リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その49〜2022年上半期旧作ベスト

もう一年の、4分の3が終わろうというのにいまさら上半期ベストですよ。

というのも、とにかく気力の湧かない日々が続いておりました。やりたいことはあるのにはじめの一歩が踏み出せない。せっかくの休みも気づけば深夜になって、なにもしていないことに焦り外出してみるも、やれることといえばドライブしかないのが田舎。片道1時間ほどかけて到着した牛丼屋では、人手が足りていないのだろう、テーブルのあちこちに食器が放置されたままで、客はほとんどいないというのに、なんだか陰気でごみごみとしていて圧迫感があった。ようやく見つけた空席には、牛肉の切れ端が落ちていた。そんなこんなで、毎日「失敗したな」と落ち込む日が続いていたのです。

そんな私とは当然無関係に映画は存在している。そしてそれが嬉しくもある。というわけで本題。上記のような状況ゆえ見る本数は減ってしまったうえにもう9月にもなってしまったけれど、とりあえず上半期に見た旧作で面白かったものを感想とともに列挙します。

 

 

ファントマ対ジューヴ警部』(1913)

まだまだカメラ位置が限定されているとはいえ、1作目に比べ活劇性がかなり増しており楽しい。街並みの風景から列車アクションへ至る流れ、あるいは酒樽に隠れての銃撃戦の画面力など素晴らしいし、荒唐無稽というほかない貯水槽のかくれんぼなど、ただただ楽しい。そしてなにより「さらばだ!法の番人の諸君」というセリフとともにポーズを決めて劇を閉めるファントマの、超悪な感じに爆アガり。

 

 

 

『ある機関助士』(1963)

ごうごうと煙を上げ走る蒸気機関の迫力。あるいは機関士たちの日常的な風景の、不思議と強力なショットに驚く。例えば、音声としては線路への飛び込み自殺について語られるシーンでもカメラに映るのは昼寝する男の腹や、髪をゆっくりとかきあげる動作なのだ。これがなぜだか魅力的。さらに後半は定時からの3分遅れを取り返すタイムリミットサスペンスへと変貌。機関士たちがほぼ手の動作によって現在の遅延状況について会話する切り返しが最高すぎる。途中挿入される踏切のショットも、黒くでかい塊が目の前を猛スピードで走り抜けることの迫力に満ちていて驚かされる。スピルバーグの『宇宙戦争』を思い出しもしこの人が怪獣映画を撮ったならどうなったかと、ふと妄想してしまうほどだ。

 

 

『殺人捜査線』(1958)

ドン・シーゲルの中でも傑作じゃないか。ジャガイモ顔の狂暴なイーライ・ウォラックと、死に際の言葉をコレクションするロバート・キースの殺し屋コンビは『殺人者たち』の二人よりも魅力的。また長い沈黙の果てにポツリ「…お前は死ぬ」と発する車椅子の男も忘れ難い。この男とイーライ・ウォラックの対照的な動と静、または顔つき・目つきの切り返しが白眉。この時、二人の背後にはスケートに興じる若者たちの姿が見える。この背景によって、不気味な男のまるで堰のような存在感と、自動的に「滑り落ちる」アクションが際立つ。ちなみに本作と『殺し屋ネルソン』には、ともに動く車へと発砲し窓ガラスが割れるという描写があって、この弾痕がまたかっこいい。

 

 

『風』(1928)

「映画千夜一夜」の表紙でもおなじみのヴィクトル・シェストレム監督による伝説的作品。なかなか見る機会を得られなかったけれどまさかのDVD発売。コスミック出版さまさま。冒頭から想像を超えるすごい風、風、風の災害ホラーで、ボロ小屋の夜などは、牛があばれ、戸板は外れるわ窓は割れるわ、火事になりかけるわランプの揺れが錯乱を誘うわの大惨事。リリアン・ギッシュの簡単に吹き飛ばされそうな身体と動き、そして表情が見事で、「ポーズの天才」と評した淀川長治の言葉にもなるほどと納得させられる。さて最も感動したのは砂に埋めた男の死体が暴風によって徐々に地表に曝されるシーン。この恐ろしい事態を窓越しに眺め、恐怖に慄くリリアン・ギッシュの大きく見開いた目、あるいは手の動きはやはり素晴らしいけれども、ここでは彼女の口が窓枠によって隠されていることが非常に印象的で、サイレントであるということを超えて、声にならない恐怖がまさしく画面として示されているようだった。

 

 

『妖女ゴーゴン』(1964)

画家のアトリエから古城へと続く道には、階段をはじめいくつもの、あまり高低差のない段差が登場し、くだり、のぼりを繰り返してあの素晴らしい、ゴーゴンが待つ荒れ果てた広間、これも決して高すぎない、『吸血鬼ドラキュラ』と比較してもさらに低い階段のある広間へとたどり着く。あまり大きいとはいえないセットにあって、この微妙な高低差が画面に動きをもたらし、それは怪物の首が落ちるまで利用される。さてその怪物ははじめ暗い柱の背後にほとんど影のようにただ居るだけで、姿を一目見せた後も獲物を深追いせず消えてゆく。この点については黒沢清が「一番怖いものはほとんど動かない。人間のほうが動いて、つい、それに鉢合わせてしまう」と「黒沢清の恐怖の映画史」の中で述べ、それに応えて篠崎誠は『花子さん』を連想しているが、今となると微妙な段差が『クリーピー 偽りの隣人』も想起させる。近すぎも遠すぎもしない、微妙な距離がいいのだ。

 

 

バタアシ金魚(1990)

