リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ダゲレオタイプの女』を見た。

幽霊と異邦人

黒沢清監督による、フランスロケ、外国人キャストによるオリジナルストーリーの作品。主演はタハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリヴィエ・グルメら。


パリの郊外に佇む古い屋敷。そこには写真家のステファン(オリヴェイエ・グルメ)と娘のマリー(コンスタンス・ルソー)が住んでおり、170年も前に滅びた「ダゲレオタイプ」という写真撮影技術を再現していた。そこへ、ジャン(タハール・ラヒム)という若い青年が新しい助手として採用された。屋敷内のスタジオで、ジャンは巨大なカメラやモデルを長時間拘束するための固定器具、そして青いドレスを身に纏ったマリーに圧倒される・・・

「列車が到着」するファーストカットに続き、これから仕事場となるであろう家の門の正面へとカメラが回り込むというショットを見て、フランスで映画を撮るということに対しての、あまりに正直且つ律義な段取りに思わず笑ってしまったのだけれど、その門からは人が出てゆくのではなくこれから入っていくことになるので、とりあえずはフランスという郷に従うのだという姿勢が、これらのショットからは感じられる。事実、本作は実にフランスという郷土を見せてくれる映画であって、工事現場から続く道の脇には見慣れぬフェンスが立てかけられており、また坂道を湛える交差点の脇にあるような酒場で若者は集ってビールを飲み、またランチとして牡蠣を食べたりワインを飲んだりしている。車窓から見える風景を横目にしたどり着く、縦に長いアパートのその階段と部屋の狭さは、いかにも日常的な風景である。
しかし門を入った先に佇む写真家の家の中となると些か事情は異なる。古臭く大袈裟なその家にはダゲレオタイプと呼ばれる巨大な写真機とモデルを固定するための拘束具が置かれており、写真家の父親は亡き妻の代わりとして、半ば強制的に娘をモデルにし撮影をしている。これは『顔のない眼』であり、そして屋敷に染みついた亡き妻の影は『回転』であり、つまるところ、ホラーである。だからこの家に一歩足を踏み入れた瞬間からホラーの呼び声は扉の奥から囁くことになるのだけれども、しかしこれら過去のホラー映画を引用せずとも、生と死の狭間におかれた植物たちや、温室へと続く、階段を伴い緩やかにカーブする坂道での人物の動き、揺れ動くカーテン、殆ど廃墟と化しつつある屋敷という空間、工事現場と再開発が予定された土地など、これらの画面上のモチーフは疑いようもなく、黒沢清的な風景である。



そして中盤のある出来事以降黒沢清色はますます強まることになる。そのある出来事とは、青い服の幽霊に誘われたステファンが撮影スタジオにある階段を昇り、次いでマリーも何かに呼ばれたかのように同じく階段を昇ったかと思うと勢いよく落ちてくるシーンである。『トウキョウソナタ』と同じく『風の中の牝雞』からの引用であろうが、事態はそれだけにとどまらず、ジャンがマリーを連れて病院へと車を走らせることによって不穏さはより加速する。マリーを包む布が、後部座席のドアに挟まったことも気付かないジャンは走行の途中でハンドルを取られ停止を余儀なくされてしまい、気付くと後部座席のドアは開き、マリーの姿は消えてしまっている。ふらふらとマリーを探し回り、暗闇の中に何かを見つけるジャンの、その見つける顔を収めたショットの中心に、柱がそびえている。車内を外界と区切るかのような煙にもまして、この画面に不思議にそびえ立つ柱はまさに、黒沢清的画面である。
思えば、冒頭の「列車の到着」の直後には階段を降りるショットがあり、また階段は多くの場面においてその存在感を示しつつ、これまた何度も現れる扉と同じように奥の世界を予感させてはいたが、しかしそういった「縦構図」とは無縁な、ただただ縦に伸びている柱の登場をもって、彼らは取り返しのつかない境地へと足を踏み入れることになる。



