リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『心が叫びたがってるんだ。』を見た。

叫べというこの確かな心を
2011年に放送され人気を博した『あの日見た花の名を僕達はまだ知らない』のメインスタッフによって制作されたアニメーション映画。監督は長井龍雪、脚本は岡田麿里。声の出演には水瀬いのり内山昂輝雨宮天細谷佳正ら。


高校生の成瀬順(水瀬いのり)は、幼い時に発した言葉がきっかけで家族の絆を失くしてしまい、それがきっかけで喋ることが出来なくなってしまっていた。しかしある日、順はクラスの担任から地域ふれあい交流会の実行委員に選ばれてしまう。おなじく実行委員に選ばれた坂上拓実(内山昂輝)、田崎大樹(細谷佳正)、仁藤菜月(雨宮天)らもそれぞれに事情があり、またクラスでも交流が多くなかったため上手くコミュニケーションを取れずにいた・・・

基本的には丁寧な映画、というのが率直な感想である。物語の展開とそのスピード、キャラクターの描写に対して丁寧だ。だから人物にも物語にも納得がいくし、対比や、その対比が生み出す他者への感情の移行も理解しやすい。それに加え、語られるメッセージもまた丁寧である。言葉によるコミュニケーションの難しさ、と言ってしまえばそれはあまりに簡単な一言でしかない思春期のもどかしくってままならない想いと言葉に対し、安易で単純と思われるような救いを用意するのでもなく、まただからといって厳しさを突きつけて終わるようなこともしない。伝えることの難しさ、伝えられないことのもどかしさ、ままならなさはそのままで、それでもいいんだと肯定する。ちなみに『あの日見た花の名を僕達はまだ知らない』のスタッフ再集結という文言が宣伝でも使われているが、本作は『あの花〜』ほど泣くことを要求するような甘い話ではない。ただ思い返せばあの作品もまた、伝えたかった想い、伝えられなかった想いを巡る話であって、これは脚本家及びスタッフの得意とする分野なのかとも思ったりした。



さて、丁寧な映画ではあるとは思うものの、実のところ僕はこの映画をそこまで高く評価しているわけではない。いくらアニメとはいえ台詞が若干恥ずかしいということはとりあえず置いておくとして、見ていてまずはじめに思ったのは説明台詞が多めということであって、物語の展開に必要な情報だけでなく登場人物の心中もモノローグ等で語ってしまっている部分が多いように感じられた。ただしこの点に関しては言葉を主題とする映画なのだから言葉の占める比重が大きくなるのは仕方ないということもできるので、僕もこの理由から、この作品を直ちにダメと断定するほどの問題だとは思っていない。気になるのは、本作がその主題ゆえに言葉というものを重視・優先した結果、画面としての面白味があまり感じられない作品になってしまったということなのだ。
例えば、玉子についてである。玉子は何度も劇中登場するアイテムであるが、これはまず順の王子様に対する憧れがあって、それが消えかけたときに玉子という形で順の前に登場することになる。王子と玉子。洒落のような掛け合わせだが、結果的に順は「いつか王子様とお城へ」という願いを、卵の殻を破ることで多少歪でありながら叶えてしまったことになるわけだ。流れとしては納得できる。しかし玉子それ自体がアイテムとして画面上で機能しないのが惜しいと僕は思っている。卵は順の心理表現でしかなく、それ自体が画面としての魅力になることはない。特に本作では序盤に「神社に供えてある玉子型の石」と、そして「だし巻き卵」が登場するのだから、玉子を画面上のアイテムとして利用する方法はあったはずなのだ。それなのに心理の表現としてしか機能してくれないのが、ちょっともったいないと感じた。