豊かな夏の風と夜の光が心地よい優れた風景の映画。登場人物の背後を横切るモノレールであるとか、あるいは自転車に乗った高岡早紀大寶智子の髪を不意に揺らす風、またはそういった緩やかな動きをもつ道が気持ちいい。歩く姿がそれだけで見ごたえのある画面になっている。加えて、筒井道隆高岡早紀の顔が魅力的な映画でもある。特に筒井道隆はエキセントリックさを表情で伝えられており、なるほど高岡早紀が彼とぶつかり合うとしたら私服や制服でプールに飛び込むしかない。「いかれてる」「愛してるぜ」という爽やかな幕切れも素晴らしい。さて彼らの表情と視線のやり取りは、編集と人物配置もまた見事なレストランのシーンで最高潮に達する。道と視線。なるほど次作『きらきらひかる』に通じる要素じゃあないか。ちなみに松岡錠司監督は『トイレの花子さん』も鑑賞。トレイで襲われるシーンのアクション/カットが最高な佳作であった。

 

 

このほかには、水面の揺れるタイミングまで恐ろしい、異常な緊張感に満ちた視線劇ゲアトルーズが戦慄の傑作で忘れ難く、最後、ドアの向こうには誰もいないような気すらした。ドライヤーの中でもかなり好き。川崎競輪の死と金の話をしては散り散り帰るおじさんたちが、いつのまにか顔見知りに思えるような感覚も楽しかった。前田満州夫監督『落葉の炎』『殺人者を追え』はどちらも撮影が素晴らしく、壁を這う手やズボンの裾にはねた泥など細部が光っているが、どちらもミソジニーの感覚が強いのは不思議ではあった。高橋洋監督『彼方より』にはこんなやり方があるのかと驚かされたし、ちゃんと怖くて最高。新作『ザ・ミソジニー』も楽しみにしているが、そもそも公開されるのだろうか。

フォードは勿論、せっかく地方でも公開されたアケルマンでさえ見られず、さらにまた、ありきたりな作品ばかり並んであまり数も多く見られていないことがよくわかる更新となってしまいましたね。未だ状況は改善されていないけれど、少しは楽しく生きたいもんです。というわけで次回更新時にまたお会いしましょう。

 

『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を見た。

黄色いレンガの道をたどって

ウェス・アンダーソン監督最新作。ビル・マーレイオーウェン・ウィルソンティルダ・スウィントンフランシス・マクドーマンドジェフリー・ライトらが出演。

 

アメリカの新聞カンザス・イヴニング・サンの別冊でフランスにオフィスを構え、オリジナリティあふれる記事を届けるフレンチ・ディスパッチ誌。その編集長であるアーサー・ハウイッツァー・Jr(ビル・マーレイ)が亡くなった。彼の遺言により雑誌は廃刊。当代随一のジャーナリストたちによる最終号には毛色の異なる4つの記事が掲載された。

 

 

レア・セドゥ演じる看守シモーヌが、自らをモデルとしたフレスコ画の前を闊歩するシーンの、あまりにも不意な美しさに涙を流してしまった。理解というよりはほとんど反射的で、自分でもそのとき一体何に心を動かされているのかわからないまま、ただただ、目を奪われてしまったのである。

 

ここでの唐突なカラー、そして音楽とスローモーションは本作の構成、つまり各話が雑誌「ザ・フレンチ・ディスパッチ誌」の一記事という体に沿うならば、見開きのカラーページにあたるだろう。ではモノクロとはおおむねが文章に相当するはずで、その紹介を読み終え紙面をめくった瞬間の、美しさにはっと息をのむ感覚がこのショットには宿っているとひとまずは言える。だがまるで雑誌を読んでいるかのような感覚が映像によって再現されているから感動的なのではない。それはそれで仕掛けとして面白いが、ここではむしろ雑誌であることから離れて優雅に、映画が動き出しているからこそ感動的なのだと思う。

このフレスコ画について、作者であるモーゼスは「全部シモーヌだ」とつぶやく。なるほど、ならばこのショットは絵を通してではなく目の前にいる生身の存在としてシモーヌを見る彼の主観であるに違いない。そしてその彼女が不意に闊歩しだすアクションとは、「確固たる名作」を巡る物語を超えた、モーゼスの瞳だけが捉えた瞬間のはずである。しかもそれは、特異な状況で親密になった男女の、ある決定的な瞬間についてのショットだ。実際、奇妙に繋がりあう彼らの関係はここが頂点で終着点であるということは、のち添えられる言葉を待たずともほとんど理解できるだろう。ただ一度きりの、誰に語られることもない小さな、しかし決定的な瞬間が物語を超えて突然浮上する驚き。これが映画の美しさではないか。少なくとも僕はいたく感動した。フレーム外からの唐突な侵入や逃亡ももちろん見ていて楽しいけれど、これほど美しいアクションを内側から立ち上げるとは。これだけでもう、すっかり心を奪われてしまった。

ところで、これだけ親密に思える瞬間であってもシモーヌの厳格なる看守服がこのショットに過度な解放感を与えていないことは重要だと思う。ウェス・アンダーソンの作品においては、解放しきらないこと、その足掻きがまた何かと魅力的な気もする。ここではモーゼスも自傷により車いすを余儀なくされている。

 

さて「確固たる名作」はカンザスの大平原に、その顛末は「カンザス・イブニング・サン」の別冊である「フレンチ・ディスパッチ」に残された。ところでアンニュイ=シュール=ブラゼなる架空の街を作り出してフランスへのあこがれを表明しつつも、一方でなぜ本社はカンザスなのだろう。どうせカンザスといってもほとんどどこかわからないような場所しか映らないのであればそれもまた適当な地名でもよさそうなものではないか。