その取り返しのつかない領域においては自己模倣ともいえる黒沢清的世界が展開するのだが、しかし中でも気になったのはやはり不気味にそびえる縦であり、そして対応する横である。一体何が縦であり横であるのかというと、それは人物の佇まいである。
ステファンは、娘を失って以降は足取りもおぼつかずソファに寝そべる場面が多くなり、最後には足を取られ土が入っているのであろうポリ袋の上へ倒れ込む。マリーについては、彼女は写真のモデルをしているときから立つことを強制されており、車から投げ出された直後も不気味に、棒のように立っている。そしてそれ以降、彼女は立つと寝そべるを繰り返すこととなるが、ところで劇中において彼女は3度、崩れ落ちるかのようにその場に倒れ込む。一度目は写真撮影の後、二度目は車の事後直後木々の隙間で、三度目は久々に家へと戻ってきた際に、となるのだが、そのいずれの場面にも、ジャンは立ち会っている。そのジャンはというと、彼はステファンともマリーとも違い、横になる彼らに対し縦の軸を作り出している。事実、足がおぼつかなくなりソファに寝そべる男を、崩れ落ちベットに横たわる女を支え、傍に立つのが彼の姿勢である。またマリーが階段から転落した際も、その場に座り込んでしまったステファンに対し、マリーを横抱きし連れ去ってゆく。
とはいえ、ジャンは例えばドライヤーの『奇跡』のように、死に瀕した女性を立ち姿のまま救うこと等できやしない。それどころか、彼も徐々に寝そべりの体勢へと惹かれてゆくこととなり、マリーが三度目に崩れ落ちるその時にはジャンもまた、彼女に抱きかかえられたまま崩れ落ちてゆく。言うまでもなく、マリーが横たわるというのは彼女の死を意味しているのであって、だから事故の後、幽霊となった彼女はジャンの呼びかけがなければ画面に登場できないし、それは寝そべる死者ではなく立ち姿の幽霊としてなのである。ジャンはそのことに気付いていないか、気づかないふりをしているわけだが、この「気付かれない」幽霊と人間の間で成立する愛情といって思い出すのは『叫』であり、『雨月物語』だろう。



しかしながらその愛情の中にはまた別のジャンル映画的要素が含まれており、それは犯罪映画である。ジャンはマリーとの生活を得るため犯罪行為を行おうとし、しかもその行為が無駄とわかったときには銃というアイテムを行使し、無理矢理にでも新しい生活へと向かう。そしてなけなしの希望を胸に車で旅へ出るのだが、これはいかにも犯罪映画らしい展開ではないか。もちろんこれは恋愛する男女の逃避行と非常に相性がいいわけだし、しかしながらジャンについては、おおよそ犯罪的な行為などしそうにない見た目であり、その不慣れさと行為の浅はかさはコメディ的であって、そして女の方は幽霊となれば当然ホラーでもある。このようにジャンルを横断しながら一つの映画空間を作り上げていくその手腕は、やはり間違いなく黒沢清である。
ところで、マリーは何故植物にこだわり続けたのであろうか。一見、植物とそれを取り巻く環境は『カリスマ』的な、一方が一方を食い殺してしまうというよな対立にも見えるが、実のところここでは対立など存在しないのではないか。というのもマリーは、植物を殺してしまうであろう、写真に利用される液状の廃棄物を否定せず、むしろ並存を望んでいたはずなのである。しかし植物が置かれている温室ではかつて母が首を吊っており、時折カーテンの端から窓越しに何かを見つめるマリーの、常に振動しているかのように動き続けるその瞳に何が映っていたのか知る由はないけれど、おそらく彼女はその並存が果たされないことを知っていたのではないか。というのも、ステファンは彼女に「土いじりなどするな」と指摘しており、つまり彼は植物が生きようとしていることには目もくれず、マリーの言うように「生者と死者を混同」した写真にのみこだわり続けていたからだ。そしてジャンもまた実は、植物を軽視してしまっている。彼は結局マリーからの頼みを果たさず植物を枯らし、根の張らない花瓶に入った花を彼女に授ける。結局のところ男たちは女の言うこと何も理解していないがために他者の生を根こそぎ奪ってしまうのだが、マリーの瞳は、そうなることをとうの昔から理解していたのではないか。