『エイリアン ロムルス』を見た
遥か空に暴君
1979年に公開された記念碑的名作『エイリアン』。そのシリーズ6作目となる最新作。監督は『ドント・ブリーズ』などで知られるフェデ・アルバレス。主演はケイリー・スピーニー、デヴィッド・ジョンソン、イザベラ・メルセドら。製作にはリドリー・スコットが名を連ねる。
原点回帰という、胡散臭くて退屈なあのきまり文句を、今回に限っては大いに歓迎したい。『エイリアン:ロムスル』は真っ当に原点回帰を果たした堂々たる恐怖映画である。ただしここでいう原点とは、1979年に公開されたエポックな、完全なる有機体という新たな恐怖を生み出した歴史的名作を指しているのではないし、何かしら尖った表現で人気を保ってきたシリーズのことを指すわけでもない。俎上に上げたいのはそれらよりはるかに古典的な、吸血鬼という怪物についてである。
陽の当たらぬ惑星で不法な労働を強いられてきた若者たちはあるとき、はるか上空にわけもなく漂う宇宙船を発見した。ロムルスと名付けられたその巨大な宇宙ステーションはその名に反してすっかり聖域が侵され廃船と化しているらしく、彼らは過酷な環境からの脱出のため、物盗りになってその船へ侵入する。
アイリス・インのような丸扉をくぐった先に広がるホール。そこに階段があるということに感心した。利便性の低そうな、やや大仰にも感じされる階段から、あぁこれは恐怖映画の舞台と反射的に納得させられる。なぜこんなところに冷凍睡眠カプセルが置かれているのか。その理由は不明だけれど、本来屋敷の主人がいるはずのスペースに保管された、この棺桶に似た装置はいずれ我々を震え上がらせることとなる。
さてすんなりと目的の物を見つけた若者たち。しかし誤算は、その船がウェイランド・ユタニという著しく倫理観を欠いた会社の持ち物だったことにある。例えば人間の顔に張り付いて体内へ種を植え付ける寄生体を保管していたり、あるいは「完全なる有機体」の体液を人体に適応させる研究を行っていた彼らは、その成果物がひとまずの形になった矢先、怪物に襲われて全滅したらしいと、喋る航海日誌ことユタニ社製アンドロイドによって語られる。哀れな若者たちは宇宙を漂う廃船が化け物の巣窟であったことなど露知らず内部に潜んだ邪悪を目覚めさせてしまうわけだ。
これまるで『吸血鬼ノスフェラトゥ』ではないか。つまり、病を広めるネズミの大群と、闇に紛れる怪物を積んだあの帆船。最後には無人となって水面を静かに滑るように入港する、死そのもののような恐ろしく美しいあの幽霊船のことである。
ロムルスが崩壊して廃墟となった今、ユタニ社の目的はその無事に研究成果を持ち帰ることだ。その手先たるアンドロイドは、物取りとして侵入した若者たちに対して解放を約束する代わり、研究サンプルの確保を命じる。宇宙の植民地を再興させる切り札になりうるその物体はローマの伝説に倣うのならばさながらサビニの女か。もちろんユタニ社製の薬品など当然安全なはずもなく、醜悪な惨劇を招くことになる。つまりいくつもの悪を乗せたロムルスもまた、決して港に到着させてはならない、死を運ぶ幽霊船なのだ。
醜悪な惨劇。それはイザベラ・メルセド演じる妊婦・ケイの身に起こる。彼女は先の液体を自らに注入したことでエイリアンとも異なる怪物を産み落とすわけだが、その生白くて虫のように細く伸びた手足が奇怪な、しかしヒトに似た怪物が母親たるケイの首筋に噛みついて、極めて陰惨かつセクシャルな雰囲気を漂わせる姿など、言うに及ばない。
思い返せば、肩をこわばらせ指先を開き怖気立って歩くケイの、一目で恐怖が伝わるシルエットに『吸血鬼ノスフェラトゥ』の息吹を、マックス・シュレックの伝説的姿を重ねることができたのは偶然ではないだろう。彼女は首元に打ち込んだ液体によって、妊娠・出産という自分では調整できない体内の仕組みから犯され変容させられたわけだ。ちなみにこれはフェデ・アルバレス監督が精液・血・蝋と繰り返してきたモチーフでもある。
エイリアンシリーズでは珍しく船の内外で役割を持たず、守られることが前提となるケイが、物語上最も重要な存在であることに異論はなかろう。そしてそれは、本作が古典的な恐怖映画の流れを汲むのと同時に、実のところ家族の映画であるということにも関係している。
『エイリアン:ロムルス』とは実際、独裁的に若者を支配し益を独占する旧世代と、その体制の元親を失った者同士が身を寄せ合ってコミュニティを形成する新世代との衝突の物語である。自由を押さえつける支配的な惑星=我が家から抜け出して新天地での生活を夢見ている若者たちは、故郷へ戻ることなど考えはしない。それが地球という絶対的故郷があるエイリアンシリーズとは大きく異なる点だ。だがそう簡単に支配を手放さない旧世代=ウェイランド・ユタニ社は、自分たちが支配できる宇宙船内に彼らを閉じ込め、都合良く働くことを強制する。つまり本作で繰り広げられるのは宇宙の果てで神秘的恐怖と対峙する物語ではなく、加藤幹朗氏がいみじくも指摘した、ファミリー・メロドラマなる世代間闘争の1形態といえるのではないか。
その中で、赤ん坊は新世代にとって「太陽の光を見せたい」という希望であり、旧世代にとっては彼らの成果物と合わさることで「植民地復興の鍵」という希望になる。ケイは捕獲と奪還によって両者の中間に位置させられることで結果最も踏みにじられ、尊厳を破壊される存在だ。
そうして生まれ出た畸形の赤ん坊をレインは船外へ捨て去ろうとするものの、途中、体液から酸を感じて取り落とし、今度は冷気の噴射による殺害を試みるがその瞬間外殻の裂け目からチラと除いた顔が自分たちに「似ている」ことに動揺して手を止めてしまう。この一連のアクションは旧世代の遺物である怪物を相手にした世代間闘争が最も苛烈に表出しているとともに、「あってはならない現実と触れ合ってしまう」恐怖に襲われる素晴らしいシーンである。そして実際、怪物は姉弟・兄妹が中心の新世代において、親殺しあるいは近親相姦という「あってはならない現実」を行う破壊者でもある。我々はファミリードラマがホラーによって内側から食い破られる様を目撃するわけだ。
闘争を制したレインとアンディの姉弟は新天地へと旅立つ。ユタニ社製アンドロイドのアンディは旧世代を代表する存在なので本来目的地へは行けず、途中で投棄されるはずだった。仲間から本当の家族じゃないと諭され、今や機能停止に陥りつつある、"もともと捨てられる予定"のアンディを助けるなど、目的を達成しタイムリミットが迫る状況では、全く無駄なはずだ。だがそれでもレインは扉を開いて引き返す。その瞳が活劇を生む。事実、ここから彼女は侵入者・被害者から対峙する者へと変貌し、いよいよ自ら扉を開き上下への移動、切り離すことを繰り返して、エイリアンとアンドロイドに代わって活劇を牽引する。映画が扉の開閉のリズムによって走り出し、最後まで緊張感が持続されるのはこういった主体の変奏があるからだろう。
『エイリアン ロムルス』はだから、定型的な娯楽映画といえるかもしれない。だが一体それの何が問題だというのだろう。定型的だからこそ到達する映画の面白さに触れられるこの作品は、個性的を装う凡百の作品よりもよっぽど素晴らしいと私は信じてやまない。
最近見た旧作の感想その53~いまさら!2023下半期旧作ベスト~
本来今年の1月に更新するはずだった2023年下半期旧作ベスト記事ですが気づけばもう2024年の上半期が終了。今更書いてもな、とは思ったものの一応は継続してやっている内容なのだからと思い直して記事を書きました。しかし半年以上前に見た作品数本についてあれこれ思い出して書くのはいつも妄言ばかり吐いているようなブログとはいえさすがに難しい。なので、今回は昨年下半期に見た中で最も印象に残っている一本に絞って感想を書くこととします。
『紅蓮華』(1993)
光を受けて明るくなったステンドグラスの他はほのかにランプが灯るだけの落ち着いた喫茶店で、ある男女が結婚について話している。女・さくら(秋吉久美子)は、戦時中にわずか4日間をともに暮らした夫があり、戦死した後も彼の実家で苦しい暮らしを強いられていたが戦後に解放されてからは懸命に働き、財を成し、息子もだいぶ成長したことを機に再婚を考えていると、少し浮足立ったように話している。男・建造(役所広司)の方は落ち着いて、結婚には前向きな姿勢を見せるも現在はほかに付き合っている女性がいるからその関係を清算するまで待ってほしい、と淡々とした調子で答える。
『紅蓮華』の冒頭にあたるこの場面は全12カットで構成されている。そしてその12のカットには、一つとして同じ画面がない。カメラの位置あるいは被写体のサイズは常に変化し、ときに二人の内側から、あるいは急に離れた距離から二人を捉えて物語は進んでゆく。店内の黒く沈んだ照明と、律儀というよりはやや過剰な視点の変化には少し驚かされるが、喫茶店という主観と客観の境界がやや曖昧な空間、例えば水を注ぎに来た定員を少し邪魔そうに一瞥して内緒話をするけれど個室に収まるほどではないような男女が会話をする場がここでは映し出されている。
手の込んだ空間設計は以降も続く。室内に置かれたカメラが次のカットでは窓の外に出ているなどはざらで、視点の変化には度々はっとさせられる。そのカメラによって本来親密な空間であるはずの家の内部、家族であり夫婦であり、あるいは愛人を加えた奇妙な生活空間の中にも常に客観的な視線が注がれることとなる。
そこに人物の動きが加わると空間の印象はさらに強まって、例えば、新婚夫婦の下に押しかけてきた愛人・洋子(武田久美子)と3人で朝食をとる場面ではまずカメラを室内に置き、建造が仕事へ行くという段になるとカメラは外に出され、素早く立ち上がり甲斐甲斐しく尽くす愛人の背を、広い空間に一人取り残されたさくらが眺める姿をやや冷静な距離から我々は見つめることとなる。カメラポジションを変えるのはただ徒に画面の変化を求めた結果ではなく、一つ一つが物語の流れに沿って丁寧に構成・選択されていることを示している。
一方で、かなり「おかしな」カットも存在する。さくらが稲野和子演じる母に再婚を報告するも没落旧家の長男などもってのほかと取り付く島もなく否定され、しかしそれを意に介さずに負けじと批判し返して反目し合う一連の場面。さくらの言葉に憤慨した母は彼女の存在を遮断するように部屋の奥へ去って襖を閉めるものの、間髪開けずに襖は開かれ、その圧に押されて結果見放すようにして再婚を認めることとなる。この流れは3つのショットによって構成されているが、おかしなことに、さくらの「襖を開ける」動作が二重になっている。「母が室内へ逃げ込み襖を閉めるも間髪入れずに開けられる」カットが一つ、「その勢いに驚いた母の顔のアップ」が一つ、「閉じていた襖を開ける娘と、背を向けてその場に座り込む母」のカットが一つで、つまり「襖を閉める」動作は1回のはずなのに、「襖を開ける」動作はアップを挟んで2回行われている。これは画面の流れに混乱を生じさせるほど不自然で何かの間違いかとも思わされるが、しかしその直前ではきれいにアクションで繋いでいるのだから意識的に二重にしたと思われる。実際このおかしさによって、本来襖によって区切られるはずの空間がこじ開けられたという印象は強まっている。