そう考えたとき浮かんだのがやはり『オズの魔法使』だった。望むものは既に持ち合わせていた仲間たちと別れ、「お家が一番」というかの有名なセリフによって故郷のカンザスに帰るドロシーの姿とこの作品が重なったのはカンザスという特別な地名に加え、終盤、ポリス料理の名人ネスカフィエ警部とローバック・ライト記者による「私たちは探している 置き去りにした何かを」「運が良ければ見つかるさ 私たちが故郷と呼んだ場所で」というセリフによってである。異国への憧れと同時に故郷の喪失が描かれ、それでもかつてもっていた理想へたどり着こうとあがくウェス・アンダーソン作品は虹の向こうとエメラルドシティを目指す話ばかりだ、というとちょっと極端な考えかもしれないけれど、しかしここでカンザスという地名が編集長の故郷として登場したという事実はなんとなく書き記しておきたいと思った。

 

ちなみに、ウェス・アンダーソンの作品はなぜ雷に打たれたり電流が体を走ったりするシチェーションが多いのだろう。謎だ。

『ウエスト・サイド・ストーリー』を見た。

香りまでは変わらないわ

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1957年に上演された『ウエスト・サイド物語』2度目の映画化。監督はスティーブン・スピルバーグ。アンセル・エルゴード、レイチェル・ゼグラー、アリアナ・デボーズ、マイク・フェイスト、デヴィッド・アルヴァレスらに加え、ロバート・ワイズが監督した61年版でアカデミー賞を受賞したリタ・モレノも出演。

 

 

1950年代、ニューヨークマンハッタンのウエストサイドでは、互いに若い移民によって構成されるジェット団とシャーク団が激しく対立していた。ある日、ジェット団の元リーダーであるトニー(アンセル・エルゴード)は偶然訪れたダンス会場で美しい少女と出会い恋に落ちる。マリア(レイチェル・ゼグラー)という名の彼女はしかし、シャーク団リーダーの妹で・・・

 

 

70歳を超えたスピルバーグの新作が『ウエスト・サイド物語』の再映画化だと聞いて、なんて面白みのない企画だろうと落胆した。出来を不安に思ったわけではない。『宇宙戦争』を近代史の作家にふさわしい方法で驚くべき傑作として甦らせているのだから、おそらく面白い作品にはなるであろうとの予想はできるしもちろん期待もする。しかし、それにしたってほかにやるべきことがあるはずだと思わずにはいられなかった。そんな相反する感情を抱えたまま鑑賞したわけだけれども、いやはやなんと、想像を超えてすごい作品ではないか。

 

 

都市開発のため解体されるスラム街の残骸が映し出される冒頭。埃が舞い裏道はゴミだらけのこの街では、ヨーロッパ移民とアメリ自治プエルトリコ移民の若者が争っているが双方とも貧しく、しかも都市開発に伴いいずれ退去を命じられる運命にある。都市開発の余波は61年ロバート・ワイズ版にもある要素だ。がれきの山や薄汚れた路地裏はもちろんのこと、リーダー同士の決闘が行われるのは都市開発と同様に整備がすすめられた州間高速道路の下で、これは交通網の整備により、車を持たない彼らの、歩道文化が破壊されつつあることを意識したのだと思われる(こういった都市の変革については大久保清朗さんが紹介していたマット・ティルナー監督『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』に詳しい)。スピルバーグはこの部分をより前景化した。そこかしこで建物が破壊されその残骸を晒す風景は『プライベート・ライアン』さながらで、今まさに居住区を破壊されている彼らはいわば、難民化しつつあるといえる。今回初めて挿入されたプエルトリコ国家「La Borinqueña」が、まるで戦争映画かの如く響く。 

また子供が歩道に書いた落書き、61年版では避けるように歩いていた落書きを、今回ジェット団は全く気にかけずに駆け抜けかき消してしまう。これは些細な違いではない。というのも『ウエスト・サイド物語』では壁の隅々に誰が書いたか大小さまざまな落書きがされており、一方ではAL WOODなる人物(名前はアレン・K・ウッドからの拝借だろう)への投票を呼び掛ける、おそらく皮肉なのではないかと思われるポスターが、ところせましと貼られていた。だが落書きを書いたりポスターを張るような壁は破壊され存在感はかなり後退し、一部プラカードなど人的なものに変化するなどすっかり追いやられてしまっている。2つの作品の比較したとき、公共の空間から後退した場所での会話が増えているのも関係しているかもしれない。

スラムは徐々に解体され、残る人々もいずれは消えていく運命だ。ジェット団のリーダー・リフ(マイク・ファイスト)は「自分たちのことなど誰も気にしない」と、ビルの破壊により埃まみれになった倉庫でつぶやく。さてこの埃は変奏されながら何度も画面に登場する。地面に書かれた落書きもその一つであろうけど、例えば「cool」でリフとトニーは、川にせり出す、穴の開いた廃屋にて砂埃を巻き上げながら拳銃を奪い合う。ジェット団とシャーク団の決闘が行われるのは、市の衛生局によって管理されている融雪のための塩の倉庫だ。新しい生活を夢見て「I Feel Pretty」を歌うマリアは、自分では買えない洋服を売るデパートで清掃員として働いている。ここでは自らの置かれた環境からの脱却が語られるけれど、実際にできるのは小さな集団の中で身の回りの塵埃を蹴散らす程度のことだから彼ら育てた大きな環境から逃れることはできず、結果ピカピカに磨かれた床をおぞましい行為で汚すまでに堕ちてしまう。スピルバーグが強調したのは、都市開発によって蹂躙され負の連鎖に陥る移民の近代史である。

 

 

ミュージカルシーンも大きく異なり、61年版ではまだ保たれていた、本当らしくなさによって生み出される優雅さは影を潜めほとんどアクションシーンへと変貌し、新鮮に感じる部分もあるが同時に、ヤヌス・カミンスキーの光と複雑な動線の中で引いたり寄ったりよく動くカメラ、その動きや視線を誘導するマイケル・カーンと、『タンタンの冒険』から編集補佐として活躍してきたサラ・ブロッシャーによる編集のスタイルに大きな変わりはなく、画面はスピルバーグ「らしい」。だから本格的なミュージカルは初めてでも全くの新機軸という感じはせず、例えば「mambo」、一つのカットの途中から画面両端に入り込んでくる横顔であるとか、さらに加えて真ん中にも人物を配することで生まれる三角形の構図などは『シンドラーのリスト』『ロスト・ワールド』『ペンタゴン・ペーパーズ』等見慣れた画面で、そこかしこに過去作の記憶が宿っている。

