リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を見た。

割れたタマゴ
ニューヨーク・タイムズによって暴露された政府の最高機密文書=「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる実話の映画化。メリル・ストリープトム・ハンクスボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツらが出演。監督はスティーブン・スピルバーグ


ベトナム視察から戻った軍事アナリストのエルズバーグ(マシュー・リス)は「ベトナムに対する政策決定の歴史」と書かれたトップシークレット表記の資料を持ち出し、その資料の一部がニューヨーク・タイムズによって報じられた。ワシントン・ポストの編集主幹・ボブ(トム・ハンクス)率いる記者たちも文章の入手に動き出し、ボブはかねてより国防長官のジョー・マクナマラ(ブルース・グリーンウッド)と親しかったワシントン・ポスト社社長のケイ(メリル・ストリープ)に、文章を渡してくれるよう説得を頼むものの、機密保護法違反であるからと拒否されてしまう。数日後、ニューヨーク・タイムスは罪に問われ、発刊差し止めを言い渡された。時を同じくして、ポスト社も資料を手に入れるのだが・・・

冒頭で映し出されるベトナムの森が、思いのほか『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』に似た夜であったことに懐かしさと嬉しさを感じたのだけれど、考えてみれば丁度その辺りからスピルバーグカミンスキーのタッグによる作品の方向性は定まってきたのであり、しかもそれは画面の効果としてだけではなく、戦争の歴史という題材にまで及ぶ変化であったはずで、事実それ以降の作品では2つの大戦、黒人奴隷、テロリズム、冷戦という題材を中心としつつ例えば難民という主題をそれ以前よりも多く撮っているわけだし、そしてついにベトナム戦争を扱ったことによって、いよいよスピルバーグも近代史作家としての存在が強固になってきているのは間違いないだろう。



そんな近代史作家としての作品群を支えたカミンスキーの撮影としては今回、人物の動きを流麗に捉えるショットが目立っている。いうなれば限定的な空間であるオフィス内を人物はひたすら動き回り、たとえ物語上の動きは一方向であってもそれを動きが入り乱れる空間全体の中で捉えることにより、画面は豊かに活気づくのである。また新聞社への出入りを背中から捉えて追うショットでは一人だけを追うのではなく、入る人と出る人がそれぞれ別であろうとも一つのショットの中で捌き、また伝達物や情報が人から人へ繋がっていく様子もカット割らないため、心地よい流れで見続けることが出来る。
このように彼らが動き続けるのは地位や名誉からではなく、真実を暴き出し伝えるという新聞記者としての性質からだ。だから本作は、隠されていたものが、もしくはバラバラだったものが繋ぎ合される場面が多く出てくる。隠されているのは勿論機密文章なのだけれど、それは時には引き出しに、時には箱に入っており、時にはページがバラバラになっており、さらに空すらも舞う。彼らはそれらを繋ぎ合わせ、新聞記者としての性質ゆえに、情報を国民の下へと戻すのだ。この性質を「あるものをあるべき場所へ戻す」と言い換えれば、それはまさしくスピルバーグ作品、例えば『レイダース 失われたアーク』にも『E.T.』にも『ロスト・ワールド』にも、数え上げればきりがないほどに何度も登場してきたモチーフである。



ところでカメラの動きといえばもう一つ、人物の周囲を回り込むカメラの動きも忘れ難く、それはむしろ人物の動き自体はあまり多くない時に見られるのだが、例えばケイとマクナマラが会話をするシーンでは、丸テーブルを挟んで対峙する2人の背後をカメラが回り込むように動いている。そしてこのテーブルというのは、本作において一つ重要な要素なのではないか。というのも、本作の主人公たるケイは記者たちと違うリズムの人物であり、その社会的立場から落ち着いた席での会話が必然的に多くなるのだけれど、その際に彼らが囲むテーブルの位置関係、もしくは立っていることと座っていることの関係が面白いのである。例えばベンとコーヒーを飲みつつ仕事についての対話をする場面において、二人は対面こそしていないが隣り合うという距離でもない。取締役会議でケイは一人でスーツの男に囲まれるような雰囲気で席に着くこととなる。フリッツとは机を挟んで立場こそ上下の位置関係だが、目線は別だ。株式公開の場でケイは扉を開いて単身男たちの社会の中へと階段を上り、彼らに向けて上から話しかけるための席へと着く。そして既に述べていたように、マクナマラはその関係性の揺らぎから対立する位置となり、更に上から物申される。これらの、テーブルを挟んだ関係性が最も視覚的興奮を伴って表出するのは、機密文章を掲載するかどうかを決める場面でああろう。
ここでは電話というアイテムを、緊迫感のある細かいカッティングによって効果的に登場させているのだが、ただ電話を介し話すというだけではなく、視線設計によりベンとアーサーがケイを挟んで対立しているかのような、まるで空間的な隔たりなどないかのような演出がなされている。そしてケイの周りをカメラが回りだすと益々一堂がそこに会しているかのようでもあり、意見の噴出する卓の中心に、彼女が孤軍として一人立たされているかのような錯覚を起こさせるほどだ。勿論、本作は激しくも綺麗に情報が整理された会話劇としても一級品であるがゆえに、このシーンは白眉として一つのクライマックスを迎えている。
本作でのケイは記者たちとも他の経営陣とも違い、その経歴ゆえに「あるものをあるべき場所へ戻す」性質に揺らぎがある。だからこそ彼女は中心で孤独に決断することを強いられるのであるし、その決断の重さに感動するのだ。このような決断のシーンはもう一度繰り返され、そこでもやはり席に着く彼女を役員や弁護士らが取り囲んでいるものの、やがて席を立ち背を向けて言葉を発するその時、そこにもう揺らぎはない。はじめ、ケイの前に開かれた道はなく、男たちが壁のごとく立ち並んでいたわけだけれども、自らの決断によって道を作り出したということが、最後には視覚的に認知されることとなる。



一人の男が持ち込んだ事実を一つの新聞社が暴き立てる。その灯を絶やさないようにと連日の報道が引き延ばす。無名の女性が引き延ばす。社を超えて引き延ばす。無数の信念が一つの決断によって広まる。発行という希望が機械の振動を伴って画面に表出する。多くの作業員のつながりを経て事実が知れ渡る。広まった灯が更なる光となる。この過程は、一つの室内を捉えた長回しが多用される前半から無数の空間を繋ぐ編集へと移行する後半という、画面上の移行によっても理解できるだろうし、巨大な機械が延々と動き続ける様子からも連鎖のモチーフを見受け取ることが出来るだろう。そしてさらにこの作品は『大統領の陰謀』へと映画史を遡って連鎖しさえもするのであって、近代史から現在へ、映画から映画へと繋ぐその丹力にも恐れ入る。傑作。

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最近見た旧作の感想その34

悲しみは空の彼方に(1959)