建造と愛人との関係についてさくらが問い詰めるシークエンスにも不思議なずれが生じている。はじめ、カメラは書斎奥の机に向かう建造の背中と、その斜め後ろで真横を向いて座るさくらの両者を捉えており、建造が居直って妻を非難しはじめるとカメラは男の真横に移動する。そして度々視線をこちらに向けながら喋っているのだが、これはおかしい。さくらは彼の斜め後ろに座っているのだから視線を向けた先には誰もいないはずである。しかし確実に、その誰もいないはずの空間に目線を向けている。3カット目にはまたカメラ位置が大きくずれて、狭い室内で視線はちぐはぐに交錯する。
これらの画面について考えたとき、そもそもこの作品には切り返しというものがかなり限られていることに気が付く。クローズアップ、構図-逆構図で向かい合って関係性を結ぶような2者はほとんど登場せず、だいたいの会話は一定の距離を保つことで客観的に捉えられるものの、そこに突然主観性を持ったアップが挟まるか、あるいはズレることで身勝手さや噛み合わない孤独が強調されている。
ちぐはぐな夫婦の関係性を示す空間としてとりわけ見事なのは、ダイニングキッチンで酒をあおる建造と、和室で着替えるさくらとのやり取りである。隣り合って繋がっているはずのこの空間でのやり取りは3度繰り返され、それぞれ異なる色合いを持って男女の断絶が強調される。
さくらの提案により、建造は愛人の洋子と実の弟を結婚させるがその式の後、憑き物が落ちたように軽やかに帯を解くさくらに対し、夫は背を向けたまま「今後も指一本触れない」と冷淡に宣言する。一瞥もせず、ただ妻の提案は間違いだったと口にし続けるばかりだ。
数日後、今度は上機嫌に酒を注ぎながら「仲のいい友達同士の夫婦でいよう」と告げる夫を静かに見つめて、さくらはだらしなく座り込んで荒涼とした面持ちのままストッキングを脱ぐ。相変わらず、この二人の目線が合うことはない。さくらのクローズアップから全身のカットへ変わるタイミングがやや奇妙で少し動揺するわけだが、それ以上に彼女の孤独を強調するジャンプカットにここでは驚かされる。
さて3度目はそれから長い年月が経って建造の母の葬式後のこと。ここでついに二人は不意に見つめあうけれども、建造はさくらの艶めく肉体に魅了されながら同時に怯えるかのようにして再び背を向けてしまう。
それからこの夫婦の間にもようやく身体的な接触が増える。とはいえ、それは自殺へ向かう夫を止めるためのもので、夫婦らしい生活が始まったわけではない。戦中に旧家の長男として生まれ、没落していく中自分の人生などないと信じて社会の変化に背を向けていた男が、うっかり妻の生々しさを見つめてしまったことから反対に積極的に死へと向かう羽目になる。妻が差し出す物には決して手を付けず、荒れ果てて家を出てはしかし律儀に戻ってきて寝そべる姿にはどこか怪談の趣があるようにも感じられて、夫の体に手を這わせる妻の姿からは引き留めるというよりもどこか憑りついたという表現が似合うようにすら思える。というのも、過去と家に自分の存在を縛り付けてこだわって落ちぶれた建造にとって、過去と家を捨て去り新しい生活を切り拓いたさくらはもっとも自分が脆く空虚な存在だと認識させられる「おそろしい」ものかもしれず、まともに向き合って目が合うなどすれば死が待っているのは必然ではある。建造は、はっきりとそのことを自覚してしまったから自殺せざるを得ないだろう。
建造は紅葉の盛る川岸でガソリンを飲み干して、自らを車もろとも爆発させこの世を去る。やや作品にそぐわないトーンにも見えるが、これは、彼がほとんどの場面でたしなんでいたタバコと酒の変奏に他ならない。彼は酒癖の悪さによって現代への憤りや普通の生活の否定を表出させてきたが、戦中派の男が内部にため込んだ現代への抵抗は母の死と妻のまなざしによって無意味な過去となり、本質的な脆さだけが残った。酒場で飲んで倒れる反動的アクションはリクライニングシートでゆっくり後ろに体を傾ける緩やかな動きへと変化して、男は生涯を終える。
ここに登場する水と火のイメージはさくらも無関係ではない。彼女の場合水と火とは北海道での凍える冷たさと松明の記憶として登場し、子と共に命を絶とうとしていた土地を巡る忌々しいイメージ、つまり映画冒頭ではとっくに避けられ退けられたイメージである。「時代は変わった」と母を制して新しい生活を望むさくらと建造ははじめからズレることが前提の男女で、親密に触れ合ったりなどしたら片方が否定される存在同士だったということになる。女は、家や家族、男の身勝手を踏み越えて現代を生きる。
2024年の上半期旧作別は早めに書きます。今回が長くなり過ぎたので次はパパっと。というかここまで読んだあなたはすごい。
『蛇の道』(2024)を見た。
夜との境をなすいや果ての地
劇場長編映画は4年ぶりとなる黒沢清監督最新作。1997年に監督した『修羅の極道 蛇の道』を、舞台をフランスに変えてセルフリメイクした。主演は柴咲コウ。ほか、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、西島秀俊らが出演。
ねぇ どうして誰もなんにもしないの?