それが悪いという話ではない。「らしい」といっても『インディ・ジョーンズ4』のような遠慮がないカミンスキーのミュージカルはやはり新鮮ではあって、ほとんどの場面が前作より好きなくらいだ。特に「cool」のどこかエロティックでもあるアクションダンスは上に突き上げられた拳銃から『宇宙戦争』を想起させもする大変すばらしい改変だと思う。

 

 

けれども一方でやはり、わざわざこの再映画化に時間を使わなくてもという思いを完全には捨てきれなかった。その理由はミュージカル以外のシーンで「らしさ」を感じる部分、特に銃をめぐる二つのシーンにある。

一つめはリフが銃を買うために訪れる、黒い黒い陰にたばこの煙が映える酒場の場面。銃の重たい音が響くこの不精な大人の空間にはそれまでと質の違う暴力が垣間見え、また若く線も細いリフの危うさがその顔つき、殊に目に表出するとてもいいシーンだが、しかし同時に、急に違う映画が始まったのかと思うような異質な感じもする。そしてこの異質さこそ最も見たい内容、ノワールに接近している。他にも、トニーとリフが倉庫で会話する場面での目を強調する照明や、『プライベート・ライアン』や『リンカーン』同様、正体や境界を曖昧にするカーテン=国旗も、ややパラノイアックな画面といえるだろう。

もうひとつはエニバディス(アイリス・メナス)がシャーク団のたむろするボクシングジムへ忍び込み、逆上するチノ(ジョシュ・アンドレス)を目撃するシーンである。ここもやはり非常に暗い画面で、さらにいかにもスピルバーグらしい「かくれんぼ」のサスペンスが行われている。隠れ、目撃することはわざわざ個別の例を挙げる必要もないと思われるほどよく出てくる行動であって、またエニバディスがそのことをジェット団に伝えなければと振り向く瞬間の顔。これが実にスピルバーグらしい表情をしていて画面への収まりもいい。これらのシーンを見ると、やはり誰もが知るミュージカルの再映画化より、もっと刺激的な作品に手を出してほしかったと思わざるを得ない。

 

 

スピルバーグの次回作は自身の少年期から青年期を着想とする半自伝的な映画だという。それ見たいか?フェリーニかよ。まぁ、そう言いつつも公開されればまたよだれを垂らして喜び映画館へ駆けつけ、なんだかんだと楽しむのだろうとは思う。後進的なファン感情なのかもしれないが、そういうもんだ。

 

最近見た旧作の感想その48~2021年下半期旧作ベスト~

あけましておめでとうございます。と、1月に更新する予定がすっかり2月になってしまい、遅すぎるご挨拶になってしまいましたが、とりあえず今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、昨年末の新作ベストテン記事にて予告したように2021年下半期旧作ベストです。7月から12月に見たもので、特別面白いと思えた作品について一言程度コメントを添えつつ紹介したいと思います。なお、上半期ベストについてはこちら→https://hige33.hatenablog.com/entry/2021/08/01/185458

 

 

雷電/続 雷電(1959)

江戸時代の伝説的な力士・雷電爲右エ門をデビュー間もない宇津井健が演じたメロドラマの傑作。とにかく美術・照明・撮影がすごい。まずはじめ、浅間山の噴火に見舞われた太郎吉(宇津井健)が家へと帰るシーン。ぼろぼろになった家を俯瞰で捉えていたカメラがやおら茅葺屋根へと近づき、そのまま屋根に開いた穴を通って室内へと降りていく。この撮影にまず驚いた。さて画面は常に奥行きが意識されており、室内であれば障子や襖、柱などを使って、風呂場のようながらんとした空間は陰影を濃くし、フラットな画面を避けている。また中盤、一揆をおこした軍勢が川向いに大きく広がり煙を上げ集まるという、ダイナミックな画面もとてもいい。そして水が美しい作品であるということも忘れてはいけない。特に強く感じるのは、ヒロインであるおきん(北沢典子)と手水舎で再開する2つのシーンにおいてである。特に2度目は、画面の構成や北沢典子の顔に当たる照明、人物の動線も相まって、メロドラマのピークとしてとても素晴らしい場面となっている。この作品が中川信夫の最高傑作ではないか。AmazonPrime、U-NEXTにて配信中。

 

 

『散歩する霊柩車』(1964)

世の中にはタイトルだけで面白いことを確信できる作品があって、例えばこの、佐藤肇監督による、狂言自殺で金銭をだまし取ろうとする夫婦を題材にしたスリラー/コメディ映画がそうだ。非常にテンポがよく、夏の話にもかかわらずどこか涼しい空気が漂うクールさもある。役者では、卑怯でせこく弱いうえに情けなく、しかし不気味にも振れられる西村晃が一番魅力的だけど、金子信夫や渥美清といったアクの強い人たちが揃ってセコい小悪党を演じているのも楽しい。最後はバカバカしく派手で、しっかり札束まで舞うので大満足。U-NEXTにて配信中。

 

 

『ウェンディ&ルーシー』(2008)

