リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『散歩する侵略者』を見た。

あれは夕陽だよ

黒沢清監督の新作にして、劇団・イキウメの同名舞台の映画化作品。主演は長澤まさみ松田龍平高杉真宙恒松祐里長谷川博己ら。


数日間行方不明となっていた夫・真治(松田龍平)が、まるで別人となって戻ってきた。妻・鳴海(長澤まさみ)は、戸惑い、また彼がそれまでにしていた行動を咎めつつも、とりあえず家へと連れて帰る。一方その頃、とある一家殺人事件の取材をしていたジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件現場っとなった家の前で、自らを宇宙人だと話す奇妙な少年・天野(高杉真宙)と出会い・・・

黒沢清作品において美術・安宅紀史が構築したのであろう「あったかホーム」は、人物の動線を確保するための謎の柱がほとんど邪魔だろうと思える場所にそびえ立つ不思議な空間であり、近年の黒沢清作品において欠かせない要素となっているのだが、今回はその柱が斜めに交錯していて、この斜め方向は柱のみならず鳴海のアトリエの壁や入口の向き等、部屋全体に表れている。おそらくこの斜めの設計とは夫婦関係のずれから生じたものであろう。内装も統一されず、さらに灰色の色調によって室内が捉えられるのは、加瀬夫婦がグレーゾーンへと突入しているからであって、同じ家の中でもそれぞれがそれぞれの生活を個別に行っていたことが、部屋によって示されている。



しかしそんな斜めに対し、加瀬夫妻の物語は正面からの切り返しによって幕を明けている。何故なら真治は宇宙人になっており、「忘れている」からである。宇宙人は正面から人間と対峙し「概念」を奪ってゆくが、所々で人物同士は斜めの位置だったり横切るというような動きをしているのが面白く、しかもまた宇宙人にしてもきちんと正面から見つめているというよりはややズレがあるわけだし、さらに「概念」を奪った後は人間に用がないというわけで、本作ではシネスコの中心と端っこを上手く利用しながら、こういった位置関係の要素を見せていることが多い。
ところでこの忘却という要素は黒沢清作品において頻出するモチーフであり、またそれらの多くは夫婦や恋人という関係と共に登場する。『散歩する侵略者』もまた、いつのまにか歪さを抱えた夫婦の物語なのである。「概念」を奪われ「忘れた」人間達は皆その場で崩れ落ちる。それはまるで一瞬だけモノと化してしまったのような、『シンドラーのリスト』で撃たれた人間達をどこか思い出すような不思議な崩れ方であって、確かに奪われた人間たちはそれまでとまるで変わってしまうのだから死の感覚と似ているのも無理はない。そして歩き方すらおぼつかない真治の姿はゾンビのように不慣れで、靴は脱ぎ捨てられる。しかし真治は次第にしっかりと立ち、歩き、走るようになる。不安定な足取りで散歩していたものが、いつしか人間と同じような足取りになるのだ。他の宇宙人たちを見れば、彼らがつまずき、倒れ、横になったままで死んだことがわかるだろう。しかし真治は鳴海と行動するうちに自らを、鳴海との関係を再構築したのだ。そして最後には立てなくなったものの傍に腰かける。この優しい視線と、そこに降り注ぐ優しい光は確かに過去作でも微かに見られた光景ではあるが、崩壊の果ての再構築としてここまで踏み込んでいたのは珍しいように思う。