公開から59年も経つこの作品が未だ色あせぬ傑作として存在していられるのは、現代にも通じる黒人差別問題をはらんでいる、つまりは今日的な要素を含んでいるから・・・などという理由によってではない。もしそうであるとするならば、仮にその今日的要素が解決した暁にこの作品は過去のものとしてなってしまうのだろうか。断じてそんなことはない。では2組の母娘によって語られる物語が、時代を超えた普遍性を持っているからだろうか。確かに、母娘のすれ違いや、夢と愛の狭間で揺れる物語は時代を超えて胸を打つだろう。しかしこの作品がもたらす感動は、そんなストーリーだけで片付けられるほど狭い範囲に留まりはしない。では一体何が素晴らしいというのか。それは歴史や言語や知識より広く開かれている感性、つまり、単純かつ強固な、美しさこそが、この作品を永遠に色あせぬ傑作たらしめているのである。




一体何がそんなに美しいのかというのは、冒頭のビーチにおけるカラー設計から既に感じ取ることができるだろう。色とりどりの風景が広がり、娘を探すラナ・ターナーの不安げな足取りをカメラが捉える。彼女はここで写真を撮っているジャン・ギャビンにぶつかり、娘を連れたファムタ・ニーアとすれ違う。この手さばきがまた心地よいのだが、しかしこの場面ではもう一つ注目したい要素があって、それは主要人物たちとの出会や物語の進行とは無関係に、画面の前後横を多くの人物が通り過ぎているということである。彼らは、画面に色を与えるというにしてはあまりに縦横無尽に動き回り、ラナ・ターナーらとすれ違い続ける。このすれ違いというのはその後も多くの場面で描かれており、直後に舞台となる狭いアパートの中でも、扉や廊下を駆使しつつ繰り返されている。この狭いアパート内での空間の広げ方や色使いに加えて照明による黒の出し方も非常に見応えがあり、ダグラス・サーク監督、ラッセル・メティ撮影によるカラー作品を見る喜びを存分に味わえるわけだが、ここではすれ違いという要素に注目したい。なぜならばこの作品は人物同士が、彼らの思いがすれ違うメロドラマをこそ描いているからである。



さて、はじめに観客がそのすれ違いをはっきりと目撃するのはファムタ・ニーア演じる母親が娘の忘れ物を学校に届けに来る場面であろう。黒い肌のファムタ・ニーアと白人との間に生まれた、白い肌の娘は母のことを知られたくなかったのに、教室へと訪ねてこられる。衝動的に学校を飛び出すと、画面左下には赤いポストが置かれている。雪降りしきる学校の外に置かれたこの赤が、あまりにもその色を主張しているなと思うと次の母娘のショットでは、またもや画面左下側に今度は赤い看板が設置されている。しかも母は、手に赤い靴を持っているではないか。
他のシーンも見てみよう。続く、ジャン・ギャビンがラナ・ターナーにアパートの狭い廊下で求婚するシーンでは、一旦は互いの思いが通じ合いかけるも、女の下へ急に舞い降りた女優の仕事に対し、男が反対することで結局は離れ離れになってしまう。このシーンでの二人の顔にかかる照明の変化も見所ではあるが、狭い廊下で会話する二人の間をすり抜ける男が、赤い荷物を持っていることにも注目すべきであって、ここでまたもや、思いのすれ違う二人の間に、赤が差し込まれているのだ。
時は過ぎ、二人の娘が大人の女性へと向かう年頃になっても赤はたびたび登場する。家を飛び出したファムタ・ニーアの娘(スーザン・コーナー)がキャバレーで働いていることを母に知られる場面では、赤い蝋燭が画面手前に配置されているし、さらに母が黒人であることを理由に路地で彼氏から暴力を振るわれるシーンでは、「FOR RENT」という看板の他に血によって赤が見せられる。この突然かつ相手を非情に突き放すような暴力シーンはジャズも相まって衝撃的であるが、もう一つ見逃せない要素として、鏡がある。この場合、ショーウィンドウの反射が鏡の役割を果たしているわけだけれども、この鏡というのはそれまでも、そしてそれ以降も、ほとんどの場合登場人物が隠し事をしているときに画面に登場しているのだ。特にスーザン・コーナーが「あなたの娘じゃない。私は白人よ、白い、白いの。」と鏡に向かって言いながら泣き崩れる母娘最後の会話シーンは、そういった画面の見せ方によって言葉や状況以上の感動をもたらしているし、やはりここでも赤で縁どられたカバンが登場するのである。



このように、物語を画面によって牽引してきたファムタ・ニーアの葬式で、この映画は幕を閉じる。ここでは、白い花の彩られた棺が出棺されるその時、喪服に身を包んだスーザン・コ−ナーが走り寄ってくる。このシーンが感動的なのは、何よりその色によってなのだ。根底に悲劇を持ちつつも美しく捉えられてきたすれ違いのドラマは、この色の変化によって結末を迎えるのである。だからこそ本作は問題意識や言語で説明できる範囲を超えて感動的な映画だと言えるのだ。勿論、今まであまり述べはしなかったがラナ・ターナー側が持つ成功物語の代償としての母娘の葛藤や女優を美しく見せようとする執念にも感嘆するし、また『天が許し給うすべて』に代表されるような窓と雪の美しさも忘れるわけにはいかないが、本作で僕が最も感動したのは何よりその色の物語である。というわけで紛れもない傑作、と述べて終わりたいところではあるものの、最後にひとつだけ付け加えたい。私生活で8度結婚したというラナ・ターナーは、この作品の前年に愛人を殺されている。犯人は実の娘であった。その事実が、そもそもリメイクであるこの作品に対してどこまで影響を与えたのかはわからない。しかし、ヒロインの職業を女優に変えたのは意図的であろうから、それを踏まえるとこの作品に対して新たな角度を見出せるのかもしれない。

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最近見た旧作の感想その33〜2017年下半期旧作ベスト〜

皆さんあけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。
さて、早速ですが、昨日の新作ベストテン記事にも書きましたように、2017年下半期に見た旧作の中で特別面白いと思えた作品について、一言程度コメントを添えつつ、紹介したいと思います。並び順は単に見た順というだけです。ちなみに、昨年の旧作鑑賞数は202本でした。また上半期ベストについては<こちら> をどうぞ。



四川のうた(2009)
閉鎖される国営工場で働いていた人たちへのインタビューを行うドキュメンタリー。いきなり『工場の出口』のごとく押し寄せる人の流れの、その数の多さに驚き、またインタビューは常に窓を背にしながら鏡などを配置しながら行われているのだが、そこでは赤から白への移行、そして奥の存在などが周到に用意されていて面白い。例えば鏡に反射した窓の、外では赤い布が揺れているというようなことがふと気になってくるのである。そして素晴らしいのは赤い服を着た少女がローラースケ−トで屋上を滑走している動きであって、ここまでそういった自由な動きが封じられていた分、この軽やかさが感動的である。

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美女と野獣(1946)
ジャン・コクトー版。光と闇の、素晴らしい怪奇映画。霧の森を抜けた先にある屋敷ということで、『アッシャー家の末裔』と似た部分を持つが全然違う。例えば移動を捉えた撮影で見ると何より目を引くのはベルが屋敷に入ってきたときのスローモーションであって、こういったスローの使い方とその場面でのベルの身振り、これが本作は素晴らしいのである。もちろん怪奇としての屋敷描写も最高だし、また僕の大好物である布の揺れもやはりキマっている。そしてこういった要素が最高の密度で混ざり合う最後の飛翔シーンは、忘れ難い美しさを誇っているのだ。

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『按摩と女』(1938)
冒頭からなんとも清水宏監督っぽいなぁと思う歩き姿で既にもう面白いのだが、舞台が温泉宿へと移るとカメラは時折旅館の内部を捉えるように斜めや横に移動し、人物のタイミング良い動きの素晴らしさを堪能できる。男と別れた高峰三枝子が傘をさして川にかかる小さな橋を歩くシーンとバストショットも感動するほどに美しいが、最高なのはその高峰三枝子が按摩を追わせては逃げてを繰り返す場面の切り替えしであって、ここでは按摩を主人公にしたことによって、本来見えていない、見えることのないものを映画によって見せるということに成功しているように思う。

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台北ストーリー』(1985)
冒頭の窓に始まり、四角形をフレーム内の基本図形とした画面の構成が最後まで続いており、そこに光の反射、光源の点滅といった照明の感覚と変化が加わり、美しというか、何か凄いとしか言えないような興奮をもたらしている。物語は殆ど説明がなく、しかも何か劇的なことが起こるわけでもないのにこんなにも面白いと思えるのは、この純粋な画面の力によるのだろう。特にフジフィルムの看板やバイクで出かける夜のシーンに出てくるネオンは涙が出るかというほどだ。開けた海のショットは意外で驚いたが、色としては青と緑がずっと根底にはある。

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『燃える平原児』(1960)
ぽつんと建つ一軒家と、そこに広々と伸びる大地の中/外感覚に見応えがある。そしてこの感覚はインディアンとの混血児であるプレスリーを中心とした複雑な事情を持つ一家の物語とも当然関わりを持つのであって、ラストの兄弟の対話は二人の位置関係、というか背景との関連性によってまたこの感覚が際立つではないか。しかし何といっても母親を探しに外に出たときの異常な強風。これが厳しくもまぁ美しい。



『現代やくざ 与太者仁義』(1969)
『現代やくざ』シリーズといえば深作欣二による傑作2本があるけれども、それ以外の作品も簡単にレンタルできるようになっていたので鑑賞。その中ではこれが1番良いのではないかと思う。特にロケーションと美術が素晴らしい。例えば海沿いに連なるボロ小屋と、その海辺で殺される男の画。ここでは殺しにやってきた黒いスーツのヤクザ達が、見事にその姿を鏡面となった海に反射させているのがカッコいい。また最後、一騎打ちの背後で赤白青に点滅するブロック状の壁も見た目として楽しいし、更にその場面に至る直前では、壁に掛けられた絵が燃える中、人物の動きに合わせカメラが横に移動するという鬼気迫る感覚を感じさせてくれたりもする。ちと画面が暗いこと、そして『やくざ絶唱』でも思ったことではあるが、田村正和はこういうジャンルに似合わないのが残念ではある。



『見えざる敵』(1912)
二つの部屋を中心に展開する短い作品ではあるが映画的な見所に満ちており、例えば草木を揺らす風の強さ、穴と拳銃、車と橋などの要素によって映画としてしっかり楽しめる。特に小さな穴から出てくる拳銃の、その出方が良い。画面に向かって、ゆっくりと伸びてくるのだが、まるで見つけた獲物を確実にしとめるため忍び寄るようなスピードで観客に迫ってくるために、不気味なのだ。そしてそれを見たリリアンとドロシーのギッシュ姉妹のリアクションによってスリルとサスペンスが増幅される。ちなみにおそらくこれは姉妹百合萌え映画としても最古のものでしょう。

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『死神の谷』(1921)
映像表現の楽しさが詰まっている。冒頭、死神頂上シーンでの風と砂。階段や円・半円による高さの表現。ロングショットで示される孤独な存在感等々であって、特に死神が築いた壁の、圧倒的に人を寄せ付けないであろう威圧感であるとか入口の裂け目に無数の蝋燭が並ぶ部屋は最高で、これらの映像の、連なりが良いのだ。3つ出てくる舞台だと中国パートが抜群に面白くて、特撮の見どころも多い。また物語では「もう神に従いたくないんだよね」と零す死神や、夫の代わりに死ぬ人を探すヒロインというのも面白い。

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以上が2017年の下半期旧作ベストでした。他にも『ビッグ・ボウの殺人』や『オキュラス/怨霊鏡』『アスファルト・ジャングル』『幸福の設計』『春桜ジャパネスク』なんかが面白かったですね。上半期の豊作っぷりに比べると下半期はやや好みの作品と出会う率が低くなってしまいました。僕は色々片っ端から見ていくというような気力が備わっていないため、どうしても決め撃ちでソフトを買おうと考えてしまいがちなんですけれども、下半期は資金が尽きた、ということもあります。2018年はもう少し考えて行動したいですね。無理でしょうが。
さて、ここ数年は本を読みたいということも目標にしており、その点今年は多少マシという感じですが、まだまだ未読本が罪あがっている状態なので、やはり今年もその目標は継続していきたいと思います。ブログの更新頻度についてはホントに改善したいですね。新作だけでなく旧作も、短かろうが少しは書けるようにしたいです。というわけで皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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今年の映画、今年のうちに。2017年新作映画ランキング

年の瀬でございます。というわけで今年もやります。2017年に見た新作映画ベストテンということで、今年鑑賞した新作81本全てに順位をつけます。尚、新作の基準としては基本今年劇場公開となったものとしますが、地方の場合都内とはタイムラグがありますので、僕が利用している映画館で新作として公開されたもの、とします。ただし『台北ストーリー』はリバイバルとみなします。NetflixやDVDスルーも一部入っていますが、今年初めて日本で見られるようになったものは入れることにします。前置きが長くなりましたが、まずは次点とベストテンから発表します。一応、ベストテン内の作品で個別に記事を書いている作品はリンクを載せておきます。




次点 PARKS

トリュフォー『あこがれ』かと思うような自転車と公園の風景からカメラが上昇する冒頭を見て、これは傑作かもしれないと思ったのですがその後はどうも細かくアクションを断ってしまう編集が惜しく、また中盤以降は物語の曲者ぶりの前に動きが抑えられ、公園という場所の描写も薄くなっているのが残念でした。しかしそれでも空間時間に対し平然と嘘をつくところは良いし、何より永野芽郁橋本愛がすこぶる魅力的であって、ラストはまんまと泣かされてしまいました。瀬田なつき監督作品は今まで見たことありませんでしたが、今後は必ずチェックしようと思います。



10位 エイリアン:コヴェナント

ミルトン、メアリー・シェリー、ワーグナーなどの引用から、鑑賞直後は「なんだか『プロメテウス』に比べて真面目だな・・・」と少し落胆していたのですけれども、思い返せばリドリー・スコットが最も得意とする湿度の高いSFビジュアルは見事だし、ピカレスクロマンとしても面白いし、また2回も血で滑って転ぶとか、種類豊富な人体破壊であるとか、そして何より新しい縦笛の活用方法などなど、思い返すと笑みがこぼれるシーンはたくさんあるので、きっといい映画なんだと思います。ただエイリアンの存在を矮小化させてしまったのはやはり許せん。



9位 哭声/コクソン

確かに長すぎるきらいはあるし、真相を有耶無耶にしたままにも見えるようなやり方は上等とは言えないと思います。ただ僕がこの作品で好きなのは小難しげな部分ではなく、とにかくハッタリが効いていることなんですね。例えば雷の直撃や裸の人食いおじさん、それに祈祷師等々ですが、こういった要素はそれ単体としてではなく、外部を印象付けているという点においても効果的でしたね。あとはやっぱり森と殺人の相性の良さ、そしてオカルト感が好みでした。
<感想>



8位 アウトレイジ 最終章

アウトレイジ』シリーズは北野武監督作の中でも特に好きな作品群で、3作ともそれぞれの面白さを持っていると思いますが、今作は最も北野武らしい作品でありつつしかし同時に新しくもあるという点が嬉しく、異色作でもあった『アウトレイジ』の反動としての素直さを感じもしました。話は少しずれますが北野武作品における食事シーンというのに特化して見返してみるというのも面白いかもしれない、とも思わされる一本でしたね。
<感想>



7位 予兆 散歩する侵略者

近年の多作ぶりは非常に嬉しいのだけれど作品の出来には満足しきれなかった黒沢清監督作品において本作の、特に序盤は画面の興奮度が非常に高かったですね。東出昌大の吸血鬼的存在感も素晴らしく、黒沢清監督作は過去作の集積の上に成り立っている部分が大きいとは思いますけれども、新しい地平を開くとしたらそれは役者の魅力によるところも大きいでしょうし、近年の傾向でもある女優の映画としても良かったと思います。難点としてはやや長く、染谷将太の存在が説明的とも思う、ということですが、まあ十分楽しかったですよ。
<感想>



6位 パターソン

ジム・ジャームッシュ監督作は今まであまり好みではなかったんですけれども、本作はかなり楽しめました。殆ど同じような毎日がショットや会話の差異、「対」によって些細にズレ、広がり、韻を踏むことで画面が充実し、バス運転手というやや離れた視点から世界を再構築していく様が非常に心地よかったです。ただしこれは只心地良いというだけではなく、アダム・ドライバー演じる退役軍人パターソンは家や仕事や恋人があっても浮世離れしたほとんど漂流者であり、世界との接点を詩作によって見つけているのであって、倦怠と厭世の上に立っている人物ともいえるでしょう。そう考えるとこの映画は決して心地よさだけで終わらせることのできない作品でもありました。



5位 夜は短し歩けよ乙女

自由で奇妙でポップに誇張されたアニメーション表現の洪水に圧倒され、その無茶苦茶加減に押し流されそうになると乙女の凛とした歩き姿に引っ張られるようにして意識を取り戻し、理解を超えた一夜を体験することが出来るという、まさに映像のマジックとしか言いようのない作品でした。膨らみすぎた一夜が引き起こす圧倒的非日常の帰結が、ある個人の微かな、しかし確かな変化であるというバランスにも感動しましたね。湯浅政明監督は来年なんと『デビルマン』があるということで、これも超楽しみ。
<感想>



4位 南瓜とマヨネーズ

声がどのように人物に投げかけられるかという、声の方向性とでも呼ぶべき要素が人物同士を区切る画面と共に表出し、繋がらなさを演出していますが、それが最後の最後で赤色をポイントにし共有される。そこに映画の面白さを見たというのか、とにかく感動したんですね。歩くことが印象的であるというのも良かったですし、役者も総じて魅力的で、とりわけオダギリジョーはあれだけどうしようもない人間でありつつも『ローリング』の川瀬陽太と同じく嫌味が勝らない。そういうバランスも心地よいのかなと思います。
<感想>



3位 女神の見えざる手

プロフェッショナルの倫理に基づく行動が画面を活気づけ、登場人物は心理的な要素以上の実在感を獲得していました。また無駄なくスリリングに情報戦を展開させる手腕の見事さにもやられましたし、しかもその手腕が、最終的に映画的な嘘を機能させていることにも興奮しました。いったいこの脚本を書いたジョナサン・ペレラとは何者と思ったらまさかの処女作というから驚きです。良く開けた見通しのいい画面というのも効果的に使われていましたね。多くの面において非常に優れた作品だと思いますよ。ジェシカ・チャスティンの黒スーツに紫シャツというスタイルも好き。
<感想>



2位 風に濡れた女

ひたすら楽しい。とにかくそれだけです。見ている間中ずっと笑っていられるし、画面を動き回る人物たちの動作から目が離せない。ポルノという制限こそあれど、意味や意義に囚われず純粋に映画として面白くあろうとするこの作品こそ、時代性に左右されない輝きを放つのではないかと思います。ちなみに僕はこの作品について、前提から崩れる気もしますが『赤ちゃん教育』的なスクリューボールコメディと見ておりました。
<感想>



1位 ジェーン・ドウの解剖

素晴らしい、見事な、真に見事な怪奇映画だと思います。ジェーン・ドウはそこに存在するだけで恐怖を発生させる装置として動き出す、人類を破滅させんとする呪いであり、秘かに動き出していた不条理によって条理が蹂躙され、抵抗のしようもなく世界がぬりつぶされる様を待ち構えていれば、自然に黒い快楽を得て劇場を後にすることが出来る。これこそホラー。この堂々たる死の物語には感動すら覚えます。場面の少なさを有効活用する手腕に無駄のない展開も素晴らしい。殆ど快感といっても良いほどの興奮を味あわせてくれた本作を、2017年の1位とします。
<感想>


<まとめ>
というわけで以上が僕の2017年新作映画ベストテン&次点でした。見られなかった作品で特に気になっているのは『ドリーム』『息の跡』『SYNCHRONIZER』『ポルト』ですかね。カウリスマキ大林宣彦など、地方ではこれから公開となる作品もありますが、やはり相変わらず取りこぼしは多いですね。
年々面白いと思う映画が少なくなっていると去年も書きましたが、今年もやはりそれは同じであってベストテンを選ぶほどもないのではと初め思っておりましたが、このようにして並べてみるとやはり今年もちゃんと楽しめていたのだなと感じます。今年ベストテンに選んだ作品には特に関連性を見つけることができませんけれども、強いて挙げるとするならば、人や社会との関わり方が下手だったり強引だったりする人たちの話が多いということになりますかね。ただそもそも無作為に面白いと思ったものを選んだのだから、そうやって無理に関連性を見つけなくても良いかなと思います。
今年もまたブログを書く回数が減ってしまいました。何とか来年は、と思いますけれどもしかしやはり年々面白いと思う作品が減ってきていることと関連もしておりますので、今後は旧作の更新を増やせたらなと思っております。
さて、今年も見る作品は厳選したため、本気でこれは酷いと思うような作品はほとんどありませんでした。なので特別ワーストというものはありませが、期待していたけれど思っていたほどではなかったという作品はありました。というわけで以下、今年見た新作の全ランキングと簡単なコメントを載せておきます。ワースト5前のと78位くらいまでは好意的な気持の方がギリギリ上です。



<2017年新作映画ランキング>
1 ジェーン・ドウの解剖
2 風に濡れた女
3 女神の見えざる手
4 南瓜とマヨネーズ
5 夜は短し歩けよ乙女
6 パターソン
7 予兆 散歩する侵略者
8 アウトレイジ 最終章
9 哭声/コクソン
10 エイリアン:コヴェナント
11 PARKS
12 夜明け告げるルーのうた
13 サバイバル・ファミリー
14 美しい星
15 沈黙
16 グレートウォール
17 イップ・マン 継承
18 ミス・ペレグリンと奇妙な子供たち
19 マイティ・ソー バトルロイヤル
20 昼顔
夜明け告げるルーのうた』は『夜は短し歩けよ乙女』程の映像的酩酊感はなかったものの、後半怒涛の展開に涙を搾り取られましたので、そういう意味では今年ベスト級。『サバイバル・ファミリー』は川辺という場所からも『宇宙戦争』をどこか思い起こさせますが、意地悪や恐怖に振り切らない怖さがあっていいと思いますし、アイテムや音の使い方もうまい。『美しい星』はやはり吉田大八らしい視線のドラマですが、なにより橋本愛はものすごく美しく撮られているのが良いです。『沈黙』に関しては「鼾」が原作より弱いのがもったいない。『グレートウォール』の特攻降下槍部隊とヌンチャク太鼓は最高ですし、高低差を利用した画面設計は普通にうまいと思います。ドラマの比重を多くすることで3作目としての地位を高めた『イップ・マン 継承』ですが、しかし最も素晴らしいのは横と縦が冴えるエレベーターから階段へと移行するアクションシーンでしょう。『ミス・ペレグリン』には品があって色々といいところはありますが、何より紐に繋がれた少女が浮かび上がる瞬間の感動につきます。『マイティ・ソー バトルロイヤル』画面として緩いところが多く、それでいいのかとも思いますが、しかしシリーズの肝でもあるカルチャーギャップコメディやファイナルファンタジー的展開からくる馬鹿馬鹿しさを大いに楽しみました。『昼顔』は足を中心にした人物の動きという点で非常に面白い画面を作っているのに、ドラマ版に引っ張られたかと思われる要素があって本当にもったいないと思います。



21 マリアンヌ
22 ムーンライト
23 ローガン
24 メッセージ
25 キングコング 髑髏島の巨神
26 ゲット・アウト
27 ベイビー・ドライバー
28 20センチュリー・ウーマン
29 散歩する侵略者
30 ローサは密告された
面白いけれどもあまり印象に残らなかった作品が並んでいますね。『マリアンヌ』はかなり上質なアメリカ映画という感じですが、マリオン・コティヤールの素晴らしさの前にブラッド・ピットが木偶にすら見えてしまいましたね。『ムーンライト』は決定的に好きな部分というのに欠けていますが、普遍的な孤独な者の痛ましさがしっかり描かれていると思います。『ローガン』は老いと関連して寝そべる姿が繰り返される映画でしたね。見せ方がかったるい『メッセージ』ですが、しかし物語にはまんまと感動させられました。『キングコング』はきちんとしてるけどPJ版の詰め込みの方が愛せます。『ゲット・アウト』は細かく小技が効いて全体を作り上げている感じだと思います。『ベイビー・ドライバー』はケヴィン・スペイシーが演じた役が好きなんですけれども、まぁ、ええ。『散歩する侵略者』は概念を奪われた後の行動で納得できないところが多々あります。『ローサは密告された』は中盤から終盤が少し画面的に退屈するんですよね。



31 三度目の殺人
32 スパイダーマン:ホームカミング
33 ブレードランナー2049
34 スプリット
35 ラ・ラ・ランド
36 ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない第1章
37 パーソナル・ショッパー
38 ウィッチ
39 パッセンジャー
40 ワンダーウーマン
『三度目の殺人』も良い映画ですし、映像的な表現も随所にみられると言えば見られるのですが、しかし小説で読んでもそんなに面白さが変わらないような気がしたのでこの順位です。『スパイダーマン』でマイケル・キートンが演じた悪役は近年のアメコミ悪役でもピカイチだと思います。『ブレードランナー』は女優がみんな可愛かったり綺麗なのでいいんじゃないですか。『スプリット』では服を脱ぐという行為が後半に物語的な意味を持ってくるのが良かったです。『ラ・ラ・ランド』は中盤以降画面が物語に回収され過ぎているけれども、確かにラストはそりゃ感動させられましたよ。見過ごせない出来の悪さも多い『ジョジョ』は、しかし擁護したくなる良さもあって、続編も何とか作られて欲しいところです。『パーソナル・ショッパー』ラスト付近でホテルから何かが出ていくシーンが最高ですし、服を脱ぐことより着ることに対しエロスがある。照明や美術といった部分で作品の底力を上げている『ウイッチ』は、しかしまだ画面が硬すぎるので次回作に期待、というところ。『パッセンジャー』は眠れる森の美女として前半はジェニファー・ローレンスの魅力とそれに伴う不穏さで面白く見られました。『ワンダーウーマン』は何と言っても戦場のシーンが最高ですし、夜のダンスがきちんと撮られていることにも好感を持ちましたけれど、穴も多い。



41 夜に生きる
42 ドラゴン×マッハ!
43 傷物語 冷血編
44 人魚姫
45 ハクソー・リッジ
46 アシュラ
47 スター・ウォーズ 最後のジェダイ
48 探偵はBARにいる3
49 ダンケルク
50 マグニフィセント・セブン
黒の色気と白の不吉が映える撮影がいいし、素晴らしい階段が見られる『夜に生きる』ですが、さすがに長すぎやしないかと。『ドラゴン×マッハ!』のアクションシーンは凄まじいものがありますね。『傷物語 冷血編』最後のスラップステックバイオレンスは最高。異常にくだらないと思わせるギャグが反転し、一本道の美学を見せる『人魚姫』のラストは泣けます。『ハクソー・リッジ』はもう少しあの地形を生かしてほしかった。『アシュラ』はなんといっても市長です。やりたいことは分かるけど骨組みが雑な『スター・ウォーズ』は、血を表現する赤とか好きですけれど、まぁ順位としてはこんなもんでしょう。『探偵はBARにいる』シリーズの肝は依頼主となる女優なわけですけれど、その点では成功していると思います。『ダンケルク』は普通に下手なんですが、しかしこれはいくらでも良くなりそうな細部も散りばめられているので、ノーランはもっとストレートな作品を作ればいいと思います。『マグニフィセント・セブン』のデンゼル・ワシントンは黒が決まっていてカッコよかったですね。