昨年、全国の恵まれた地域では初期作品の特集上映が開催されたケリー・ライカート監督作品。残念ながら恵まれていなかった地域に住む私は、その中で唯一普通にレンタルできる本作を鑑賞。どのショットもこうであるべきという場所にカメラが置かれ、そうであろうという速度で人や物は移動する。だがそれは心地よさを生み出さない。カメラがとらえるのは田舎町の孤独であり、閉塞感だ。それはもはや、晴れているというとさえ意外に感じられるほどの息苦しさである。そしてミシェル・ウィリアムズ演じるウェンディは過酷な状況、ここでは特に、去ることが強いられる。彼女が歩き続けなければならないのはどこにも滞在できないからだ。それは個室の喪失、つまり車がまずそうだけれど、彼女はどこで着替えているのかという点からも想像できないだろうか。ミシェル・ウィリアムズはそんな孤立した女性の姿を、顔つきや寄る辺ない歩き方で体現している。ルーシーの視点から見る彼女の悲痛な背中や、貨物列車に乗り外を眺める目など忘れられない。2022年になり、初期作品はU-NEXTにて配信が開始されたけれどこれが一番好き。傑作。

 

 

 

『知りすぎた少女』(1963)

みんな大好きマリオ・バーヴァ。バーヴァの話をするときはいつも、あの屋敷がいい、この古城がいいという話ばかりになってしまうけれど、いいものはいいので仕方がない。本作では屋敷というほど広くはないけれど十分に豪華なアパートの一室がメインの舞台で、ここも細かく紹介したいところだけど、しかし怪奇として最も素晴らしい空間は中盤に登場する。レティシア・ロマン演じるヒロイン、ノーラが階段の多い夜のローマを駆け、仰々しい柱が目立つ建物の中へ入ると正面には籠と呼ぶにふさわしい古い鉄製のエレベーターが。それに乗り、さらに上へ上へと続く螺旋階段をのぼり遂に見えた扉の先には、真っ白でがらんとした、ノーラの黒いコートが強調される部屋が続く。天井から吊るされた裸電球は不規則に揺れている。どこからともなく聞こえてくる声に導かれながら奥へ進むと急に明かりが消え・・・。建物の構造に加え、黒と白、光と影のコントラストが強烈な印象をもたらすこの素晴らしいシークエンスだけでも十分の見る価値がある。ちょっと『怪人マブゼ博士』を思い出す感じ。ちなみに最後に背中を刺されるおっさんの飛び上がり具合も最高。『沖縄やくざ戦争』の千葉真一に迫る急な伸び姿勢でびっくり。AmazonPrime、U-NEXTにて配信中。

知りすぎた少女

知りすぎた少女

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『Le Village de Namo』(1900)

リュミエール兄弟が各地に派遣したカメラマンの一人、ガブエル・ヴェールによってインドシナで撮影された1分程度の作品。世界初のトラックバックといわれているらしいけれど、そんな歴史的な話は置いておいてとにかく単純に面白い。低い位置に置かれたカメラの後退と、それを追いかける子供たちの、服装も、動く方向も、見ている方角もばらばらでカメラなど構うことなくフレームイン・アウトしていく自由な動きには何か映像というものの魅力が、生々しい躍動の魅力が過不足なく詰め込まれているように思えてならない。たとえば急に画面を横切る鶏とそれに一瞬目をやる姿なぞ、やたら惹かれるものがある。偶然しか映り混んでいない(ように見えるだけかもしれないが)カメラの奇跡。

https://www.youtube.com/watch?v=K020eIIr_9c

 

 

以上が下半期の旧作ベスト。他には、光の表情が見事な、優れた処女作として記憶されるべき台北暮色』(2017-AmazonPrime)、前半は清水宏らしいトラックバックが、後半は佐野周二坪内美子の切り返しが美しい『花形選手』(1937)長回しから分節化されたアクションまで、経済性を無視した美学ごり押しの画面が楽しい『鵞鳥湖の夜』(2019-AmazonPrime,U-NEXT)、昨年新作一位にした『あのこは貴族』の岨手由紀子監督による短編『アンダーウェア・アフェア』(2010-Netflixなんかも良かった。

2022年に入っても依然としてコロナウイルスの猛威は収まらず、そのせいでイーストウッドウェス・アンダーソン、『彼女はひとり』などなど、期待していた映画を続々と見逃してしまった。なんといってもこれらを見るには東京~名古屋くらいの距離の移動が必要になるのでね。

そんなわけで年明け早々残念なことが続いたけれど、とりあえず明日は近所へ『ウエスト・サイド・ストーリー』を見に行く。楽しみ。ブログの更新頻度はなんとかしたいと思っています。それではまた。

今年の映画、今年のうちに。2021年新作映画ランキング

年の瀬でございます。というわけで今年もやります、2021年新作映画ベストです。新作の基準は今年はじめて公開となった作品でリバイバルは除外。Netflixオリジナルなど、配信作品についても今年初めて日本で見られるようになったもののみ入れることとします。尚、今年度もコロナや職場環境等諸々の理由によりあまり多く作品を見られなかったので、昨年同様ベストテンではなくベスト5+次点といたします。

 

 

次点 草の響き

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原作未読。しかしよくこんな、特になんてこともない話を映画にしたよなぁと思うと同時に、東出昌大に賭けたんだろうとも思う。そしてそれに勝った。表情・体格・佇まいの扱いづらさというのか、やはりとてもいい役者だと思う。病院、アップによる切り返しもとても良かった。スケボーやランニングが映画にリズムをもたらしつつも解放へと至らない堂々巡りであることを踏まえ、最後に飛び越えるアクションがあるのも良かった。次点としているのは、どうしてもキタキツネの映像に納得できなかったからである。

 

 

5位 樹海村

f:id:hige33:20211231214612p:plain『犬鳴村』がまるで面白くなかったので期待していなかったけど、序盤、トラックのシーンからまず人物の距離やカメラ、編集が良い。一つのショットの中で何か見せてやろうという気合いも感じる。勿論全てがうまくいってるわけじゃないけれど、例えばすりガラス越しの黒沢あすかなんて印象に残るし最高。そして何よりまさか、『ガーディアン/森は泣いている』オマージュがスクリーンで見られるなんてと感激。こういう場面があるだけでもう肯定。清水崇監督としては『輪廻』に近い感触なのも嬉しかった。

 

 

4位 ダークウォーターズ 巨大企業が恐れた男

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揺るぎないヒーローとしてではなく、常に抵抗や懐疑、報いを受けるそのトーンに合わせ画面も暗く曇っているものの、しかし粒子の荒い、フィルムのような質感は『キャロル』の充足感を思い出させ、その感触に身を任せているだけでも十分であった。C8についての講釈やデュポン社CEOとの会話に代表的な室内での黒、そこに加わる黄色や青。または車窓から眺める街並み、特に夜のそれはとても美しく、この恐ろしい作品には不釣り合いなぐらいではないかとさえ思う。資料室のクロスカッティングも大変面白く、「守られない側」の話という共通項もやはり好き。不満があるとしては冒頭の『JAWS』を模したシークエンスと、アン・ハサウェイが最後まで画面に収まりきっていなかったように見えたことか。

 

 

3位 愛のまなざしを

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一度見て、まだよくわかっていないので、とりあえずは編集が生み出すアクションにしてやられ、狂気の幽霊譚に飲み込まれた、としか言うしかない。特に編集は、滑らかとはまたちょっと違うけれどアクションが際立つような方法で、反心理的に映画を引っ張っているようだ。幽霊譚はおそらく空間と切り離せないもので、特に無機質でモダンなオフィスはほとんど「なんでも信じる」仲村トオルであり、またトンネルは抜け出せない狂気の空洞か。ま、とにかく理屈に先立ったアクションとリアクションを見せる人間たちばかりで楽しかった。

 

 

2位 マリグナント 狂暴な悪夢

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詳しくはこちら→ https://hige33.hatenablog.com/entry/2021/12/26/023009

近年、あの「落下」ほどの驚かされたシーンはない。後半の大活劇がやはり目玉なんだろうけれど、それに至る流れもあって個人的には前半のほうが好きだったりする。記事には書き忘れたけど『死霊館 エンフィールド事件』のおもちゃの車といい、小道具の使い方もいいね。今回は電話のおもちゃ。

 

1位 あのこは貴族

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詳しくはこちら→https://hige33.hatenablog.com/entry/2021/03/20/145355

東京に出たこともない、映画館に行くのも苦労するような田舎に住む男性が、それでもこの映画をベスト1に選ぶのは、背景にあるもの(例えば社会、と言い換えられるかもしれない)を浮かび上がらせるからだろう。それは形式や礼儀作法から、もしくはそれぞれの登場人物から見えてくるものだ。この作品は、それら古臭さの中に新しい希望をのぞかせる。記事に書いたように「華子の表情をめぐる冒険」によって。2021年のベスト1として、これ以上ふさわしいものはなかった。

 

 

以上が2021年ベスト5+次点です。そのほか、『ホイッスラーズ 誓いの口笛』『ジャスト6.5 闘いの証』『偶然と想像』『アメリカン・ユートピア』『モンタナの目撃者』『ボストン市庁舎』『レミニセンス』も良かったと思う。良かったと思うならなぜこれらを加えてベストテンにしないのか、ということについては、なんとなくベストとは思えなかったからとしか言えないかな。だから今回の5本は「今年はこれだな」というぼんやりした感覚によって選んだ。

さて冒頭に書いたように今年もたくさんの映画を見逃した。そこで試しに、見逃した映画ベストテンなんてものを選出してみようかと思う。当然見てないのでベストといっても作品の評価とは一つも関係ないから、テン・リストというべきか。とりあえず以下の通り。

・海辺の彼女たち

・うそつきジャンヌ・ダルク

・こどもが映画をつくるとき

・ミッドナイトファミリー

死霊館 悪魔のせいなら、無罪

・クーリエ 最高機密の運び屋

・最後の決闘裁判

・1秒先の彼女

・17歳の瞳に映る世界

・サイダーのように言葉が湧き上がる

リストの中には、これから見られるものもあるし、見られるかどうかよくわからないものもある。上映館数や回数で難しいものもあるけれど、来年はもっと多く見ていきたい。

最近ブログどころかツイッターに感想を書こうにも言葉が何も出てこなくて、映画を見る才能も、書く才能もないという事実が付きつけられるばかりだけれど、それでも見ることはやめないで生きていたいね。とりあえず年明けに下半期旧作ベストでお会いしましょう。それではよいお年を。

 

『マリグナント 狂暴な悪夢』を見た。

おれがあいつで

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『SAW』『インシディアス』『ワイルドスピード SKY MISSION』『アクアマン』などで知られるジェームズ・ワン監督最新作。アナベル・ウォーリス、マディー・ハッソン、ジョージ・ヤング、ミコレ・ブリアナ・ホワイトらが出演。

 

 
郊外の一軒家で暮らすマディソン(アナベル・ウォーリス)は、ある日何者かの襲撃により恋人と、さらにおなかの中にいる子供を失ってしまう。さらにその日を境に、殺人現場を目撃するという悪夢に苛まれはじめる。まるで実体験かのようにリアルなその夢は、しかし本当に現実でも起こってしまい・・・

 

 

英語に弱いので「malignat」という単語は初めて聞いたのだが、「きわめて有害な」「悪性の」「悪意のある」という意味があるらしい。どうやら医学の場面で使われることの多い言葉らしく、例えば「a malignant tumor」で「悪性腫瘍」となる。劇中では「cancer」を使っていたと記憶しているが、なるほど確かに、内容を踏まえると「malignant」のほうがタイトルにいはふさわしい。ところでこの言葉は「悪い、悪い、病気」などを意味するラテン語由来の「mal-」と「産む、生む」を意味するインド・ヨーロッパ祖語由来の「gene」からきている言葉であるようだ。ちなみに同じようなつくりを持つ言葉としては「pregnat」がある。

 