1999年に黒沢清監督が映画美学校の学生とともに制作した『大いなる幻影』に、こんなセリフがあった。『大いなる幻影』は黒沢清監督作品に頻出する旅行というモチーフ-過去を忘れて何かやり直すための漠然とした、果たされることのない約束-が色濃く表出している作品である。
地図上から日本が消え、いたるところでひどく舞う花粉に対抗する薬は人から生殖機能を奪い、どうやら何かしらの集団的な対立も起こっているらしい世界を舞台にしたこの作品のヒロイン・ミチ(唯野未歩子)は、国外からの郵便物を取り扱う仕事をしているうち、海外への憧れを募らせるものの何かしらの理由により日本を出ることができないらしい。しかし、結局彼女は海に流れ着いた白骨死体を見て、彼の地も悲惨な状況にあると知り慟哭する。
セリフは、コピー機を使おうとするミチに投げかけられる。作動しない機械に困惑する彼女の傍へ、音もなく近づいてきた、暗い影が落ちシミのように顔が滲んだ女性は、その機械が「もう何年も前から壊れている」ことを告げ、続けざまにかのことを問いかけてくる。これは忘れられ、見捨てられた過去=廃墟が、忘却を許さずに暴力的に迫ってくるといういかにも黒沢清的瞬間であって、『叫』『クリーピー 偽りの隣人』『廃校綺譚』そして『蛇の道』など、かなり多くの作品で扱われる図式である。
1997年にVシネマとして発売された『修羅の極道 蛇の道』は、見捨てられた過去と、その過去が暴力的に迫ってくるまでの宙ぶらりんの時間ががらんとした空間の利用によって視覚的に表現されており、また日常的光景を虚ろへと還すような哀川翔の茫漠たる存在感も際立つ傑作である。それが四半世紀も経った今、セルフリメイクされた。
オリジナルと大きく異なる点には当然主人公が女性であるということ、妻という存在が前面に出てきたことがある。元々は夫たる男しか画面には登場せず、惨殺された子らを産んだ女性の姿は見当たらなかった。そして柴咲コウ演じるサヨコは哀川翔と異なり、確かな足音を響かせながら男たちに迫りゆく。幼いころからの憧れでパリに暮らしているという彼女は、海外に行けなかった唯野未歩子とも、幽霊となった夫に付き添い旅に出た深津絵里とも、アメリカに渡った「らしい」蒼井優とも、仕事で仕方なくウズベキスタンに滞在する前田敦子とも、どこか違うようである。では一体、彼女は何者なのか。
結論から言えば、彼女は『妖女ゴーゴン』(1964)に登場した怪物メゲーラに違いない。ゴルゴーン三姉妹の一人、その顔を見た人間を恐怖で石に変えてしまう、あの怪物である。
その怪物は、村はずれの屋敷の窓から見える石造りの階段をいくつか下ったところでアーチ型の扉を開け、その先に広がる森を進み、崖を登って、橋を渡った向こうに見える古城に潜んでいる。夜風に揺れる朽ちた旗と、蜘蛛の巣のかかった石像が出迎える広間には枯れ葉が舞い込み、家屋は廃材と化し打ち捨てられている。古い城の内部は中2階になっていて、左端に折れ階段がある。踊り場に鏡が掛けられているその階段を上った先の、玉座を囲む柱の陰に怪物は潜む。彼女が、ひとたび緑のドレスに包まれたその身を、真っ赤に充血したその目を、なによりその蛇の髪を露わにしたとき人間は石になるほかなく、鏡に映った姿か水面への反射でさえ恐怖で失神してしまうほどだ。
サヨコがメゲーラめいた怪物性をはっきりと現わすのは、影が落ち真っ黒に塗りつぶされた廊下から不意にその姿を見せて、監禁している男たちの正面に座り「真犯人をでっちあげよう」と提案する場面のこと。窓からは由来不明の赤のようなオレンジのような光が差し込み、倉庫を不思議に染め上げている。日常的な光景の範囲にとどまっていたオリジナルからの変更がひときわ目立つこの異常光線は、ゴーゴンの背後で玉座を照らすオレンジと呼応する。これが単なる偶然ではないことは、「蛇か、その目は」とオリジナルには登場しなかった「蛇」なる単語をわざわざ口に出している点からも了承されよう。これまでも一つの言葉を契機に世界をがらりと変えてきた黒沢清なのだから、大胆に発せられる「蛇」の一語から2024年のパリにメゲーラを召喚しても、時空を超えて光が差し込んでも何も不思議はない。だからサヨコが着ている服が緑であることも無論偶然ではないし、彼女が羽織るフード付きのコートが、メゲーラの仮の姿である村娘・カルラが羽織るコートと重なって見えるのもやはり偶然ではない。あるいは、遊園地の奥に広がる廃工場で上階に佇むサヨコを見つけるショットが、古城の中2階で堂々と構えるカルラを見つける場面を想起させるのもまた、偶然ではない。ごろんと転がる三つの死体がどれも目も開いて呆けた表情で固まっているのも必然である。
倉庫そのものの在り方にも違いがある。オリジナルでは、どうやら下町風の建物が並ぶ一角に立地しているらしく、人が出入りする狭い扉はあるけれど建物の外観は隠されており、一体どうやって車があの広い倉庫の中へ入ったのかはまるで分らない。一方、今回倉庫はどうやら生活圏からは少し離れた郊外に位置しているらしく、車は入り口付近に停められ、そこから袋詰めにした男をずるずる引きずって建物へ入り廊下を渡り、監禁部屋へたどり着く。こんな、元々は省略していた描写をなぜわざわざ入れたのか。なぜ外観によって日常との接続点、あるいは切断点を見せたのか。
怪奇だと考えればこの点にも合点が行く。先に長々と書いたが、怪奇の雰囲気は舞台設定に依るところが大きい。その陰鬱な道のり、室内の古風で大げさな装飾や迷宮めいた廊下、あるいはそれらを取り囲む墓地などの環境にポイントがある。実際、例えばマリオ・バーヴァの映画を思い出すとき、朽ちてはいるが荘厳なアーチとか墓地へ下る階段とかハッタリの効いた室内を想起しない者はいない。どこか遠くに見える不気味な古い城や館に、うっかり到着してしまう怪奇の導入はマチュー・アマルリックが拉致されてくることに変奏されている。怪奇映画とは、何より生と死が衝突する特殊な場所の設定に肝があるのだ。つまり2024年版『蛇の道』とは、同じ物語でありながら微妙にジャンルをスライドさせたリメイクなのである。
『大いなる幻影』で投げかけられた問いを、怪物・柴咲コウは進んで引き受ける。物事を解決する気があるのかないのか、責任の所在を曖昧にし続ける男たちに向かって視線を向けるサヨコはあの顔のない女性と繋がってその先へと進み、怪物となって見捨てられた過去を問い直すためにやってくる。