51 okja
52 ELLE
53 ノクターナル・アニマルズ
54 浮き草たち
55 オン・ザ・ミルキーロード
56 ワイルドスピード ICE BREAK
57 ドクター・ストレンジ
58 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス
59 ゴースト・イン・ザ・シェル
60 ドッグ・イート・ドッグ
『okja』終盤精肉工場の下りは確かに面白いんですけれど、象徴と比喩の要素が増しているのが好きになれないところですね。『ELLE』はむしろ倫理的に正しすぎて微妙ですけれど、嵐の夜に内側から窓を閉めるシーンの良さは際立っていると思います。『ノクターナル・アニマルズ』は小説パートのマイケル・シャノンが最高なのでその部分を拡大した作品が見たいです。みずみずしさが光る『浮き草たち』の郊外と都市の感覚や走りだすタイミングは非常にいいと思います。アッパーで悲惨な『オン・ザ・ミルキー・ロード』は上下に人物を動かすことで不思議なテンションを上げ、また女性が魅力的ですけれど、主人公を監督本人がやるっていうのがなんか気に食わないということと、カメラの動きがイマイチです。『ワイルドスピード』ではジェイソン・ステイサム座頭市をやっていましたね。『ドクター・ストレンジ』は万華鏡風騙し絵的都市構築と幽体離脱殴り合いが良いですよね。『ガーディアンズ〜』はカート・ラッセルがやっぱり魅力的ですよ。スカーレット・ヨハンソンのスーツ姿が見られたので『ゴースト・イン・ザ・シェル』はあれでもういいんです。『ドッグ・イート・ドッグ』終盤、ダイナーからの夜道はリンチ、カラフルな霧と視界不良な銃撃は清順かとなり、かつ往年の犯罪映画に触れるような映画の黄泉巡り感が面白かったです。



61 皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
62 マンチェスター・バイ・ザ・シー
63 トランスフォーマー 最後の騎士王
64 バンコクナイツ
65 レゴバットマン
66 ホワイトリリー
67 ブラッドファーザー
68 海底47m
69 ムーミン谷とウィンターワンダーランド
70 美女と野獣
71 無限の住人
72 カーズ/クロス・ロード
73 IT/イット“それ”が見えたら、終わり。
74 FOUND ファウンド
75 皆さま、ごきげんよう
76 はじまりの旅
このあたりは正直内容の多くを覚えていない作品、つまり印象に残っていない作品が並んでいます。『海底47m』の赤ライトの下鮫大集合とか、イオセリアーニの『皆さま、ごきげんよう』はやたら死体が多いしタンクローリーとか最高だったな、なんてことは言えるんですけど、全体に記憶が曖昧な感じですね。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は各要素諸々きちんと出来のいい小品ということもできますが、これはしかしただリアルさを汲んだだけで映画としてはどうなんだとも思いますね。大ヒットしている『IT』ですが、気に入らないのはデブの少年が女の子にキスをする場面で、ああいうことはやってはいけないと思いますよ。それがなければもっと上位だっていいくらいです。



77 パーティで女の子に話しかけるには
78 新感染 ファイナル・エクスプレス
79 ザ・マミー 呪われた砂漠の王女
80 ジャスティス・リーグ
81 メアリと魔女の花
というわけで、今年のワースト5はこの作品たちですね。まず『パーティで女の子に話しかけるには』は冒頭の自転車だけでたぶんダメだろうと予測でき、その後はちょっと変わっている以上のことが何もない。エル・ファニングの魅力だけが救いです。『新感染』は感傷的になっている暇がありすぎて退屈。『ザ・マミー』のトム・クルーズは相変わらずサービス精神旺盛でそこはありがたいし、ソフィア・ブテラだって悪くないんですけど如何せんそれらを生かしきれていない上に脚本も悪く、ミイラの扱いだってひどいなと思いました。『ジャスティス・リーグ』の不満点を挙げるときりがないんですけれども、一番はスーパーマンさえいれば何もかも解決できてしまう物語にしたことですね。チーム物の意味がない。そして『メアリと魔女の花』は、演出力とイマジネーション不足がはっきりと出てしまっている作品だと思います。



というわけで以上で2017年新作映画ランキングは終了です。ちなみに旧作に関しては、いつも通り年明けに「下半期に見た旧作映画ベスト」という形でブログに書こうと思っておりますので、そちらもぜひ見てやってください。それではみなさん、良いお年を。

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最近見た新作の感想その21

女神の見えざる手
極めて視界良好な作品であって、異常に開けたガラス窓が全編に渡って登場人物を取り囲んでおり、まるでここにいる誰もの行動が見透かされているようである。しかしながら、ジェシカ・チャスティン演じるスローンの動機や、その行動自体は誰にも見通されない。それどころか、読唇術によって彼女は本来見通されないものですら見通すのであって、それこそがロビイストなのだと冒頭から喝破している。つまり彼女は紛うことなきプロフェッショナルであり、プロフェッショナルの倫理ゆえに社会的な倫理とは著しく反する部分も当然のごとく出てくる。しかし信念まで倫理的に曖昧なのではない。だからこそ台詞にも出てくるように、彼女は最後「正義は行われよ、たとえ天が落ちるとも」を、あくまでも行動によって、遂行することが出来るのだ。この行動というのも非常に重要な要素であって、スローンは絶えず行動している。例えばスローンが働いているオフィスは全体としてカメラも人物も動いていることは多く、中でも彼女が一人で動いている場面はかなり多いはずだ。それは人物描写としても機能しているし、ロビイストという題材に対し画面に活気を与えるという点においても機能している。反対に、敵陣営となるチームはそんな動きに対して後手に回っているのだから、座っていることが多い。そんな陣営同士を、例えば歩きや電話というアイテムでつなげてカットを割るなど、画面に流れを持たせるという点でもうまい。こういった心地の良い画面の運びと、そして膨大なセリフを一気に読み上げるスピード感覚が気持ちいい。
ロビイストという題材に対してはもう一つ手段が持たれている。それはこの作品が、スパイ映画的な側面を持っているという点だ。大規模な潜入や破壊工作は登場しないかもしれないがそれに準ずる行為はしっかりと登場しているし、相手の裏をかく情報戦の興奮はスパイ映画と呼んで差し支えないだろう。加えて、ビルの外に集めて指示を出すシーンでの俯瞰にはチームものとしての画のカッコよさもある上に秘密道具まで登場するのであって、つまり娯楽としての面白さもきちんと確保されているのだ。文句なしの傑作。