 

さて本題。絶壁にそびえたつ怪しげな病院、霧立ち込め周囲から隔離された家をみて、あ、これはクラシックか、はたまたマリオ・バーヴァの古城の雰囲気じゃないのかと無邪気に興奮した。まさかこれから異様な美術と照明に彩られた世界を見せてくれるのかなどと夢想したほどだが、実際のところ美しいアーチも大げさな階段もないし、迷路のような城下町も当然あるわけがない。怪奇はせいぜい地下への拘りくらいの、ほんの少しの雰囲気にとどまっている。

しかしだからといって普通の家かというとやはりそうではなく、極めて特異な、ジェームズ・ワンらしい場になっている。例えば風。古くから激しく怪しく、異界を誘って室内へと入り込んできた風に対し、ジェームズ・ワンはまるで『死霊館』に『アクアマン』を混ぜたかのようなアクティブな肉体とカメラの動きで対応しており、それによって空間を押し広げている。古城や屋敷のように一目見て広いだとか高いとはならない一軒家、すぐに風が循環しそうだからこそその流れを追うだけでは物足りなくなってしまうような部屋を、次々移動していくことでどんどんアクティブな場へと変貌させているのだ。

さてこういったカメラや人物の動きが激しい場面、最たる例として天井ぶち抜きの長回しがあるけれど、こういったギミックを成立させているのにはおそらく、編集カーク・モッリの力が大きい。実際ここでは始めと終わりが丁寧にアクションによって繋がれる、単に技術自慢やインパクトのみ突出したりせずきちんと流れに収まっている。ジェームズ・ワンとは『インシディアス』(2010)からのコンビで、撮影や美術あるいは脚本家が一貫していないことを踏まえても彼はジェームズ・ワン作品に欠かせない人物だと、ひとまず言えるのではないか。実際、白眉であり近年最高の驚きを提供してくれる"落下"も、そんな馬鹿なという出来事が、そうであろうと納得せざるを得ない繋ぎによって成立させられていた。

 

 

ところで、美術については怪奇じゃないなら面白みがないという話ではない。気になったのは図形の効果で、丸、三角、四角といった図形が繰り返し、意図的に利用されているように思えた。最も印象的なのは丸。例えば家の壁につけられた跡、バスルームの窓、大きな換気扇、あるいは洗濯機の蓋やバースデーケーキといったもので、これらはおおむね、マディソンとガブリエルの暴力的な繋がりを示すものといえる。あるいはこの二人の、電話や脳内での会話は四角、例えばトイレや尋問室に留置所など、非常に狭く四方を囲まれた場所が多く、それが囚われているような感覚を強くしている。

これら画面の一貫性はつまり、わかりやすさなのだ。奇妙奇天烈の大惨事でまったくおかしなことばかりが続くけれども、しかし画面上に一貫したモチーフ、というか一目見たときのわかりやすさがあって、そこに娯楽作品の気持ちよさというか、品格を感じた。それは規模こそ違えどいくつかのスピルバーグ作品にも通じる感覚で、切り貼りとはどこか違う蓄積の先、ジャーロだとか特定のジャンルの模倣を超えた、最良の娯楽に届いているとでもいえばいいか、とにかくそんな風に思えたのである。

 

 

しかしわかりやすさ故にか、少し物足りないという部分もある。色使いがそうだ。例えば赤なんかは非常事態のランプ、ネオンによって画面を染めるけれど、しかしそれは意味や理屈としてあまりにも当然すぎる。そうだろうね、という納得しか生まれない。これは『ラストナイト・イン・ソーホー』にも言えることだ。だから個人的にはそれよりも、催眠療法による回想シーンにおいて、ベッド脇に佇むマディソンの持つ包丁の影が壁にでかでかと映し出されているシーンに感動した。いったいどこに光源があってそんなことになるのかまったくわからないけれど、このハッタリこそ素晴らしいではないか。ちなみにハッタリというとジェームズ・ワンは『SAW』や『死霊館』の人形(『デッド・サイレンス』も含め『サスペリアPART2』なんだろうけど)、そして今回のガブリエルなど、アイコンとなるようなキャラクターを作るのがうまいのもいいところだと思う。

デッド・サイレンス (字幕版)

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『ドライブ・マイ・カー』を見た。

But you can do something in between

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『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』で知られる濱口竜介監督最新作。西島秀俊三浦透子岡田将生霧島れいかが出演。原作は村上春樹の同名小説。第74回カンヌ国際映画祭にて、日本映画としてはじめて脚本賞を受賞した。
 
 
舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)と平穏な日々を送っていた。ある日「帰ったら少し話せる?」と唐突に告げた音はしかしその夜急死してしまい、言葉を聞けぬまま死別する。そして2年後、『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼された家福は広島へと車を走らせる。そこでは家福の意に反し、演劇祭の規則で運転手を雇うことを義務付けられていた。紹介されたのは渡利(三浦透子)という若い女性。家福は訝しげに彼女を見つめていた。そうして舞台本番までの、長いドライブが始まるのだった・・・

 

 

『ドライブ・マイ・カー』を見て、気になったので『カメラの前で演じること』『ワーニャ伯父さん』『女のいない男たち』を読んだ。チェーホフ村上春樹もはじめてだ。村上春樹についてはなんとなくのイメージで避けていて、実際読むとそのイメージもあながち間違いではなかったのだけれど短編ということもあってかとにかく読みやすかった。特に『木野』が面白く、モダンな『耳なし芳一』というか、怪談といえるような雰囲気があると思う。だいたい『耳なし芳一』で怖いのは、うっかり怪奇の世界へ踏み込んだ盲目の芳一が、恐ろしい足音と声に怯えながら孤独に夜を過ごし、耳を引きちぎられても叫び声一つ上げず座っていたという寄る辺なさにあるのではないか。『木野』も終盤そのような展開を迎えるので、やや怪談めいているなどと考えたのである。

