リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『君の名は。』を見た。

一生で一度のワープを

新海誠監督3年ぶりの新作アニメーション。声優には神木隆之介上白石萌音長澤まさみ市原悦子ら。主題歌をRADWIMPSが担当する。


千年ぶりの彗星急接近を一か月後に控えた日本。山奥にある小さな田舎町で暮らす三葉(上白石萌音)は、ある日東京で暮らす男子高校生として一日を過ごす夢を見る。一方、東京で暮らす瀧(神木隆之介)も、時を同じくして小さな田舎町で暮らす女子高生として一日を過ごす夢を見ていた。その夢は繰り返され、夢を見た日は不思議に記憶が抜け落ち、周囲の反応がいつもと違うことに気付く。そして2人はそれが夢ではなく、体が入れ替わっていると知るのだが・・・

※ネタバレ


秒速5センチメートル』はおそろしい作品であった。感傷に浸りきったモノローグは耐え難い自己憐憫を生成し、客観の排除された物語はひたすら自己愛の中へ沈んでゆく。美しく彩られた風景がそんな物語を過剰に装飾し、まるでこの主人公のために作られたと言わんばかりの主題歌が高らかに捧げられる。言うなれば『秒速5センチメートル』は、極度に恥知らずな作品だ。一見、現実に打ちのめされる姿を描いたかのようにも見えるあの作品は、実のところ極度に甘やかされた世界で構築されている。客観性を欠いた物語は言うに及ばず、背景美術にしてもそうだ。あの、過度に美化された風景はもはや風景とは呼べず、心理と化している。それは表現主義だ、とも言えるかもしれないが、しかし自分の内面に陶酔するため用意されたその装置は、少なくとも美しくはない。もちろん既に述べたように、主題歌の私物化も笑止千万の愚行である。主題歌が作品の内容を補助するのは何も珍しくないし問題もない。しかしこの作品では、登場人物が劇中で歌うわけでもなく、あくまで主題歌として流れる曲を、あまりにも登場人物の内面へと変換している。このように映画を形作るすべての要素は美しく感傷に浸りたいという心理に都合よく配置されており、まるで世界は自分のために存在しているかのように振る舞っている。これは、きわめて傲慢で醜悪な振る舞いだ。
ただし画面としては、分断として登場する電車、左右の進行方向など見所がないわけではない。しかしやはり、単に下手だなと思う部分もあり、例えば編集である。特に主題歌が流れる辺りは壊滅的だ。タイミングも映し出される絵も耐え難い。もう一つはモノローグである。感傷に浸りきった自己陶酔的なセリフ自体はひとまずおいておくとしても、ほぼ全編に渡って垂れ流される台詞は、完全に画面を消し去っている。言い換えれば、画面を信じていない。先ほど述べたようにこの作品においては背景も心理であって、その上更に心理を重ねるというのはあまりにも押しつけがましい。しかもその心理が個人的に受け付けがたい代物であったために、『秒速5センチメートル』は今まで見た作品の中で、最も嫌いな作品の一つである。



前置きが長くなってしまったが、『君の名は。』では『秒速5センチメートル』で感じたような不快感の多くが取り除かれている。背景美術の、過度な色彩と光による装飾は抑えられ、モノローグなど独白も抑え目だ。この背景美術にしてもそうなのだが、本作には世界との関わりがあるのだ。例えば、はじめに三葉の生活が描かれている。自らの生活圏とその暮らしの、日常がある。日常の中には、三葉とは何のかかわりもない人間がただ校庭にいたりする。食事や舞や仕事など、日々の雑務がある。山がある、畑がある、坂道がある、カフェはない。それらは彼女の心情とは何も関係の無い事柄でありながら、彼女らがここに存在しているという実在感を形成する事柄であろう。押しつけがましい独白などなくても三葉に寄り添えるのは、これらの描写のおかげではないか。
新海誠監督が、『ほしのこえ』から用いていた分断の表現も勿論登場する。それは電車という形での表現が最もわかりやすく、本作の白眉の一つであろう電車での邂逅は、最も親密な距離にいながらすれ違っているという不思議な事態が発生していて面白い。ここでもう一つ重要になってくるのが扉だ。事実、カメラ(といっても実写ではないから正確にはカメラではない)が殆ど床に埋まっているかのような下に置きながら、扉は何度も開けられる。しかし扉は、決して分断された2者をめぐり合わせるものではない。扉は内と外の分断をさらけ出し、なおもすれ違わせ続ける装置である。しかしそんな平行にすれ違い続ける2者は、登りと下りの果てにある一点で交わることになる。まるで2つの平行線がある一点で交わり、円を描くようにして再び交わるように。
アニメーション自身の快感も忘れられない。特にその、登りと下りで走るシーンは動きとしての白眉であろう。転びそうになる、転ぶ、というクッションも含めて、どうしても心を揺さぶられる動きがここにはあった。それ以外だと姉妹が巫女として舞う場面の身体の端に行き届く動きや、意識が飛び、糸を中心に時間を追う場面も好きだ。



