リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『BFG』を見た。

オ・ヤサシ巨匠SS

スティーブン・スピルバーグ監督最新作。ロアルド・ダール著『オ・ヤサシ巨人BFG』の映画化。巨人役には監督の前作『ブリッジ・オブ・スパイ』でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス。主演の少女ソフィー役には新人のルビー・バーンヒル


ロンドンの児童養護施設で暮らすソフィー(ルビー・バーンヒル)は毎晩眠りにつくことが出来ず、暗い施設の中を歩き回り、本を読んでいた。しかしある日、彼女がふと窓から街を覗くとそこには巨人(マーク・ライランス)がいた。すぐさまベッドにもぐりこむが、巨人は彼女をつまみあげ、巨人の国までさらって行ってしまうのだった・・・

※ネタバレ



「隠す」ということが徹底されている。深夜に部屋を抜け出した少女が寮母に見つからぬよう階段の踊り場で全身にシーツをかぶる、巨人に捕まらないよう布団にもぐる、巨人が闇に紛れ隠れる、巨人の目を盗み少女が逃げる、バケツで顔を隠す、巨人が地中に隠れている、巨人の目を避けお化けきゅうりの中に隠れる。ひたすら登場人物、もしくは登場巨人が、隠れる、隠す、逃げる、そして探すということによってこの物語は進行してゆく。この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品において多用されている。それは『激突』や『ジョーズ』などの怪獣映画であれば姿を隠すということと通じ、『E.T』であれば存在を隠すという行為がまさにそれであり、『マイノリティ・リポート』は身分を隠していた。『キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン』は詐欺師の話であったわけだし、『リンカーン』のトミー・リー・ジョーンズは隠していた思いが鬘によって表出していた。また今年公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』についても『ミュンヘン』がそうだったのと同じく秘密任務である。枚挙に暇がないため他の作品については割愛するが、スピルバーグは多くの作品で、「隠す」ことについて撮っている。
この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品の主題としてだけではなく、既に一部作品を例に出しながら述べたようにサスペンスであり、またアクションでもある。本作では、はじめ少女は巨人から隠れようとするものの、すぐにその巨人が心優しい巨人だとわかる。しかしその後も、心優しい巨人が、少女ソフィーを人食い巨人から守るため彼女を「隠す」、もしくは少女自ら「隠れる」という行為が連続する。優しい巨人が人食い巨人の目を逸らし、その隙に少女は隠れ、しかし見つかりそうになるとまた心優しい巨人が一計を案じることにより、少女は姿を隠し通せる。ここにはサスペンスとアクションがあるが、それはすべて「隠す」という行為によってなされているのだ。この「隠す」という要素は単純にかくれんぼ的で楽しいというのがあるし、それは『ジュラシック・パーク』でも『宇宙戦争』でも、他のいくつもの作品で魅せた、スピルバーグお馴染み且つ絶対的な手腕によるものである。本作は児童文学が原作のファンタジー映画いうことで『E.T』的な心優しい映画ではあるのだが、僕は『ジュラシック・パーク』の方が近いのではないかと思う。というのも鼻息を荒くして少女を食おうとする人食い巨人から隠れる様子は、どう見てもティラノサウルス・レックスやヴェロキラプトルから身を隠す、あの様子にしか見えないからだ。また少女が生物の体液を全身に浴びるというところまでそっくりである。
尚この「隠す」行為を楽しく見られるのは演出手腕は勿論、画面の奥行や高低差を利用しつつ長回しでとらえる複雑なアクション設計にもかかわらず、中心をしっかり捉えるヤヌス・カミンスキーの撮影による力も当然大きい。画面の具合に関しては、いわゆる黒いスピルバーグはほとんど顔を出しておらず、つまり『クリスタルスカルの王国』『タンタンの冒険』と同様のラインにあり、またそれらと同じようにやり過ぎともいえる作り込みアクションの連続が楽しいのである。