ところでここに一人の、黒沢清世界特有の男性がいることを忘れてはならない。青木崇高演じるサヨコの夫だ。彼はたびたびサヨコへの連絡を試みる。曰く、娘が亡くなったことは忘れて、夫婦二人での生活に戻ろうじゃないか。こちらに帰ってきてはどうか。これは「旅行」というモチーフの一つの形である。だがサヨコはこの瞬間をこそ待っていた。アパートの一室。機械ばかりが無限に作動し続ける、ピントの合わない、異界化したこの空間で、彼女はただ、その時を待ち構えていた。
ゴーゴンは何もせずただ古城の奥に立っていればよい。すると人間の方からフラフラと近づいてきて「あっ」と驚く 。ゴーゴンは相変わらず何もしない。しかし人間の側の被害は甚大だ。(黒沢清 著「映画はおそろしい」)
サヨコの目の上に、夫は蛇を見たに違いない。
いまさら!2023新作映画ベスト
新年のご挨拶を申し上げます。今年も当ブログをよろしくお願いします。
さて、いつもであれば「今年の映画、今年のうちに」と題して大晦日にその年の新作映画ベストについてブログを更新していましたが、今年は大晦日・元日にかけてPerfumeカウントダウンライブのため旅行しており間に合いませんでしたね。しかも帰ってからはまったり気ままに過ごし、気づけば1月も終わろうかという時期の更新となってしまったけれどちゃんとやります。2023年新作映画ベストです。新作の基準は僕の住んでいる地域で今年劇場公開された新作、ということで初見でもリバイバルは除外ですし、都心部では2022年公開の作品でもこちらで年内公開ならば対象です。なお今年も今一つ心に刺さった作品が少なかったので、ベスト5+次点です。
次点 ヒンターラント
第1次世界大戦後、ロシアの収容所から解放された元刑事が変わり果てた祖国で連続殺人事件に巻き込まれるお話。ブルーバックで作り出されたドイツ表現主義的歪んだ世界はほとんどやり過ぎの奇天烈ではあるけれどもとにかく拘りがあることには違いないし、背景にかまけるだけではなく90分ほどで人間の歪みと痛みを語り終えているのだからただの珍奇とはいえまい。これよりもほかに楽しんだ作品はたくさんあったけど、2023年にはこんな映画があったなぁと思い出したくなる感じから次点に選ぶ。6位でも10位でもない次点です。
5位 なのに、千輝くんが甘すぎる。
雨降りの道、畑芽育の髪の毛についたテントウムシを、学校一のイケメン高橋恭平がそっと手にとってやる場面。ここでは髪に触れる手のアップから掌中に収まった虫と、それに驚いた顔を見せた直後一歩退くヒロインの姿を非常にリズムよく繋いでおり、うっかり近づいてしまった距離がもたらす緊張と解放をスムーズに見せている。このように気持ちのよいアクション繋ぎ、あるいは適切なタイミングで引くカメラが映し出す距離の描写が光る作品で、終盤には見る・見られる関係の逆転もあって終始楽しく見られました。物語は気持ち悪いけれど。
4位 トリとロキタ
難民としてベルギーに渡ってきた偽姉弟が次第に追い込まれてゆく大変息苦しい作品ではあるものの、思いのほかとても娯楽映画らしいサスペンスに満ちていて驚かされた。飯屋の厨房を拠点に夜の街を彷徨いながら大麻を売りさばき、時に売春までさせられるが常に金は足りず、うらぶれた姿でまた夜の街に繰り出す様子にはプログラムピクチャーを重ねもする。さらに、遠い遠い倉庫に軟禁され大麻の栽培を任された姉を恋しく思ったトリが、その幼い体ゆえに閉ざされた倉庫の内部へと侵入する様子などさながら冒険・探検であって、室内の構造までいちいち丁寧であるためにサスペンスも持続している。ダイナミックな地形を生かした逃走と冷酷な暴力まで用意されていて大満足。森はいつだって暴力の味方です。
3位 ファースト・カウ
視界を覆い隠すほどの草木生い茂る手つかずの森は人が生活することなど微塵も考えてはいないし、ぬかるみの上を歩かなければならない小さな集落も決して心地よくはないだろう。ぽつねんと置かれた小屋は仮住まいでしかなく、狩猟団も英国の仲介人も先住民も、誰もが満足していないであろうこの土地、鳥だけが自らの存在を誇示して囀る環境の描写がとりわけ素晴らしい。その中で運ばれるミルクの滑らかな白やドーナツの甘美な音に心奪われるのはそれらが環境に不釣り合いなぬくもりを持っているからではないか。あるいは薪き割りと掃除の動作が同時に画面内フレームへと収まるショットが美しいのは、そこに人間らしい共同の空間が立ち上がっているからではないか。
ところで冒頭から繰り返される、隠れ、隠し、そして覗き見るといった行為はクッキーとキング・ルーという弱い男たちがこの環境で生きるための適切な方法であって、牛乳泥棒もその自然な延長として受け止められる。また彼らの共犯関係は「匿うこと」から始まっており、その倫理は最後まで貫かれる。つまり非常にシンプルな動機に貫かれた作品だけれどもそれは画面から不要な複雑さを排したがゆえの結果であり、映画の美徳だと思う。傑作。
2位 猫たちのアパートメント
再開発のため取り壊されることが決まったアジア最大級の団地と、そこに住み着いている猫たちを追ったドキュメンタリー。はじめ画面に映し出されるのは木々の緑が程よく配置された居心地のよさそうな、しかし徐々に移住が始まっていることを重機の存在が訴えかけている団地の姿で、猫たちはその光景をじっと見つめている…ように思わされる編集がなされており、つまりはまず編集が素晴らしい作品といえよう。さて猫たちは風に揺れる緑の間を、あるいは街灯に照らされて煌めく新雪に足跡をつけ闊歩する。しかしそんな風景も季節が過ぎるうち次第に瓦礫と雑草生い茂る廃墟の様相を呈しはじめ、植林が進むと土砂は崖のように盛り上がり荒野を想起させるまでに変貌してゆく。
このようにして小さな世界が崩壊していく過程がここには記録されている。猫たちは狭い地下を駆けまわり、人のいなくなったアパートを探索し、土砂の崖を登り寂莫とした世界を生きる。人類の手助けも決して感傷を呼ぶことはなく、ひたすら居住空間の崩壊と猫を主眼にした厳格さに心打たれる素晴らしい作品。
1位 レッド・ロケット
grate ageinの有害さをまき散らし一切反省をしない元ポルノ俳優が故郷で存分にその迷惑な人間性を発揮させる喜劇。彼の田舎は広い土地に横長の疲れた平屋と廃墟が並び、ゆったりと貨物列車の走るその反対側ではトラックが朽ち果てているような貧困地域で、製油工場のでっぷり丸いタンクや高く聳える煙突以外に発展の兆しも見えず、青く広い空にも解放感を見つけられない環境である。環境とは登場人物の生活と人生の背後を包み込む装置であり、ポルノ俳優のみならずここに生きる人間たちの一様に褒められたものではない在り方は、この環境にひとまず要約される。
