もう一年の、4分の3が終わろうというのにいまさら上半期ベストですよ。
というのも、とにかく気力の湧かない日々が続いておりました。やりたいことはあるのにはじめの一歩が踏み出せない。せっかくの休みも気づけば深夜になって、なにもしていないことに焦り外出してみるも、やれることといえばドライブしかないのが田舎。片道1時間ほどかけて到着した牛丼屋では、人手が足りていないのだろう、テーブルのあちこちに食器が放置されたままで、客はほとんどいないというのに、なんだか陰気でごみごみとしていて圧迫感があった。ようやく見つけた空席には、牛肉の切れ端が落ちていた。そんなこんなで、毎日「失敗したな」と落ち込む日が続いていたのです。
そんな私とは当然無関係に映画は存在している。そしてそれが嬉しくもある。というわけで本題。上記のような状況ゆえ見る本数は減ってしまったうえにもう9月にもなってしまったけれど、とりあえず上半期に見た旧作で面白かったものを感想とともに列挙します。
『ファントマ対ジューヴ警部』(1913)
まだまだカメラ位置が限定されているとはいえ、1作目に比べ活劇性がかなり増しており楽しい。街並みの風景から列車アクションへ至る流れ、あるいは酒樽に隠れての銃撃戦の画面力など素晴らしいし、荒唐無稽というほかない貯水槽のかくれんぼなど、ただただ楽しい。そしてなにより「さらばだ!法の番人の諸君」というセリフとともにポーズを決めて劇を閉めるファントマの、超悪な感じに爆アガり。
『ある機関助士』(1963)
ごうごうと煙を上げ走る蒸気機関の迫力。あるいは機関士たちの日常的な風景の、不思議と強力なショットに驚く。例えば、音声としては線路への飛び込み自殺について語られるシーンでもカメラに映るのは昼寝する男の腹や、髪をゆっくりとかきあげる動作なのだ。これがなぜだか魅力的。さらに後半は定時からの3分遅れを取り返すタイムリミットサスペンスへと変貌。機関士たちがほぼ手の動作によって現在の遅延状況について会話する切り返しが最高すぎる。途中挿入される踏切のショットも、黒くでかい塊が目の前を猛スピードで走り抜けることの迫力に満ちていて驚かされる。スピルバーグの『宇宙戦争』を思い出しもしこの人が怪獣映画を撮ったならどうなったかと、ふと妄想してしまうほどだ。
『殺人捜査線』(1958)
ドン・シーゲルの中でも傑作じゃないか。ジャガイモ顔の狂暴なイーライ・ウォラックと、死に際の言葉をコレクションするロバート・キースの殺し屋コンビは『殺人者たち』の二人よりも魅力的。また長い沈黙の果てにポツリ「…お前は死ぬ」と発する車椅子の男も忘れ難い。この男とイーライ・ウォラックの対照的な動と静、または顔つき・目つきの切り返しが白眉。この時、二人の背後にはスケートに興じる若者たちの姿が見える。このスクリーンプロセスの背景によって、不気味な男のまるで堰のような存在感と、自動的に「滑り落ちる」アクションが際立つ。ちなみに本作と『殺し屋ネルソン』には、ともに動く車へと発砲し窓ガラスが割れるという描写があって、この弾痕がまたかっこいい。
『風』(1928)
「映画千夜一夜」の表紙でもおなじみのヴィクトル・シェストレム監督による伝説的作品。なかなか見る機会を得られなかったけれどまさかのDVD発売。コスミック出版さまさま。冒頭から想像を超えるすごい風、風、風の災害ホラーで、ボロ小屋の夜などは、牛があばれ、戸板は外れるわ窓は割れるわ、火事になりかけるわランプの揺れが錯乱を誘うわの大惨事。リリアン・ギッシュの簡単に吹き飛ばされそうな身体と動き、そして表情が見事で、「ポーズの天才」と評した淀川長治の言葉にもなるほどと納得させられる。さて最も感動したのは砂に埋めた男の死体が暴風によって徐々に地表に曝されるシーン。この恐ろしい事態を窓越しに眺め、恐怖に慄くリリアン・ギッシュの大きく見開いた目、あるいは手の動きはやはり素晴らしいけれども、ここでは彼女の口が窓枠によって隠されていることが非常に印象的で、サイレントであるということを超えて、声にならない恐怖がまさしく画面として示されているようだった。
『妖女ゴーゴン』(1964)
画家のアトリエから古城へと続く道には、階段をはじめいくつもの、あまり高低差のない段差が登場し、くだり、のぼりを繰り返してあの素晴らしい、ゴーゴンが待つ荒れ果てた広間、これも決して高すぎない、『吸血鬼ドラキュラ』と比較してもさらに低い階段のある広間へとたどり着く。あまり大きいとはいえないセットにあって、この微妙な高低差が画面に動きをもたらし、それは怪物の首が落ちるまで利用される。さてその怪物ははじめ暗い柱の背後にほとんど影のようにただ居るだけで、姿を一目見せた後も獲物を深追いせず消えてゆく。この点については黒沢清が「一番怖いものはほとんど動かない。人間のほうが動いて、つい、それに鉢合わせてしまう」と「黒沢清の恐怖の映画史」の中で述べ、それに応えて篠崎誠は『花子さん』を連想しているが、今となると微妙な段差が『クリーピー 偽りの隣人』も想起させる。近すぎも遠すぎもしない、微妙な距離がいいのだ。
『バタアシ金魚』(1990)
豊かな夏の風と夜の光が心地よい優れた風景の映画。登場人物の背後を横切るモノレールであるとか、あるいは自転車に乗った高岡早紀と大寶智子の髪を不意に揺らす風、またはそういった緩やかな動きをもつ道が気持ちいい。歩く姿がそれだけで見ごたえのある画面になっている。加えて、筒井道隆と高岡早紀の顔が魅力的な映画でもある。特に筒井道隆はエキセントリックさを表情で伝えられており、なるほど高岡早紀が彼とぶつかり合うとしたら私服や制服でプールに飛び込むしかない。「いかれてる」「愛してるぜ」という爽やかな幕切れも素晴らしい。さて彼らの表情と視線のやり取りは、編集と人物配置もまた見事なレストランのシーンで最高潮に達する。道と視線。なるほど次作『きらきらひかる』に通じる要素じゃあないか。ちなみに松岡錠司監督は『トイレの花子さん』も鑑賞。トレイで襲われるシーンのアクション/カットが最高な佳作であった。
このほかには、水面の揺れるタイミングまで恐ろしい、異常な緊張感に満ちた視線劇『ゲアトルーズ』が戦慄の傑作で忘れ難く、最後、ドアの向こうには誰もいないような気すらした。ドライヤーの中でもかなり好き。『川崎競輪』の死と金の話をしては散り散り帰るおじさんたちが、いつのまにか顔見知りに思えるような感覚も楽しかった。前田満州夫監督『落葉の炎』『殺人者を追え』はどちらも撮影が素晴らしく、壁を這う手やズボンの裾にはねた泥など細部が光っているが、どちらもミソジニーの感覚が強いのは不思議ではあった。高橋洋監督『彼方より』にはこんなやり方があるのかと驚かされたし、ちゃんと怖くて最高。新作『ザ・ミソジニー』も楽しみにしているが、そもそも公開されるのだろうか。
フォードは勿論、せっかく地方でも公開されたアケルマンでさえ見られず、さらにまた、ありきたりな作品ばかり並んであまり数も多く見られていないことがよくわかる更新となってしまいましたね。未だ状況は改善されていないけれど、少しは楽しく生きたいもんです。というわけで次回更新時にまたお会いしましょう。