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南瓜とマヨネーズ
人物が、壁や画面の上下左右もしくは手前奥によって区切られ、その区切られた空間に声が届けられる。この、声の方向性とでも呼ぶべき現象がドラマを生んでいる。例えば土田(臼田あさみ)がホテルの一室で客の欲望を聞かされる場面において、画面は彼女が一方的に言葉を投げつけられているのを映す。また、同じ空間に居るようで実はそれぞれしてほしいこととやっていることが食い違ってしまう土田とせいいち(太賀)は、はじめの会話からしてそれぞれの思いがすれ違っているわけだけれども、そのすれ違いは徐々に、しかし明確に視覚化されていく。その場合、大抵せいいちは風呂場という、住まいにおいて個人的な空間にいる。これはせいいちが本来共有を苦手とする人物だからではなかろうか。せいいちはかつてのバンド仲間と会っても口論が絶えず、しかもその内容について、「自分の中で凝り固まった考え」と指摘される始末だ。だがせいいちが、土田のある事実をきっかけに外へ稼ぎに出始めるといよいよ住まいからは姿を消し、土田はかつて親しい仲にあったハギオ(オダギリジョー)と再び関係を持ち始める。しかしながら土田とハギオも声の方向性似はすれ違いがあって、彼らは親しげでもそれぞれ逆方向を見ながら話していたりする。何故こういったすれ違いが起こるかといえば、この作品に出てくる男女は自分の見たいものを追っているからであって、そのために視線はズレ、空間は区切られ、音だけが相手に届けられる。
このような曖昧なすれ違いの状況から抜け出そうとしたせいいちは、土田とは共有できないことをとっくに理解していたかのように、風呂場から別れを告げる。土田はごみ袋から金を拾うという動作でもあらわされるように「捨てられない」人物であって、それ故に「あの時」と「これからも」を求めてしまうから、ハギオのような曖昧に漂い続ける男とも上手くいかない。このようにしてすれ違いから別れへと導かれた物語は、しかしそこで終わりはせず、最後に声の共有が起こる。せいいちに別れを切り出された土田がその顔を覆ったタオルの鮮烈な赤は、ギターによってここで繰り返されるのだが、せいいちは結局ギターを弾かず、歌声とコンガが二人の空間に響きわたる。そんな音による空間の共有が、何より感動的なのだ。

南瓜とマヨネーズ

南瓜とマヨネーズ

『予兆 散歩する侵略者』を見た。

そうさ僕らはエイリアンズ

散歩する侵略者』のアナザーストリーとして制作され、wowowで放送された全5話のドラマを劇場版として再編集した作品。主演は夏帆染谷将太東出昌大ら。監督は本編と同じく黒沢清。脚本は黒沢監督とは久々のタッグとなる高橋洋


山際悦子(夏帆)は同僚のみゆき(岸井ゆきの)から、「家の中に幽霊がいる」という不思議な相談を受け、彼女の家へと向かった。しかしそこには実の父がいるだけで、おかしなことは何もないのだが、みゆきは父親を父親として認識せず、顔を見ると取り乱すばかりであった。心配した悦子は夫の辰雄(染谷将太)が務めている病院へと向かった。診断を待っている途中、悦子は廊下で真壁(東出昌大)という新任の医師と出会い、妙な違和感を抱くのであった・・・

冒頭、夏帆演じる悦子が帰宅するととそこは謎の柱が配置された相変わらずの家内空間が広がっており、薄いカーテンが風に揺れている。ふと顔を向けると、夫・辰雄が異常なまでに大きな窓から外を見ている。少しばかりの会話をした後、悦子がキッチンへ移動すると、ここでもリビングを見渡すには広すぎるほどの壁が開かれている。
このような黒沢清的空間が長回しによって映し出され、それだけで期待が膨らむのはファンとして仕方のないことであるが、しかしそれよりも注目すべきなのはおそらく、ファーストショットとなる玄関前の画面奥に、川と柵とが映し出されていることであろう。こちら→「黒沢清監督が答える!公開講座レポート「映画はいろんなものが嫌でも映ってしまうというところから出発している」|映画講演集『黒沢清、21世紀の映画を語る』刊行を記念してBibliothèqueで公開講座が開催された。 - 骰子の眼 - webDICE」のインタビューから引用するならば、黒沢清作品における「川」には「境界線」のイメージと、「街中に突如出現する」という感覚があるうようだ。そして実際本作にもそのイメージは引き継がれており、例えばこの冒頭の家の中だけでも、中心に太い柱を持つ大きな窓辺に佇む辰雄と、そんな夫の姿を見る悦子はそれぞれ動く方向が全く逆である。つまり辰雄が左に動けば悦子は右に、悦子が画面右側に配置されているキッチンへ向かえば辰雄は左側に、といった具合であって、ここで夫婦は、二人の間を分断する線なしに捉えられはしない。境界線が既に家の中にまで侵略してきていることが冒頭から示されている。



以降も分断のイメージは長い動線の中であろうと頻繁に夫婦を区切るのだが、区切りは夫婦だけではなく、多くの場面で幾度となく登場する。例えば「家の中に幽霊がいる」と相談を持ちかけてきたみゆきの家の中で、悦子とみゆきの父が会話するシーンでは、カーテンによって隠された窓の内と外で分断が生じている。カーテンを開けた際に、父親を認識できなくなったみゆきが取り乱して逃げるシーンでは、ぽつんと垂れ下がった電灯の光の揺れとその光の反射するテーブルが美しく、エドワード・ヤン、などと口走ってしまいそうになるのだが、それは置いておいておくとして彼女はその後、カーテンという仕切りなしに画面に登場することが出来ず、しかもそのカーテンとは、主人公夫婦の家の中で大袈裟に揺れていたものとは違いほとんど沈黙しており、「予兆」の過ぎ去った後は不穏に風が入り込む必要がないというかのごときものであって、だから後半、「自分より先に街が死んだみたいだ」と辰雄が語る際にはカーテンは沈黙しているものの、その直後に夫婦の間で愛が語られる瞬間、ふっと息を吹き返しているではないか。
ところで、「予兆」と題された本作は本編(『散歩する侵略者』)と違い、主役たる女性が最後まで侵略者たちの「奪う」という行為を目撃していない。彼女は具体的な行為を知らぬまま、危機が迫っていることをほとんど直感として理解するわけだが、何故理解できたのかという理由は、彼女が人知どころか宇宙人知を超えた存在であることと無関係ではない。ただし何故そんな存在なのかという理由も説明されないのだけれども、とはいえ宇宙人でも解明できないのだから、説明のしようがないのは当然である。さらにいえば、悦子は本編で長澤まさみが演じた鳴海と違い、「知らない」女性であるとも言えよう。鳴海は夫の不貞を「知って」いるが、悦子は辰雄が「実に人間らしい人間」と言われる所以を「知らない」。だからといって、この分断がすぐさま夫婦を否定するのかといえばそうではない。そもそも多くの黒沢清作品において理解とは安易に肯定されるものではなく、そこに衝突や暴力が生まれる事も多々あるのであり、悦子は辰雄の「疾しい」一面を理解はしないが、それが決定的な夫婦の分断とはなりえない。
むしろ彼女が理解するのは真壁である。悦子は一目見ただけでこの男が異物であると気付き、また真壁も悦子の特異性を見抜き、彼らはすれ違いつつ円の中心という二人だけの空間が用意されることとなる。この二人の関係においてこそ、理解=衝突は起こるのだ。確かに、悦子が辰雄に質問責めをする場面では平手打ちを食らうけれども悦子はそれ以降「理解」はしようとはせず、二人は愛を貫く。ただし対真壁に対しては理解してしまうがゆえに、そして真壁としては理解しようとするがゆえに、衝突は避けられないのだ。ちなみにその用意された円はまるでフリッツ・ラング的と言おうか、まさに映画らしい嘘くささであって、恐らく久しぶりのタッグとなった高橋洋による舞台立てではないのかと思うのだけれど、この場面ではそれ以上に、床の反射によって作り出される対称世界が素晴らしい。
その後、悦子は廃工場で真壁との対決を強いられる。ここでのビニールカーテンに映し出される影を駆使した撮影も素晴らしく、本作における光の重要性を再確認させてくれる。事実光は冒頭から不穏に外側を印象付けており、光差し込む大きな窓の外を眺めていたのは辰雄だけではなく、職場での悦子も同じだ。また、先に述べたようにみゆきの家で揺れる電灯、病院の廊下に反射する光など、幾つもの場面で光は外側から入り込もうとしている。光がSF的な装置としてではなく、恐怖の侵入としてここでは効力を発揮しているのだ。そう考えると、厚生労働省が用意した円の陣形が完全に反射して対称世界を作り出しているのは、もはや内と外の境目が曖昧になっているということなのかもしれない。ちなみに円は廃工場でも登場し、暗がりの中に円形に光が差し込む場所を通り過ぎた後、襲撃がやってくる。冒頭で川と光によって示された分断と日常への浸食は、数々のモチーフを通して全編で語られている。