しかし朝夕の陽、あるいは工場が放つオレンジと青の光に照らされながらふらふら移動するショットの心地よさ。または16ミリのざらつきと色彩、豊かな黒。そしてやや光の強めな画面は鮮やかで風景の切り取り方も美しく、環境は単純な要約からはみ出して滲み、さらに非現実への遭遇を促し始める。
男はポルノ業界への再起をかけ未成年の少女に近づく。予行練習として彼女の家で「撮影」に及ぶとき窓にかかるカーテンは非現実的な緑の光を蓄えており、まるで『めまい』だ。あるいは、ショーン・ベイカーらしいほとんどアクションとしての生々しい口論の末、裸で放り出された男を待つのは自分よりもさらに強烈なハリボテの光景である。ここでスーツケース・ピンプの間抜けな顔に滲む汗は、うっかり扉を開いてしまった異常な世界への緊張のようにも思え、そんな現実と非現実が対峙する特異点まで連れて行ってくれる、笑えて怖いこの作品を2023年の1位にします。
以上がベスト5+次点でした。他には
スピルバーグの恐怖映画『フェイブルマンズ』
壊れたテープのような異界玄関とタイトル回収が素晴らしい清水崇のヒップホップ『ミンナのウタ』
背景にいる何の関係もない人物が妙に良いポール・シュレイダー『カード・カウンター』
存在しない妻との会話に泣くウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』
ジャンルを横断しながら細かくタイムミットを設定して緊張感を保つジャン・フランソワ=リジェ『ロスト・フライト』
役者が光るアメリカお仕事映画ベン・アフレック『AIR/エア』
フルショットからアップまで役者の収め方がうまく移動も達者なマリア・シュラーダー『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』
ほとんど理不尽スラッシャーと化したアントワン・フークア『イコライザー3』
あたりが良かったですかね。配信スルーになったパーカー・フィンの『Smile スマイル』が期待よりずっと面白かったのも印象的で、これらを入れてベストテンにできるじゃないかとも思いましたが、なんとなくの並びの気持ちよさですかね。上位3本以外は気分次第で入れ替えてもいいかなというくらいの差です。
さて2023年も見られなかった映画、公開されなかった映画はたくさんあったわけですが、そのうちすでに『こいびとのみつけかた』と『ショーイング・アップ』は配信が開始されているのでこれから拾っていこうと思います。ちなみにワーストは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』やマーベル実写映画に『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』あたりですがこんな作品どもはどうでもいいんですよ。ワーストと言いたくなるほど嫌いではなく、単純にただただつまらないだけですからね。とにかく今年はもう少し見る作品の幅を広げたいです。ちょっとでも気になった新作は目もしておいて劇場・配信できちんと見るようにします。あと次回は山形の映画祭にも行ってみたい。ちょうど繁忙期なのがネックですが。
というわけで2023年新作映画の話はこれでおしまい。こちらの地域ではつい先日カウリスマキの『枯れ葉』が公開され、来月頭には三宅唱『夜明けのすべて』もはじまるわけですが、それまでに下半期旧作映画ベストの更新でお会いしましょう。それではまた。
チバユウスケが亡くなった
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTを初めて聞いたのは大学一年生だった2009年のことで、つまりそれは、アベフトシが亡くなった年のことである。
ミッシェルの解散から6年が過ぎ、ROOSOを経てThe Birthdayのボーカルとして活動していた頃に初めて聞いたのだから、自分の世代ではないとはいえまったく周回遅れの出会いであり、ファンになった頃にはすでに再結成の可能性など完全に潰えている状態であった。伝説と謳われるあれもこれも、すべては後追いだった。
しかし今思えば、後追いの世代だからこそ響いた部分もあるのかもしれない。ミッシェルの歌詞はそのデビューから終末的で、厭世観の漂う、シニカルなものが多いけれど、そういった終わりの雰囲気は、今はもうないという寂寥感によって際立って聞こえたのかもしれない。あるいは暴力的で鋭いリズムとスピード感に溢れた、しかし同時に単純な中に切なさすら感じさせるメロディ、そんなかつて鳴っていた音の熱狂に憧憬の念を抱いたのかもしれない。
そしてチバの声。唯一無二の、あの声が一番重要だった。チバの書く歌詞は抽象的なものが多い。だけどそれが単に非現実的イメージとして浮いたものにならないのは、チバの突破力の高い、ときに暴力的にも悲痛にも響く声があまりにも生身だからではないか。『ダニー・ゴー』『マリオン』や『シャロン』『さよなら最終兵器』……そのほか、数々の名曲たちに心を動かされるのは、チバのかすれた声が断片的なイメージと風景の間を切実さで埋めるかのように響くからではないか。特に後期ミッシェルはその色が強く、だからこそ私はそちらの方がより好きだ。
しかしその声も、もう新たに聞くことはできない。今となってはThe Birthdayのライブに行こうとしなかったことを後悔するだけだ。結局私の中でチバユウスケという、はじめてのロックスター、恥ずかしいくらいに影響を受けた男の身体を目にすることはなかったわけだが、もしかしたら、後追いの世代としてしか受容できなかった身として、それはそれでよかったのかもしれない。
というか、そうやって言い聞かせることしか今はできない。
『ゴジラ-1.0』で最も印象的なアクションについて
大げさで説明的かつ効率の悪い話運びには閉口させられるし、キャラクターの一貫性にも疑問を持たざるを得ず、ゴジラ撃退へ至る流れには居心地の悪さを感じるわけで、どうしても首を捻る部分の多い作品ではあるがしかしある場面、ある一連のアクションにふと惹きつけられ身を乗り出したシーンがあったのもまた事実である。それはゴジラが登場する場面……ではない。確かに、水平と垂直に円の動きを加えた場の創出や黒い雨のアイデアには喜び、特に小舟を追いかける様はどこか不気味で気に入っているものの、一方省略と呼ぶには実に都合のいい瞬間移動などややサスペンス不足でもあって、ニコニコ眺めていられる程度に収まるものだった。