しかしその玉子についても別に大きな不満点というのではない。僕が本作で最も残念に思ったのは、「ミュージカル」の扱いである。本作ではクラス全員でミュージカルを作り上げることとなる。何故ミュージカルなのか。あるクラスメートはミュージカルについて「突然歌いだして不自然」だと言うが、しかし「普段言葉にはできないことを歌で伝えることができる」のがミュージカルの美点だと拓実は言う。そしてまた、「ミュージカルでは奇跡が起こる」と語る人物まで出てくる。なるほど、確かに本作は言葉にできない想いを抱えた人物のドラマであるし、声を出せない人が歌ならば歌えるという奇跡のような場面もあるのだから、ミュージカルをやるという選択はわかる。しかし僕はこの映画の中でミュージカルの奇跡が起こったとは、到底思えないのである。
ミュージカルとはどう見ても不自然な現象だ。登場人物が突然歌って踊りだすなど正気の沙汰ではない。明らかに普通ではない。しかし、普通ではない、不自然な現象だからこそ、それは奇跡たりえるのではないか。突然歌い踊るという不自然が画面に生まれたとき、そこに言葉以上のアクションが生まれる。そのアクションこそ、映画の特性ではないのか。そしてまた重要なのが、ミュージカルは世界が広げることが出来るという点だ。劇中でも語られる『オズの魔法使』も、まずは扉を開くということから始まったではないか。極めて不自然な現象だからこそ、「自然」な展開から解放された自由な表現ができる。それこそがミュージカルの奇跡ではないのか。
では本作におけるミュージカルの扱いがどうであったかというと、きわめて自然な形でしか、歌は登場しない。登場人部は「ここで歌っていても不自然ではないですよ」という前置きを用意されたうえで歌う。当然そこに奇跡は存在しない。なぜならそこで歌うのは必然だからだ。唯一必然ではなく歌いだすようシーンは、明かりの消えた家で1人、順が歌いだすシーンである。しかしここにも奇跡は起こらない。声は出せなくても歌なら歌えることに気づくという歌の奇跡が起こるシーンにもかかわらず、1人暗い部屋の中、ソファーに寝転んだままそっとワンフレーズ歌ってこのシーンは終わってしまう。ここで彼女の中では、明らかに世界が変わったはずなのだ。しかし世界が広がってゆくような解放感はどこにもなく、現実と照らし合わせても「自然」といえる範疇に留まってしまうのだ。ちなみにその後教室で突然歌いだすシーンもあるがこれは部屋で歌えることを発見した順がクラスメートに「説明」するためのシーンなわけだし、ここにおいても現実から決して離れないような描写に留められている。つまり奇跡というよりは、展開の段階を踏んでいるだけである。
今書いたような意見には「これはミュージカルを演じる映画であって、ミュージカル映画ではない」と言うことが出来る。それは確かにその通りだ。だがそれでも結局「突然歌いだすのは不自然」「ミュージカルでは奇跡が起こる」というセリフへのアンサーにはなっていない。既に書いたように本作のミュージカルとは、歌うことが許され共有された空間で、既に起こることが確定した現象としてしか登場しないからだ。キャラクターの心情的や物語として見れば現実的で正しいのかもしれないが、先に書いたように、画面としての、映画としての面白味がない。



はじめに本作のメッセージについて「言葉によるコミュニケーションの難しさ」と書いたが、言い換えれば本作は表現することについての映画だと言える。伝えたいことが、ある表現によって昇華される。実際本作は丁寧な段取りを踏んでその通りの自然かつ必然的な結末を迎えるわけだから、やはりメッセージ、テーマに対して真摯な作品で丁寧だといえよう。だが僕が問題としているのはこれが映画という表現を用いて語られているということなのである。例えば、昨年公開された『たまこラブストーリー』が「投げる」「受け取る(受け取れない)」「足」という画面上の動きによって輝きだし、糸電話という不自然なアイテムすらまとめて傑作となっていたのに対し、本作はそういった画面の魅力、豊かさに乏しい。これで何か、見ている側を映画へと引き込むアクションがあればもしかしたら傑作となり得たかもしれないのにと思うと、どうしても、勿体ないなという感想が出てきてしまう。まぁそれでも、それなりに面白いは面白いのだけれど。

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック