リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ウエスト・サイド・ストーリー』を見た。

香りまでは変わらないわ

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1957年に上演された『ウエスト・サイド物語』2度目の映画化。監督はスティーブン・スピルバーグ。アンセル・エルゴード、レイチェル・ゼグラー、アリアナ・デボーズ、マイク・フェイスト、デヴィッド・アルヴァレスらに加え、ロバート・ワイズが監督した61年版でアカデミー賞を受賞したリタ・モレノも出演。

 

 

1950年代、ニューヨークマンハッタンのウエストサイドでは、互いに若い移民によって構成されるジェット団とシャーク団が激しく対立していた。ある日、ジェット団の元リーダーであるトニー(アンセル・エルゴード)は偶然訪れたダンス会場で美しい少女と出会い恋に落ちる。マリア(レイチェル・ゼグラー)という名の彼女はしかし、シャーク団リーダーの妹で・・・

 

 

70歳を超えたスピルバーグの新作が『ウエスト・サイド物語』の再映画化だと聞いて、なんて面白みのない企画だろうと落胆した。出来を不安に思ったわけではない。『宇宙戦争』を近代史の作家にふさわしい方法で驚くべき傑作として甦らせているのだから、おそらく面白い作品にはなるであろうとの予想はできるしもちろん期待もする。しかし、それにしたってほかにやるべきことがあるはずだと思わずにはいられなかった。そんな相反する感情を抱えたまま鑑賞したわけだけれども、いやはやなんと、想像を超えてすごい作品ではないか。

 

 

都市開発のため解体されるスラム街の残骸が映し出される冒頭。埃が舞い裏道はゴミだらけのこの街では、ヨーロッパ移民とアメリ自治プエルトリコ移民の若者が争っているが双方とも貧しく、しかも都市開発に伴いいずれ退去を命じられる運命にある。都市開発の余波は61年ロバート・ワイズ版にもある要素だ。がれきの山や薄汚れた路地裏はもちろんのこと、リーダー同士の決闘が行われるのは都市開発と同様に整備がすすめられた州間高速道路の下で、これは交通網の整備により、車を持たない彼らの、歩道文化が破壊されつつあることを意識したのだと思われる(こういった都市の変革については大久保清朗さんが紹介していたマット・ティルナー監督『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』に詳しい)。スピルバーグはこの部分をより前景化した。そこかしこで建物が破壊されその残骸を晒す風景は『プライベート・ライアン』さながらで、今まさに居住区を破壊されている彼らはいわば、難民化しつつあるといえる。今回初めて挿入されたプエルトリコ国家「La Borinqueña」が、まるで戦争映画かの如く響く。 

また子供が歩道に書いた落書き、61年版では避けるように歩いていた落書きを、今回ジェット団は全く気にかけずに駆け抜けかき消してしまう。これは些細な違いではない。というのも『ウエスト・サイド物語』では壁の隅々に誰が書いたか大小さまざまな落書きがされており、一方ではAL WOODなる人物(名前はアレン・K・ウッドからの拝借だろう)への投票を呼び掛ける、おそらく皮肉なのではないかと思われるポスターが、ところせましと貼られていた。だが落書きを書いたりポスターを張るような壁は破壊され存在感はかなり後退し、一部プラカードなど人的なものに変化するなどすっかり追いやられてしまっている。2つの作品の比較したとき、公共の空間から後退した場所での会話が増えているのも関係しているかもしれない。

スラムは徐々に解体され、残る人々もいずれは消えていく運命だ。ジェット団のリーダー・リフ(マイク・ファイスト)は「自分たちのことなど誰も気にしない」と、ビルの破壊により埃まみれになった倉庫でつぶやく。さてこの埃は変奏されながら何度も画面に登場する。地面に書かれた落書きもその一つであろうけど、例えば「cool」でリフとトニーは、川にせり出す、穴の開いた廃屋にて砂埃を巻き上げながら拳銃を奪い合う。ジェット団とシャーク団の決闘が行われるのは、市の衛生局によって管理されている融雪のための塩の倉庫だ。新しい生活を夢見て「I Feel Pretty」を歌うマリアは、自分では買えない洋服を売るデパートで清掃員として働いている。ここでは自らの置かれた環境からの脱却が語られるけれど、実際にできるのは小さな集団の中で身の回りの塵埃を蹴散らす程度のことだから彼ら育てた大きな環境から逃れることはできず、結果ピカピカに磨かれた床をおぞましい行為で汚すまでに堕ちてしまう。スピルバーグが強調したのは、都市開発によって蹂躙され負の連鎖に陥る移民の近代史である。

