの劇伴である。これらに比べると現実世界に戻ってからはイマイチ物足りない。ライティングは素晴らしいし、視点を変えて現実を再構築するのはピクサーお家芸で、流石話もうまい。だが生徒がトロンボーンを披露するシーンなどいかにも説明であざとくはないか。最後ももっと活劇にできなかったかと不満もある。まぁ、あざとくても結局泣くところは泣くのだけれど。さて本作は「枠」から出る話だといえる。ジョー(ジェイミー・フォックス)の周りは著名なジャズミュージシャンの写真やポスターだらけで、彼らに倣い彼らを目指すジョーが(演奏本番前も写真を見て居直る)、実際に目で見て感じたものをこそ愛し、最後には枠から出ていくところで終わる。とてもいい話だ。しかし実際、日々に美しさや喜びを見出す感性って無茶苦茶特別な才能じゃないっすかね、とは思う。

 

 

3位 ハニーランド 永遠の谷

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こんな世界があるのかと発見すること、それが映画の面白さの一つであるとするならば、北マケドニアの辺境の地で養蜂業を営む女性を捉えたこのドキュメンタリー映画こそ、今年もっともその称号にふさわしい。電気や水道は届かぬぼろぼろの小屋に盲目の母親と二人で暮らしながら蜂の世話をするハティツェの行動一つ一つに目を見開く。厳しい崖を伝い蜂の巣を取りに行くという地形の驚きから、養蜂業に関わる道具の一切についても勿論、市場ではちみつの価格交渉をしながら髪染めを買って帰り、親と口げんかしながらご飯を食べ髪を濡らす姿まで、新鮮な未知の世界の驚きと、しかしやはり普遍的な人間の姿に引き付けられる。この養蜂家の自然な振る舞いは、撮影に3年以上の歳月をかけたことが大きく影響しているのだろう。それでも上映時間はたった87分。素材のほとんどは使われていないということだが、逆に最も必要な成分だけで構成されているといえよう。ショットもおおむね素晴らしい。ただ中盤以降わかりやすい物語が生まれてきてからは少し落ちる。あまりによくできた展開なので劇映画かと疑うほどだし、疑ってしまうほどのことが実際起こったのだと思うとそれは確かに生かさずにはいられないのだろうけれども、画面上の驚きは減ってしまった。

 

 

2位 幸せへのまわり道

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ロイド・ボーゲル(マシュー・リス)による2度目のインタビュー。「相談されるのは重荷じゃないですか?」と聞かれたフレッド・ロジャース(トム・ハンクス)は、ピアノの鍵盤をたたくジェスチャーをする。これは彼曰く感情を制御する方法らしいのだけれど、さてこのショットが不思議だ。この鍵盤をたたくショットだけ、他の切り返しとロジャースの位置が微妙に違って画面端の方に少しズレている。いったいなぜなのだろう。気にしてみていくと、ロイドは癒されていくにつれ、画面内の枠に収まるようになり「お隣さん」に収まっていく一方、ロジャースはときどきはみ出す姿を見せている。人形の吹き替えをする姿がそうだった。もちろん最後のショットもそうだ。その姿が妙に心に残る。もちろん、撮影や照明といった基本的な画面の良さもあるし、提示する癒しについてもそれはそれで温かみのあるいい話だとは思うが、心打たれたのは人知れずはみ出てゆくロジャースの姿であった。

 

 

1位 ブルータル・ジャスティ

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 今年もっとも驚いた作品で、感想は以下の通り。

『ブルータル・ジャスティス』を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら 

S・クレイグ・ザラーという監督のことは初めて知った。どの作品も空間とアクション演出が巧みで、足の負傷と妻を逃がすという共通点を持った、作家性の強いタイプの人だった。こんな映画を見過ごしていたとはと恥ずかしくなると同時に、知らないということの価値を存分に味わった。本当は世界中にこういう出会いが待っているはずなのだという感動も加味して、今年の1位はこの作品。

 

 

 

以上が僕のベスト5+次点です。次点として迷ったのは『リコーダーのテスト』で、これは同じキム・ボラ監督の『はちどり』よりも全然よかった。ちなみに『はちどり』については空気感などというあやふやなものではなく、循環される空気とされない空気の扱い方について考える方が面白いと思う。他には『アンカット・ダイヤモンド』『フォード対フェラーリ』『ナイチンゲール』『初恋』も良かったと思う。だけれどもベストと呼ぶほどには思えなかった。期待していた『スパイの妻』は、映画/ドラマ、脚本/映像の間でもがいているような感触で面白い部分もあったけれど、黒沢清の新作では初めてブログを書かなかった。そういう微妙な線の作品が多かった。ちなみにワーストは断トツで『ジョジョ・ラビット』。下手とはいわないし、サム・ロックウェルの役は『スリー・ビルボード』よりよっぽどよかったように思う。だがあの生意気なガキがとにかく大嫌いだ。出来不出来を超えて嫌いだ。見ていられなかった。

さて今年は面白い作品がなかったのか?おそらくそうではない。『ヴィタリナ』『セノーテ』『死の間際』『鵞鳥湖の夜』『ジオラマボーイ・パノラマガール』など面白そうな映画はまだまだあった。しかしやはり、コロナ禍によって満足に劇場に通えなかったのは大きい。僕は就職してからというもの、映画館はおろかイオンは勿論まともな本屋一つない田舎に住んでおり、そのため地元へ帰省して見ることが多いのだけれど、情勢によりそれがなかなかかなわずにいたということがまず影響している。

配信はそれでも見られる。実際このベストも5、3位以外は配信で見た。しかも今年は映画祭も配信していたわけだから、普段よりバラエティに富んだ作品が見られたはずである。だが性格がだらしないので期間限定では多くの場合見逃してしまった。時間と場所が強制される映画館はそういう点でありがたい存在だ。

今年はどうにでもできる時間は本当に無駄にしていて、仕事中なんかは映画を見たいと考えていても、結局家に帰っても何もしない時間が増えた。そういう点では、映画が好きとは言えないのかもしれない。そもそも映画がわからないのだから本当はもっと渇望して片っ端から見なければいけないし、見る人は手を尽くして見るだろう。でもまるで気力が湧いてこない。しかも見たところでただ通り過ぎただけのようなことも多い。空っぽのコップをひたすら眺めているような1年だった。

来年はもっと多く見ていきたい。とりあえず年に明けには下半期旧作ベストでお会いしましょう。それではよいお年を。