リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ハドソン川の奇跡』を見た。

見よ、今日は、かの曇り空で
クリント・イーストウッド監督最新作。2009年1月15日に実際に発生した飛行機不時着水事故を基にした作品。全編をIMAXカメラで撮影している。主演を務めたのはトム・ハンクス


ニューヨークのラガーディア空港を出発したUSアウェイズ1549便が離陸した直後に鳥の群れと衝突した。両エンジンの推力を失い、急速に高度を下げる機体を前に、機長のサリー・サイレンバーガー(トム・ハンクス)はハドソン川への不時着を決断した。絶望的な難易度の不時着を成功させ、乗員乗客全員が無事生還するという奇跡を成し遂げたのだが・・・

奇跡を成し遂げたという機長の顔が、初めてしっかりと画面に収まるその最初のショットからしてその顔はほとんど影に覆われており、また不気味なほど現実とシームレスなままに何度も悪夢が彼の前に去来することや、鏡に反射する、もしくはテレビに映し出される自分の姿を幾度となく訝しげに見ることなどから、この物語は英雄や奇跡を描こうとしたのではないということがわかる。機長は、自分の成し遂げた英雄的行為を誇示したりはしない。なぜなら彼はただ「機長」という職務に則り行動しただけだからである。しかし本人その思いとはかけ離れた姿を人々は「彼」と認識しており、また一方ではむしろ無理な着水により乗客を危険にさらしたのではないかと断罪されかけてもいる。その分裂、英雄譚の解体が本作では描かれているのであり、何度も繰り返される「英雄的行為」の回想は、分裂のゆくえを担うサスペンスとなっている。実にイーストウッドらしい主題ではないか。



しかしサスペンスといっても事はあまりに淡々と過ぎ去ってゆく。まるで「然るべきものを順序良く映せばそれで済む」というかの如き画面である。ヒッチコックの『海外特派員』を思わせる着水シーンですらあっさりと処理されているのだ。しかしそれでつまらないということは全くないし、最低限で語りつくす手腕は見事であるとはいえ、あまりにも平然とし過ぎている。もともとドラマチックさにはさほど関心がないような様子のある監督ではあるが、これほど抑制されている事には驚くし、しかも、そんな平然とした態度のまま、何度も悪夢として静かに飛行機を墜落させるのだから些か不気味ですらある。不気味なことが不気味なこととして進行するのではなく、平坦さの中にいきなり不気味さが顔を覗かせるから異様なのだ。
もちろんその平然とした様子というのは、機長が後に英雄的と讃えられる行為を成している際も、成し遂げた後にしても同じである。彼の行為を「奇跡」として殊更盛り上げるということはせず、少なくとも本人と、そして画面の感情としては、すでに述べたように「機長」として然るべき職務をこなしただけ、という程度に抑えられている。制服を脱がない、というのも彼があくまで仕事人であるということを強調している。そして仕事はその他の人物たちにも共通しており、例えば国家安全保障局にしても彼らは航空会社と敵対など勿論しているはずもなく仕事をしているに過ぎないわけだし、乗客を海上から救った海上警備隊も仕事として救出したのであって、例えば家族のドラマであるとか、愛する人を救いたいとか、そういった感情的なこととは関係ない。それぞれがそれぞれの果たすべきとこを、ただ行っただけなのである。ではそれは人間性を欠いた作業なのかというとそうではなく、むしろ全く違っているということが、機械的なシミュレーションによって明らかになる。感情的なドラマではなく、人間の行動によってこの奇跡は起こっているのだ。乗客にしても、個人個人としての存在は確かだが、それも感情的なドラマではない。全ては抑制された画面中で進行する。



ところで、本作で最も気になったのは「声」である。機長は、何度も見つめることとなる「映像」ではなく、一つの「声」によってその疑惑を晴らし分裂は統一されることとなる。仕事と関連したことでいえば、事故発生時にスチュワーデスが乗客へと向かって繰り返し発する号令も非常に印象的である。
そしてもうひとつ、機長はよく妻へ電話をかける。それは分裂しそうになっている彼にとっては支えであるはずだが、しかし時に、例えば片方の声が遠のくときなどはその繋がりに危うさがあるし、電話が必ずしも支えとなってはいなかった。この電話という要素は前作『アメリカン・スナイパー』の夫婦の会話に通じているように思う。あちらもまた電話によってのみ良好な会話をしていた夫婦が、段々と声が通じなくなっていた。また特にここ最近のイーストウッド作品は、この「声」という要素が強いように思う。例えば『インビクタス』ではモーガン・フリーマンが詩を朗唱し、『ヒア・アフター』のマット・デイモンは霊界からの声を伝える役割を持っていた。『J・エドガー』でFBI長官となる男は盗聴によって情報を把握していたのであるし、『ジャージー・ボーイズ』はそのまま、歌手の物語であった。



イーストウッド自身は、一度聴いたら耳から離れない、特徴的な「声」を持っていた。だからこそ、彼の作品はどうしても「声」に耳を傾けざるを得ない。そしてイーストウッド自身が主演しなくなったここ最近の作品において、「声」という要素が並んでいるのは面白いと思うのだが、しかし元をたどればそもそも監督デビュー作である『恐怖のメロディ』がまず、狂気の女性に襲われるラジオDJの話でもあった。
イーストウッド作品における「声」という要素については今何かを語れるほど自分の中に確固たる考えはないものの、しかしやはり無視はできない。数々のイーストウッド印が刻まれる『ハドソン川の奇跡』ではあるが、何より印象的なのは、その「声」だったのだから。

機長、究極の決断 (静山社文庫)

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