再構築というと、本作は黒沢清的モチーフがやはり再利用されている場面が多い。最初に記した屋内設計や「忘却」の他には、例えば揺れる布や木々と風の雰囲気に謎の機械。反復する尋問シーンは『CURE』で、鳴海はその仕事といい灰色の服といい『リアル 完全なる首長竜の日』だし、殆どゾンビのような夫婦の足跡という点では『岸辺の旅』だろうとか、他にも挙げればきりがないのだけれど、最も類似性を感じるのは『ドッペルゲンガー』、もしくは『勝手にしやがれ』シリーズだ。つまりこれは「概念」を扱う小難しい話ではなく、ジャンルが混沌とする黒沢清世界の中を基本的にはナンセンスで突き抜ける楽しい映画なのだ。それはアバンタイトルによく表れていて、血まみれのセーラー服姿でふらふらと歩く宇宙人・立花あきらの背後で車があり得ない衝突を起こすという素晴らしいシーンである。他にもそのナンセンスさと風という要素が上手く組み合わさっているシーンとして、丸尾から「の」を奪うシーンがある。ここでは奇妙な掛け合いと何度も家に侵入しようとする真治の可笑しさを楽しめるのだが、実際に彼から「の」を奪うとき、ペットボトルで作られた風車と草の揺れのタイミングがズレている。この風の作用が素晴らしい。ちなみに風車はたびたび画面に登場するが、ひょっとするとこの風車とは動き出したら止められない機械としての風車なのではないだろうか。『生血を吸う女』的な発想ともいえるが、つまり鳴海や桜井が「侵略を辞められないのか」等と聞くも、宇宙人たちは理由を述べずそれはできないとだけ答えている。本作において宇宙人は、鳴海の言うように「目から光線を出す」ことはしないが、しかしやはり彼らにはやはり宇宙人らしくただ侵略をするというルールだけがあるのであって、だからこそ一度始まったらそれを止めるのは不可能なのだろう。反対に、はじめ立花や天野が侵略した家の窓はピタリと閉じられ風の気配がないのは既にその空間においては目的が完了したからではないのか。そして侵略を進めていくうえで何度も登場する風車は、予感として吹き始めた風を、動き出したら止められないものへと変換するために存在しているのではないか。
ところで丸尾家での人物の動きの他にも、例えば初めて鳴海の職場が舞台となったとき、彼女の背後ではいくらなんでもそんなに立ち歩くかなというほどに職員が動いているし、病院の混沌とした様子は特に軍隊が画面に侵入するタイミング等、動線設計で魅せてくれる場面もある。また立花はその身体性と「銃は持ったらとにかく撃つ」という精神で、フロントミラーさえ突き抜ける活劇性を作品にもたらしている。さらに宇宙人がふらふらと車を運転しゴミ捨て場に衝突するのはいかにも黒沢清らしい衝突だし、桜井が戦闘機相手に廃工場を走り回る場面には青天の下侵略SFらしい大仰な仕掛けが炸裂する楽しさがある。もちろんこういった仕掛けの多い場面以外でもカットを割らずに見せる箇所というのは多く存在する。
また桜井が天野と出会う場面での、車を中心にぐるぐると動く場面ではある決定的な言葉を告げようとする場所に到着した際、天野の顔にはそれまでよりも濃い影がかかっている。この影は「概念」を奪い際に度々登場するものであるが、同時に光も画面には出ており、中でも宇宙人三人が加瀬家の前で出会う場面では、家の電灯が妙な光り方をしている。妙な光はそれ自体仕掛けとして面白いというのもあるが、これがあるからこそ種類の違う光が差す最後のシーンの美しさも際立っているといえよう。



ただし、黒沢清がいくら最初期から再構築の作家であるとはいえ、本作のそれは過去作の縮小版に見えてしまったのは残念でならない。『叫』以降の作品で清々しく傑作という言葉を胸にして劇場を出られたのは『Seventh Code』くらいで、まぁ『岸辺の旅』も大好きだけれど、やはり過去の素晴らしい実績とここ数年の作品を比較すると落ちる。しかも近作でも最低どこか一点は素晴らしいと思う場面があったのだが、この作品は動線の設計や活劇性、ナンセンス、恐怖とどれを取っても突き抜けておらず、その一点においても希薄なのである。この内容ならば、幾つもの作品でやってきたように鳴り物を持ったデモ隊くらい出して無茶苦茶に動かした末に襲撃があったっていいではないか。だが、そういう逸脱さもかなり控えられている。
確かに全体では楽しく見られはするものの、どうもドラマに対し丁寧すぎるのか、長いと思ってしまうのが近作の傾向であるように思うし、また「概念」を奪われた人間たちの反応は単調さを感じる部分があり、もちろんそこに嵌ると映画として危険だというのは分かるが、とはいえ現状も奪う行為のすべてが画面に寄与しているかと問われると、特に2回目からは画面が言葉を越えず、流れの止まる、しかもさしてアイデアのないギャグで終わっているから微妙であって、やはり黒沢清作品としてはこんなもので満足はできない、という思いを抱えたのであった。ただし、怒りによって芯を支える長澤まさみに、セリフのテンポ感と所作で魅せる前田敦子、そして「なんかひどくな〜い」というセリフを放ち去ってゆく恒松祐里の清々しさには拍手を送りたい。

散歩する侵略者 (角川文庫)

散歩する侵略者 (角川文庫)