夜との境をなすいや果ての地
劇場長編映画は4年ぶりとなる黒沢清監督最新作。1997年に監督した『修羅の極道 蛇の道』を、舞台をフランスに変えてセルフリメイクした。主演は柴咲コウ。ほか、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、西島秀俊らが出演。
ねぇ どうして誰もなんにもしないの?
1999年に黒沢清監督が映画美学校の学生とともに制作した『大いなる幻影』に、こんなセリフがあった。『大いなる幻影』は黒沢清監督作品に頻出する旅行というモチーフ-過去を忘れて何かやり直すための漠然とした、果たされることのない約束-が色濃く表出している作品である。
地図上から日本が消え、いたるところでひどく舞う花粉に対抗する薬は人から生殖機能を奪い、どうやら何かしらの集団的な対立も起こっているらしい世界を舞台にしたこの作品のヒロイン・ミチ(唯野未歩子)は、国外からの郵便物を取り扱う仕事をしているうち、海外への憧れを募らせるものの何かしらの理由により日本を出ることができないらしい。しかし、結局彼女は海に流れ着いた白骨死体を見て、彼の地も悲惨な状況にあると知り慟哭する。
セリフは、コピー機を使おうとするミチに投げかけられる。作動しない機械に困惑する彼女の傍へ、音もなく近づいてきた、暗い影が落ちシミのように顔が滲んだ女性は、その機械が「もう何年も前から壊れている」ことを告げ、続けざまにかのことを問いかけてくる。これは忘れられ、見捨てられた過去=廃墟が、忘却を許さずに暴力的に迫ってくるといういかにも黒沢清的瞬間であって、『叫』『クリーピー 偽りの隣人』『廃校綺譚』そして『蛇の道』など、かなり多くの作品で扱われる図式である。
1997年にVシネマとして発売された『修羅の極道 蛇の道』は、見捨てられた過去と、その過去が暴力的に迫ってくるまでの宙ぶらりんの時間ががらんとした空間の利用によって視覚的に表現されており、また日常的光景を虚ろへと還すような哀川翔の茫漠たる存在感も際立つ傑作である。それが四半世紀も経った今、セルフリメイクされた。
オリジナルと大きく異なる点には当然主人公が女性であるということ、妻という存在が前面に出てきたことがある。元々は夫たる男しか画面には登場せず、惨殺された子らを産んだ女性の姿は見当たらなかった。そして柴咲コウ演じるサヨコは哀川翔と異なり、確かな足音を響かせながら男たちに迫りゆく。幼いころからの憧れでパリに暮らしているという彼女は、海外に行けなかった唯野未歩子とも、幽霊となった夫に付き添い旅に出た深津絵里とも、アメリカに渡った「らしい」蒼井優とも、仕事で仕方なくウズベキスタンに滞在する前田敦子とも、どこか違うようである。では一体、彼女は何者なのか。
結論から言えば、彼女は『妖女ゴーゴン』(1964)に登場した怪物メゲーラに違いない。ゴルゴーン三姉妹の一人、その顔を見た人間を恐怖で石に変えてしまう、あの怪物である。
その怪物は、村はずれの屋敷の窓から見える石造りの階段をいくつか下ったところでアーチ型の扉を開け、その先に広がる森を進み、崖を登って、橋を渡った向こうに見える古城に潜んでいる。夜風に揺れる朽ちた旗と、蜘蛛の巣のかかった石像が出迎える広間には枯れ葉が舞い込み、家屋は廃材と化し打ち捨てられている。古い城の内部は中2階になっていて、左端に折れ階段がある。踊り場に鏡が掛けられているその階段を上った先の、玉座を囲む柱の陰に怪物は潜む。彼女が、ひとたび緑のドレスに包まれたその身を、真っ赤に充血したその目を、なによりその蛇の髪を露わにしたとき人間は石になるほかなく、鏡に映った姿か水面への反射でさえ恐怖で失神してしまうほどだ。