では一体どの場面か。それは東京近海にゴジラが現れ、戦艦高雄が藻屑と化した後、神木隆之介演じる敷島が自宅へ戻り同居人の典子と会話をする、狭い室内でのやりとりについてである。
敷島を脅かし支配する恐怖の正体について告白するこの場面において、はじめ座っていた典子は煮え切らない彼の態度に思わず立ちあがり向き合おうとするも、男はその視線を避け女の背後に回り込むようにして逃げ、ついには座り込み、位牌や写真に目をやり怯えうなだれてしまう。この一連の人物の動き、そしてその流れを丁寧に、古典的な、アクション繋ぎで見せていることが重要なのだ。
立ち上がる、振り向く、歩く、また座り、見る。繋ぎの効果によってこれらの動作には滑らかなリズムが生まれている。セリフはともかく、説明的な切り返しによる硬直した空間、あるいは惰性で流そうというのではなく、映画の画面にしようという意識が窺える。そうやってきちんと画面を作ろうとしているおかげで、この場面は日本語がわからなくても何の問題もなく理解できるものになっていると思う。
敷島が何度も典子に背を向けるのは、これまでの視線の在り方からも自然に思われる。彼の目が捉えるものといえば両親の位牌であり戦死した仲間の写真であり機雷であり果てはゴジラと戦争の面影ばかりであって、戦後に出会った、生きることを肯定する典子とはそう簡単に対面できるはずもない。典子たちとの暮らしにおいて家族を意識させられる瞬間に映るのも、団欒ではなく彼女の背中だ。
さてこの場面は典子が敷島の背中を覆う形で抱擁することにより終わる。抱擁といえばこの前にも一度突発的な暴力のような形で登場していたが、その時と比べると典子は敷島の恐怖と向き合う気持ちが芽生えていることがわかる一方で、敷島は依然として現在と向き合えていない姿勢を保つ。そんな姿勢について、思い返せば大戸島の場面から敷島はよく座っており、立ち姿の人物から話しかけられる画面が続いていた。そんな彼が立ち上がる時はだいたいが何かに背を向けるためで(例えば逃げること、ゴジラ殲滅作戦に反抗すること)、ついには地面を這うところまで落ちるが、最後には戦闘機の座席から落下傘で飛び出すという、座る→立つの変奏に他ならない身振りをもって、背を向けるためではない直立の姿勢をとる。それが三度目の抱擁へと結実するのだから、人物の姿勢に関しては一貫した振付がなされていたように思う。
不満というほどではないが、少し気になるのは照明だろうか。先に上げた室内シーンもカメラの位置が下がると黒というほどではない薄暗さが顔にかかる。確かに床に照明などあるわけないからその方が自然だし、翌朝台所にて娘と戯れる場面にクローズアップがあるからそれでよいということかもしれないが、浜辺美波に関しては少し勿体ないように思えた。なお彼女の顔に当たる光で最もよいのは、はじめてゴジラを目撃するため振り返った瞬間だろう。一方神木隆之介は「震電」についての説明を受ける場面の光が最も良い。ここの切り返しはやや誇張された陰影がかかるようセットアップされていて、その光には贅沢を感じた。
ここまで書いてきたこと、繋ぎや照明を丁寧にやるなどということは本来は当たり前で、そのうえでここぞという場面を作り上げるものだとは思う。しかし莫大な予算をかけた大作映画、例えば最近のマーベル・シネマティック・ユニバースなど見ているとあまりの画面への興味のなさに頭を抱えることもしばしばで、その中にあって『ゴジラ-1.0』は貴重かもしれないと錯覚するほどなのだ。称賛できるような作品ではないとは冒頭にも書いたけれど、しかし映像に対する丁寧さがないわけではなく、割と楽しく見られましたよという話。
最近見た旧作の感想その52~2023上半期旧作ベスト~
上半期どころかもう下半期も終わろうとしているのに、いまさら上半期旧作ベストです。いやぁしかし今年はもう暑くて暑くて憔悴していたわけですが気づいたらもう雪が降るほど寒いってんだから時の流れは速いもんで、而立から不惑までもきっとあっという間なんでしょうなぁ。と、余談はさておき本題。今年の1月から6月の間に見た作品の中からとくに面白かったものについて、簡単に書いていきます。順位はありません。
『喜劇"夫"売ります』(1968)
こちら→https://hige33.hatenablog.com/entry/2023/06/30/230948に個別で記事を書きましたが、これは言葉も大変面白く、役者の表情や動きも楽しめる素晴らしい喜劇で、喜劇・コメディに対する苦手意識がこれで少しは薄くなったような気がする。瀬川昌治監督の作品は今まで見たことがなかったけれど配信サイトにもそこそこ作品があるようですから今後見ていきたいところ。ちなみに安藤昇主演の犯罪映画『密告』(1968)もとても面白い作品でした。喜劇だけじゃないのか。
『怪猫お玉が池』(1960)
石川義寛監督による怪猫もの。どぎつい色と残酷さによる見事おどろおどろしさ。冒頭、森を彷徨う男女が堂々巡りの果て度々たどりつく、おおよそまともな色彩をしているとは言えない奇怪な池のほとりで彼らは猫に導かれて廃墟の門を開くわけですが、この堂々たる怪奇のハッタリを楽しませてくれる冒頭部分からすでに素晴らしく、もはや嬉しくなってしまう。続く屋敷の中では北沢典子が化け猫の手招きにあわせてふらふらと体が引き寄せられるのだけれど、その動きは本作においても一番目を引くシーンだろう。似ているわけではないが『回路』のアレのよう。そう考えると黒沢清、特に『回路』はシミとかも怪談的風味ではありますね。また屋敷での斬りを筆頭に室内カメラワークも見事で、こういった諸々の動きが心地よい箇所も多い。もちろん、簪から流れる血であるとか狂気に囚われて真っ赤な池に沈んでゆく悪役など怪奇の欲望も存分に満たしてくれるし、水の撮り方扱い方も素晴らしいと思います。とても面白かった。
『香も高きケンタッキー』(1925)