しかし、以上の点を踏まえたうえで、どうしても気になるところもある。先ずは冒頭でも書いた、主題歌の起用方法である。本作では何度かRADWIMPSの曲が挿入されることとなるのだが、これが問題である。まず最初の、入れ替わりが判明したシーンについては急にプロモーションビデオのような編集と、下手に被せられる台詞のおかげで致命的にダサい。それまでの流れとは異なるこの場面は、感情を、画面を殺している。画面を殺しているのはクライマックスの曲にしてもそうで、曲という情報を付け足したおかげで感情過多となっておりやかましい。新海誠は何故画面や物語自身を信用しきらないのか。それが不思議でならない。
次に、肉体性の欠如。これも不満である。肉体性の欠如とは、男女が入れ替わるという事態に対して、その肉体を「胸を揉む」という程度のギャグとしてしか機能させていないことに対する不満だ。思い通りではない肉体の不自由さと、そのことによって生じる生身感がほとんど欠如している。念のため断っておくが、これは性欲とは全く違う。例えば大林宣彦の『転校生』はやはりその歪さを、ちぐはぐな身体からでる行為によって描いていた。しかし本作では肉体の入れ替わり以降、物語は急速に恋愛に目を向け始める。たしかに、身体性や価値観の転倒・発見を描いていては、すれ違う男女という主題にたどり着くまで時間を要するのかもしれない。またその点については深く触れず処理してしまおうという思いもあってRADWIMPSの曲は挿入されているのかもしれないが、ともかく本作においては男女が入れ替わるという事態についてを描くことはできないと思うし、感情ばかりが先行した結果、それまで日常生活によって支えられていた人物たちの実在感を損なっているようにも思う。
そして最後に、外部の消滅である。冒頭については既に述べたように生活があり、社会があり世界があると感じられた。しかし結局、登場人物は極めて自己中心的な振る舞いで社会を消滅させる。それは、歴史を改変してしまうクライマックスにおいてである。僕はこの部分を否定する。仮に正しい行いであったとしても、歴史を改変するなどしていいのか。主人公たちにとっての良きことのために、テロを行使し歴史を改変してしまうのを、無邪気に喜んでいいのだろうか。
確かに、災害によって亡くなった人たちを救うことが出来るのであれば、それは紛れもなく良きことである。だがそんなことをしてしまうのは、現実に対しあまりにも無責任ではないか。例えば、本作でもリボンによってオマージュが捧げられている『魔法少女まどか☆マギカ』では、身勝手に世界を改変することに対する責任を少女たちは背負わされていたし、また『時をかける少女』では、変えられない現実があることを知った少女が無邪気に時を逆行した責任として別れを経験し、その上で変えられないこの一瞬と未来への希望を獲得していた。彼女らがこうした運命を背負ったのは、登場人物の外部にどうしようもない現実や社会が存在しているからだ。しかしその、現実の「どうしようもなさ」を本作では、なんの代償もなく「なかったこと」として無効化してしまう。そんなことが許されてよいのか。外部、つまり社会や現実を無効化して自分の感情の赴くままに世界をつくりかえるというのは、あまりにも身勝手ではないか。この世界を都合よく変換してしまう姿勢は『秒速5センチメートル』と変わらない。言うなれば、世界を肯定するのではなく、世界から肯定されることを望む姿勢ではないか。最後に結婚式について話し合う二人をわざわざ登場させるのも、その一つだ。そんな身勝手を僕は危険だと思うし、なにより世界が息苦しく感じられてしまう。青臭い二人の感情ばかりが先行し、それを無批判に肯定して閉じてしまう世界は悲劇よりむしろ狭苦しく、息苦しい。



フィクションの効能の一つとは、現実から希望を救い上げるものだと僕は思っている。だからこそ、どうようもなく息苦しい現実の世界を、一瞬でも抜け出せると思うのだが、現実を書き換え希望に変換してしまうこの作品は、やはりどうしても納得できない。おそらく僕は、新海誠監督作品ととことん馬が合わないのだろう。というより、気持ちは分かるが、本当にそんなことをしていいのだろうか、というブレーキがかかる。そうしないところに作家として力がある、ということなのかもしれないが、少なくとも僕はそれを好きにはなれない。
しかしである。そんな風に思いながらも、この作品で不覚にも感動してしまった場面がある。それは、掌に書かれた文字だ。本来であれば、あそこには名前が書かれているはずだった。しかしそこに書かれていたのは、ある感情である。おそらくそうであろうと予想のつくこの行為が何故感動的だというのか。それは現実に対する諦観と、それでも抗おうとする感情があるからだ。ここで瀧は、「もしかしたら現実は変えられないかもしれない」と思っていたのではないかと僕は思う。それが言い過ぎだとしても、間違いなく瀧はあの場面で、目的よりも感情を先行させていたのだ。もしそうでないなら、彼が発した言葉通り名前を書いて目的を果たさせるはずだ。しかし、結果がどうであろうと伝えなければならないことがある。それがあの掌に書かれた文字ではないのか。どうなったとしたって、感情を爆発させる。そんな一瞬には感動する。
二人は名前を失ったままの月日を過ごす。名前とはその人間を規定する重要な要素であるが、彼らの場合入れ替わりが起こっていたのだから、相手の名前というのはいわば自分の一部であるわけだし、その名を失っているというのはその時期の自分をも失ったままということなのだ。掌に書かれた文字も、その文字を見て沸き起こる感情も、どこかに置き去りにしたままなのだ。だからこそ、置き去りにしてきた感情をもう一度捕まえるため彼らは、「君の名は。」と問うのである。