サヨコがメゲーラめいた怪物性をはっきりと現わすのは、影が落ち真っ黒に塗りつぶされた廊下から不意にその姿を見せて、監禁している男たちの正面に座り「真犯人をでっちあげよう」と提案する場面のこと。窓からは由来不明の赤のようなオレンジのような光が差し込み、倉庫を不思議に染め上げている。日常的な光景の範囲にとどまっていたオリジナルからの変更がひときわ目立つこの異常光線は、ゴーゴンの背後で玉座を照らすオレンジと呼応する。これが単なる偶然ではないことは、「蛇か、その目は」とオリジナルには登場しなかった「蛇」なる単語をわざわざ口に出している点からも了承されよう。これまでも一つの言葉を契機に世界をがらりと変えてきた黒沢清なのだから、大胆に発せられる「蛇」の一語から2024年のパリにメゲーラを召喚しても、時空を超えて光が差し込んでも何も不思議はない。だからサヨコが着ている服が緑であることも無論偶然ではないし、彼女が羽織るフード付きのコートが、メゲーラの仮の姿である村娘・カルラが羽織るコートと重なって見えるのもやはり偶然ではない。あるいは、遊園地の奥に広がる廃工場で上階に佇むサヨコを見つけるショットが、古城の中2階で堂々と構えるカルラを見つける場面を想起させるのもまた、偶然ではない。ごろんと転がる三つの死体がどれも目も開いて呆けた表情で固まっているのも必然である。
倉庫そのものの在り方にも違いがある。オリジナルでは、どうやら下町風の建物が並ぶ一角に立地しているらしく、人が出入りする狭い扉はあるけれど建物の外観は隠されており、一体どうやって車があの広い倉庫の中へ入ったのかはまるで分らない。一方、今回倉庫はどうやら生活圏からは少し離れた郊外に位置しているらしく、車は入り口付近に停められ、そこから袋詰めにした男をずるずる引きずって建物へ入り廊下を渡り、監禁部屋へたどり着く。こんな、元々は省略していた描写をなぜわざわざ入れたのか。なぜ外観によって日常との接続点、あるいは切断点を見せたのか。
怪奇だと考えればこの点にも合点が行く。先に長々と書いたが、怪奇の雰囲気は舞台設定に依るところが大きい。その陰鬱な道のり、室内の古風で大げさな装飾や迷宮めいた廊下、あるいはそれらを取り囲む墓地などの環境にポイントがある。実際、例えばマリオ・バーヴァの映画を思い出すとき、朽ちてはいるが荘厳なアーチとか墓地へ下る階段とかハッタリの効いた室内を想起しない者はいない。どこか遠くに見える不気味な古い城や館に、うっかり到着してしまう怪奇の導入はマチュー・アマルリックが拉致されてくることに変奏されている。怪奇映画とは、何より生と死が衝突する特殊な場所の設定に肝があるのだ。つまり2024年版『蛇の道』とは、同じ物語でありながら微妙にジャンルをスライドさせたリメイクなのである。
『大いなる幻影』で投げかけられた問いを、怪物・柴咲コウは進んで引き受ける。物事を解決する気があるのかないのか、責任の所在を曖昧にし続ける男たちに向かって視線を向けるサヨコはあの顔のない女性と繋がってその先へと進み、怪物となって見捨てられた過去を問い直すためにやってくる。
ところでここに一人の、黒沢清世界特有の男性がいることを忘れてはならない。青木崇高演じるサヨコの夫だ。彼はたびたびサヨコへの連絡を試みる。曰く、娘が亡くなったことは忘れて、夫婦二人での生活に戻ろうじゃないか。こちらに帰ってきてはどうか。これは「旅行」というモチーフの一つの形である。だがサヨコはこの瞬間をこそ待っていた。アパートの一室。機械ばかりが無限に作動し続ける、ピントの合わない、異界化したこの空間で、彼女はただ、その時を待ち構えていた。
ゴーゴンは何もせずただ古城の奥に立っていればよい。すると人間の方からフラフラと近づいてきて「あっ」と驚く 。ゴーゴンは相変わらず何もしない。しかし人間の側の被害は甚大だ。(黒沢清 著「映画はおそろしい」)
サヨコの目の上に、夫は蛇を見たに違いない。