母娘の二代にわたる馬が主役になる視線のメロドラマ。雨上がり、都会の交差点で元主人と運命的な再会を果たすも視線が合わずにすれ違ってしまうシーンはあまりにも美しく、この場面を筆頭に全編馬という生物の崇高な美しさが画面に満ちている。森に佇み木漏れ日を浴びる悠然たる姿や光を受けて輝く毛並みには感嘆の声が漏れるでしょう。さらに、殺処分されそうになる場面での調教師との切り返しではまるで馬に表情があるかのように見える。ちなみに殺処分のため銃に弾を詰める手元のアップとか馬以外の描写も当然優れていて、かつての愛馬を連れ戻すシーンでは二人の男がボロ小屋の扉越し、画面上隠れている場所で拳闘を始めるのだけれど、その結果がわかるほんの1秒前に、まず窓ガラスが割れる。このわずかなズレを生むアクションがやはりうまい。ちなみに余談として、頭を擦りつけあい戯れる馬たちを見ていて連想したのは『ジュラシック・パーク』のヴェロキラプトル、特に調理室へ侵入する場面ですね。あれは蹄の代わりに鉤爪で暴力を際立たせているけれども、頭の動きなど実は馬が参照されているのではないかと、ふと思ったのです。
『湖の見知らぬ男』(2013)
よくタイトルは聞くけれど日本で見られる機会がほとんどないという、よくあるやつ。視界のひらけた広い場所から、あるいは茂みにさえぎられながら「見る」ということ。ミニマムな世界の中で行き交い、見て見ぬふりをすることがサスペンスや妙な間の抜け方を醸し出していて不思議だし、家も道もなく、あくまで湖という世界だけで宙づりのまま終わってしまうのも好き。また「スープのよう」な湖のゆったりとした官能。ぬめりがあってまとわりつきそうに見える湖面はとても素晴らしいと思うし、また木々をざわめかせる風をはじめ、音も印象に残る。とはいえ、何よりインパクトが強いのは正面から堂々と映し出され続ける男性器なのです。
『溶解人間』(1977)
これは詩がありますね。溶けゆく孤独な人間の放つ詩が。とある宇宙飛行士がなんの因果か地球へ帰還すると体が溶け始め、わけもわからぬまま暴れ脱走し、夕陽を背にあてもなくふらふら彷徨い、最後には完全にドロドロになって汚物として場末のゴミ箱に捨てられるだなんてあまりに物悲しい。しかもラジオからは新しい宇宙への挑戦が流れており、なんだか泣けてしまいますね。もちろんそんな感情もリック・ベイカーによる素晴らしい特殊メイクの力あってこそで、「ああっ、人が溶けてる」に素直に驚かされるからこそ無常感も際立つ。ほかにも、起き上がった溶解人間をみて驚いた看護士がガラスを突き破って走り去るその勢いとか、あるいはどんぶらこと川を流れる生首とか、電流黒焦げ落下死体とか、要所要所でインパクトの強い映画でしたね。
『こどもの世界(トワイライトゾーン/超次元の体験)』(1983)
何もかも思い通りにできる超能力少年が現実とカートゥーンの境目のない家で疑似家族を形成しようとする、コミカルだけどぎょっとする凶悪さも備えたジョー・ダンテの傑作。特に好きなのは「口を無くした」本当の姉が軟禁されている部屋へ続く廊下ですね。光源のわからない謎の影が四方の壁で交錯しているこの表現主義的空間は、一度見たら忘れられないインパクトがある。これは何故か廊下に置かれているテレビで流れているフライシャー兄弟のアニメ『Bimbo's Initiation』(1931)のオマージュでしょう。というか『こどもの世界』という作品全体がこの悪夢的傑作アニメのオマージュといっていいかもしれない。さて一方少年が暴走し始めると今度は毒々しい色彩が室内を支配し、テレビ=カートゥーンの世界に閉じ込められたり、あるいはテレビからはヘンテコモンスターが飛び出てくる始末。その造形というか変形はあまりにも悪趣味だけれど自分が小学生のころに見た『マスク』(こっちはテックス・アヴェリーでしょうが)とか『学校の怪談』のテケテケやシャカシャカを思い出し懐かしくもある。現実もカートゥーンもモノクロもカラーもキュートもグロテスクもごちゃまぜになった、とても力強い一作。
『秋立ちぬ』(1960)
白状しますと成瀬巳喜男監督はどうもわからない。好きな作品もあるしどれを見ても面白いなとは思うけれども、しかしよくわからないという印象でそれがなんだか恥ずかしくもあるわけですが、何はともあれこれはとても好き。少年の前からどんどん人が消えてゆく大変厳しい物語。父親は結核で亡くなり、母親は駆け落ちし、友情をはぐくんだ少女も最後どこかへ引っ越してしまう。ガランとした空き家の風景からデパートの屋上へ至る流れなどあまりの寂寥感に胸が締め付けられる。大人たちの現実に振り回される少年は口数こそ少ないものの僅かな表情や動作によって十分に感情が表現されており、まさに演出の賜物といえるでしょう。また辛いばかりではなく美しさやアクションもふんだんで、例えば親戚の兄に連れられバイクで夜の道路を走るシーンは美しい光に満ちているし、少女と二人、海岸まで小さな家出を試みる場面などはただひたすら歩くことによって魅力的な風景の連鎖=映画を作り出している。喧嘩の最中に突き飛ばされた衝撃で紙袋から飛び出るトマトの転がり具合まで絶妙。
『午後の網目』(1943)
マヤ・デレンとアレクサンダー・ハミット監督によるアヴァンギャルド短編。物語らしい流れも一応あるけれど、その考察がどうとかよりもまずイメージそのものが魅力的であって、例えば手のひらや首筋といった肉体の細部は光の扱いもあって際立っているし、マヤ・デレンが舞踏家でもあるためか全身の動きによる表現も見どころ。また鍵をカバンから取り出すショットがどこかサイレント映画を感じさせる手つきであったり、黒いレースのカーテンや髪の毛を揺らす風の雰囲気も美しい。あとは黒装束で顔に鏡をはめ込んだような謎造形マンは割とストレートに悪夢っぽいキャラクターで好きですね。
さて以上が上半期に見た中で特に好きだった作品です。他には、色々と誘い水が多く洒落臭いけれどもしかし血の雨とかバカバカしい絵面もきちんと撮っているところに好感が持てた『NOPE』(2022)、「泊ってしまった」芦川いづみと沢村貞子の視線がズレていくあたりの緊張感をはじめどんどんホラーへ転嫁していくのが面白い『結婚相談』(1965)、三隅研次とは一味違い編集の畳みかけやあるいは役者の重たさが魅力の岡本喜八監督版『大菩薩峠』(1966)、パリの街並みとか風に雪とそれにリリアン・ギッシュの美しい横顔が記憶に残る『嵐の孤児』(1921)も面白かったですね。
さて、冒頭にも書いた通りもい下半期も終わりに近づいているわけですが、年末ベスト前に一回くらいは新作・旧作どちらもいいので更新したいところです。なんとかなればいいな。というわけでまたお会いしましょう。