 

 

そんな話と関連して、いるかはわからないが、『ドライブ・マイ・カー』もどこか怪談めいた話だと思う。それはまず声、つまり家福の亡き妻である音の、肉体を欠いた声がテープを通じただ一人のためだけに語りかけてくること、その声に応答すること、つまり肉体を欠いた存在が指名してきていることに怪談の雰囲気が漂っている。その声は平坦で、機械的というかもはや車と一体化したような印象まであり、テープの回転がタイヤにオーバーラップされるとより一層そう感じさせ、目を引く真っ赤なサーブ900の内側は、耳で死者を捉える異様な空間となっている。家福自身も渡利に「気味が悪いか?」といった言葉をかけているのだから、声がただならぬものであることには自覚的だ。

もう一つ怪談的だと思わせる要素に照明がある。これは家福と高槻の会話において顕著で、例えば彼らが初めて二人で飲みに行き、音の思い出を語る場面ではバーカウンターの光が照り返し顔に青い光がかかっている。またかつて音が語った物語の続きを高槻が滔々と話し始めたとき、二人の顔には僅かに青か緑の光が重なっているではないか。

高槻はこの作品において唯一音の思い出を有している人物だが彼は家福との連携を示さずむしろ、特異に顔面を照らす照明の通り、最も忌まわしい他者として現れる。そのことは高槻が音の言葉を語るときに理解できるだろう。このときカメラは2者の間に入り込み、それまで周到に同じ絵を避けてきた画面からは意外に思われる切り返しで顔面を捉える。この切り返しは家福を、ほとんど音と同化した車の中にあってかつてないほど狭く追い込み、また区切られた画面は高槻との連携も示さない。そして語られる内容、家福に語っていた音の物語の続きを、なんてことない若者、ただの喪失感を埋めるためだけの性行為しかしていないはずの若者の口から聞くことで、亡き妻との間にあった特権的な関係も幻想であったと宣言される。怪奇はこのようにして家福を襲う。

 

 

家福は音の行動についてみて見ぬふりをし、その原理については自ら組み立てた物語の中に押し込むことで納得していた。それが高槻と、そして渡利によって否定されるけれども、相手が見えていないということは実は序盤から、緑内障よりいずれ視力を失うらしいという事実によって示されており、また画面として夫婦が対面しているとき、例えば性交に際しても、彼らは正面からきちんと見つめあっていないことからも理解できる。さてこの点について最も面白いのはウラジオストクのホテルにいると嘘をつきオンライン上で会話するシーンではないか。家福と音、パソコン越しに正面から見つめあう両者の目が鏡によって画面には収められているけれどその高さは勿論あっていない。このとても不思議な「見つめあう」シーンで、見て見ぬふりをして逃げ去った家福はいったい何を見ているのか。

 

 

男は耳から怪奇にさらされるよりもはるか以前より、すでに盲目であった。しかし、高槻をしっかりと見つめること、渡利との旅の果てに同一フレームでの抱擁に至ることで、耳と目は解放された。そして(濱口風に言うならば)自分自身の最も深い恥に出会う「はらわた」の場に導かれた家福はこのようにしてようやく、音が唯一残したテキストである『ワーニャ伯父さん』を演じ切ることができるはずだ。
長い旅を経て、家福は完成させた。それはいくつかの着替えと楽屋の場面からも理解できるように思う。例えば家福が高槻と出会ったのは『ゴドーを待ちながら』終演後の楽屋で、ここで家福はメイクを落とし衣装を放り投げている(このカットも素晴らしい)けれど、このように疲弊した顔で素に戻るシーンをあえて入れたのは役者としての姿と普段の姿に差異があると示したいからではないのか。

次に着替えが重要となるのは稽古中に高槻が逮捕されたときのこと。彼は連行される前に「着替えてもいいですか」と問う。自分を抑えられない、と自他ともに認める高槻は「枠」からはみ出していく性質を持ち、ゆえにオーディションではカメラの動きを伴いつつアーストロフという役をうまく演じられたが、一方でカメラに収められることを極端に嫌い、また暴行の現場は画面外で起こる。最後まで舞台に残らなければばならないワーニャを演じるなど彼にはそもそも無理な話だったのだ。だから彼は役から降り画面から完全に退場するけれど、その際わざわざ着替えを要求するのだ。
最後に着替え/楽屋が登場するのは舞台本番。ここでは、出番を終えた役者が楽屋のモニターでラストシーンを見ており、家福には着替え/楽屋が用意されていない。思い返せば音の死後『ワーニャ伯父さん』を上演した際にも楽屋は映されず、劇中盤に舞台袖で苦悩する様しか見られなかった。このとき彼は役を受け入れきれず混濁し、またきちんと降りることもできずにいたのではないか。だが最後にはようやく音の呼び声に応じ、ワーニャをラストまで演じ切ることで昇華させる。だからわざわざ家福不在の楽屋風景が挿入されているのはワーニャのまま出番を終えたと印象付けるためで、そしてその後のことは、語る必要がない。

『ワーニャ伯父さん』を演じ切り涙を流す姿は正面から捉えられていた。その姿は演者によって、渡利によって、観客によって目撃される。正対できなかった男は音と高槻を失ったけれど、いくつもの位置の変化を経て、ようやく向かい合うことができるようになった。これで彼も、いつかほっと一息つけるのかもしれない。

ちなみに『ドライブ・マイ・カー』で優れていたのは四宮秀俊の撮影と山崎梓の編集だと思う。いろんな要素をミックスしまとめた脚色は確かに面白いけれど、言葉に頼る部分も多く特に北海道の場面は過剰ではないかと感じた。雪景色もイマイチ冴えていないし。個人的には次々にトンネルを抜ける夜の道路と、サンルーフを開けて煙草を吸うシーンがベスト。