 

 

ミュージカルシーンも大きく異なり、61年版ではまだ保たれていた、「本当らしくなさ」が生み出す優雅さは影を潜め、ほとんどアクションシーンへと変貌している。またヤヌス・カミンスキーの光と複雑な動線の中で引いたり寄ったりよく動くカメラ、その動きや視線を誘導するマイケル・カーン及び『タンタンの冒険』から編集補佐として活躍してきたサラ・ブロッシャーによる編集のスタイルに大きな変わりはなく、画面はスピルバーグ「らしさ」に満ちている。だから本格的なミュージカルは初めてでも全くの新機軸という感じはせず、例えば「mambo」の対立するダンス。一つのカットの流れの途中で画面両端に突如入り込んでくる横顔のアップであるとか、あるいはトニー、リフ、ベルナルドによる三角形の構図などは『シンドラーのリスト』『ロスト・ワールド』『ペンタゴン・ペーパーズ』等見慣れた画面で、そこかしこに過去作の記憶が宿っている。

それが悪いという話ではない。「らしい」といっても『インディ・ジョーンズ4』のような遠慮がないカミンスキーのミュージカルはやはり新鮮ではあって、ほとんどの場面が前作より好きなくらいだ。特に「cool」のどこかエロティックでもあるアクションダンスは上に突き上げられた拳銃から『宇宙戦争』を想起させもする大変すばらしい改変だと思う。

 

 

けれども一方でやはり、わざわざこの再映画化に時間を使わなくてもという思いを完全には捨てきれなかった。その理由はミュージカル以外のシーンで「らしさ」を感じる部分、特に銃をめぐる二つのシーンにある。

一つめはリフが銃を買うために訪れる、黒い黒い陰にたばこの煙が映える酒場の場面。銃の重たい音が響くこの不精な大人の空間にはそれまでと質の違う暴力が垣間見え、また若く線も細いリフの危うさがその顔つき、殊に目に表出するとてもいいシーンだが、しかし同時に、急に違う映画が始まったのかと思うような異質な感じもする。そしてこの異質さこそ最も見たい内容、ノワールに接近している。他にも、トニーとリフが倉庫で会話する場面での目を強調する照明や、『プライベート・ライアン』や『リンカーン』同様、正体や境界を曖昧にするカーテン=国旗も、ややパラノイアックな画面といえるだろう。

もうひとつはエニバディス(アイリス・メナス)がシャーク団のたむろするボクシングジムへ忍び込み、逆上するチノ(ジョシュ・アンドレス)を目撃するシーンである。ここもやはり非常に暗い画面で、さらにいかにもスピルバーグらしい「かくれんぼ」のサスペンスが行われている。隠れ、目撃することはわざわざ個別の例を挙げる必要もないと思われるほどよく出てくる行動であって、またエニバディスがそのことをジェット団に伝えなければと振り向く瞬間の顔。これが実にスピルバーグらしい表情をしていて画面への収まりもいい。これらのシーンを見ると、やはり誰もが知るミュージカルの再映画化より、もっと刺激的な作品に手を出してほしかったと思わざるを得ない。

 

 

スピルバーグの次回作は自身の少年期から青年期を着想とする半自伝的な映画だという。それ見たいか?フェリーニかよ。まぁ、そう言いつつも公開されればまたよだれを垂らして喜び映画館へ駆けつけ、なんだかんだと楽しむのだろうとは思う。後進的なファン感情なのかもしれないが、そういうもんだ。