この「隠れる」ということと関連して、「模倣」という要素もいくつか出てくる。例えば、はじめに巨人が少女を連れてロンドンの街を抜け出すシーンで、巨人は街灯に模したり、トラックの積み荷に模したりしている。巨人が人間の街へ姿を現すとき、決まって何かを「模倣」しながら「隠れて」いるのだ。また、影絵を使うシーンもある。影絵とは光によって作り出された疑似的な像であって、それは本物を模倣しているに過ぎない像である。そして「模倣」は、巨人という存在が「露呈」する女王陛下との会食シーンでも行われている。つまり巨人はここで人間を「模倣」した食事をとっており、また人間も巨人を「模倣」して飲み物を飲むのである。ここではスピルバーグらしい異種との接近と相互理解、はぐれものへの共感救いというテーマが顔を出しているが、それよりも本作では重要な要素として、夢というものがある。夢とは現実を模倣しつつも、しかし現実からは遠い現象である。巨人はそんな夢を、湖に「隠されていた」反転した世界の中から捕まえては人々の目から隠れつつ吹き込んでいる。本作はそんな夢について、それは所詮まがい物だよなどと言いはしない。むしろ夢を信じ、見ること追うことの中に先の人生への光が見えるのだと言う。



スピルバーグはSFやファンタジーなどのイメージがあり、非現実的なものを創造するのに長けていると思われているし事実それは間違いないと思うのだが、実のところ本作のような、全くの非現実でファンタジーな世界を見せることはほぼない。『フック』と『BFG』以外はどれも現実世界をベースにしており、異世界は登場していないはずだ。しかもその異世界の描写は正直うまくないというか、その世界自体が新鮮な驚きを与えてくれるようなことはない。しかし本作に限ってはアニメーションとの融合により、画面全体にどこか作り物めいた懐かしい手ざわりと不思議な浮遊感とを漂わせていることが多く、その浮遊感と作品がもつめまぐるしさ少女の見た夢かのようにも思え、夢を信じ、見て追うことの尊さは一つの作品の中の主題として説得力を持っていたように思うし、はぐれものへの共感、異種への相互理解と夢を追うことへの純真なまなざしとは、スピルバーグが個人的に追い続けている系譜の中にきちんと納まっているのである。



冒頭、睡眠障害だと宣言する少女は自らがいる施設の鍵を閉め、夜に窓からくる異種の存在に怯え「隠れ」ていた。しかし、ラストでは深い睡眠の後、朝の光が差し込む窓辺でそっと巨人に語りかける。そしてその巨人も窓を開け少女の声に耳を傾けている。おそらくはこの巨人も、かつては他の巨人から「隠れ」て生きており、それまでは窓を開けてなどいなかったはずなのである。しかし彼らはもう「隠れる」必要はない。それはもちろん、暴れん坊の人食い巨人が島から去ったからではない。『未知との遭遇』『太陽の帝国』『ターミナル』のような作品と同じく、文化・言語・行為の「模倣」が彼らの間に理解と成長と夢を生んだからだ。
この作品は歴史に残る傑作ではないだろうし、スピルバーグの作品群にいおいてもあまり注目されないかもしれない。しかし、僕はこの作品が好きである。確かに、「露呈」してからの会食シーンはそれまでに比べテンポも落ちるし妙に丁寧でゆったりしている割に最後の見せ場はあっさりしていて妙なバランスではあるし、おならギャグも、一発目こそ大真面目にそれを映像にしていて笑ったものの、2発目は厳しいものがあるとは思う。しかしそれでも好きなのだ。妙に愛おしい。つまるところ、やっぱり僕はスピルバーグが好きなのだ。

オ・ヤサシ巨人BFG (ロアルド・ダールコレクション 11)

オ・ヤサシ巨人BFG (ロアルド・ダールコレクション 11)

  • 作者: ロアルドダール,クェンティンブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,中村妙子
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 2006/07/01
  • メディア: 単行本
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