真壁は、そんな境界線も光も関係なしに入り込む。勝手に開く自動ドアや黒いコートに突然表出する影など、彼は秩序なく登場する。この宇宙人・真壁を演じた東出昌大がおそらく本作最大の功労者であろう。まずはその巨大な体躯であって、決して小柄ではない染谷将太と並んでもその大きさが際立つほどである。加えて、本作では興味を示した際やや前傾姿勢となるのだが、その首から頭のラインの長さが異様であり、まるでエイリアンかのようだ。
エイリアンみたいだというのはそれだけではない。かの『エイリアン』はドラキュラをモチーフとして利用しているが、本作の真壁はまさしくドラキュラなのだ。人間を狙うドラキュラは女性の首筋を噛むことで印をつけ、自らの配下に置き行動の自由を奪うのだけれども、最後は夫が連れ去られた妻を助けだし、夫婦の愛の下でドラキュラは敗れ去る。これは全く本作における真壁と同様であって、愛を奪おうと奮闘する真壁は結局、愛の下に敗れ去っている。ここで本作がスタイルのみならず「愛」というテーマの下でも本編とは裏表の関係性になっていることがはっきりするだろう。また、真壁の黒いロングコートはマントそのものだし、何者かと問われた際にゆっくりと人差し指で上を指し示す場面では、指よりも先に奇妙に伸びた指の影が姿を現すのだけれども、その形からは『吸血鬼ノスフェラトゥ』を連想する。紛れもなく、真壁は吸血鬼として描かれているのだ。そして東出昌大は、しっかりと不気味に演じきったのではないか。



もちろん、近年の黒沢清作品の傾向でもある女優の映画として見ても、夏帆は本編における長澤まさみとは違う魅力によって作品を牽引しているし、またいちいち挙げてこなかったけれども黒沢清空間を楽しむのであれば、例えば悦子の勤め先である繊維工場の奥行きは、立ち尽くしコチラを見ているだけの同僚や、もしくは上司の妻という存在によって動線だけでなく、おなじみの「幽霊」的な存在を生み出す場として見ることもできるだろう。恐怖の概念を奪うシーンでの木々とスモーク、拡声器を持った大杉漣といった要素にも笑みを浮かべられる。また、恐怖の概念を奪うために死の恐怖を味あわせるというのは『蛇の道』の変形と捉えることもでき、高橋洋とのタッグに共通する要素を見出すこともできる。難点としては染谷将太演じる辰雄がやや説明的過ぎやしないかということであって、例えば黒沢清作品で「回想」があそこまではっきりと描かれたことはなかったように思うし、そもそも不必要ではないかとも思う。この「回想」に関しては特に引っかかる点であった。
とはいえ、ホラーとして振り切った画面は過去作の集積の上で強度を保っているし、また役者によって新しい地平が切り開かれているという魅力もある。僕は2010年代の黒沢清作品では『Seventh Code』がベストだと思っていて、それは前田敦子という役者の魅力があってこその評価なのだけれど、本作での東出昌大も大きなインパクトを残しており、その部分が何より素晴らしいと思うのである。

散歩する侵略者 (角川文庫)

散歩する侵略者 (角川文庫)


※『散歩する侵略者』の感想はコチラ→『散歩する侵略者』を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら

『アウトレイジ 最終章』を見た。

太刀魚の味

2010年に公開された『アウトレイジ』シリーズの3作目にして最終章。監督は北野武北野武西田敏行塩見三省、白竜、金田時男らが前作に引き続き出演し、大森南朋ピエール瀧大杉漣らが新登場となった。


山王会と花菱会の対立の果て、韓国の済州島に移り歓楽街を仕切っていた大友(北野武)の下へ、ある日「女が気に入らない」と日本のやくざから文句が入った。花菱会の花田(ピエール瀧)と名乗るそのヤクザは、女を殴ったために逆に大友から大金を請求されるものの、要求に応えず大友の部下を殺し、日本へと帰ってしまった。帰国した花田は花菱会若頭補佐の中野(塩見三省)より、揉めた大友は張(金田時男)という会長が率いる、韓国一の巨大グループであると知らされ、急きょ詫びを入れに行くととなるが・・・

前作の感想にも書いた内容ではあるが、やはり今回も黒塗りの車に被さるようにタイトルが出る。1作目は列になって疾走する姿。2作目は海から引き揚げられる姿。そして今回は、異国の地を緩やかに走る姿に被さってタイトルが出る。1作目を見たときにまず驚かされた、あの黒の威圧的な色気の素晴らしさは今回も健在であるものの、しかしそれまでの陽光の下とは違う夜の雨とネオンの反射によって、車は異なる黒を見せている。そしてまたこの車の扱いは主人公たる大友という人物の立ち位置を示してもいるのだが、『最終章』では黒塗りの車よりも前に、不思議な、開けた画面での釣りのシーンが入っている。無論、北野武監督作品として見れば海の光景なぞ何も不思議なことではないものの、アウトレイジシリーズとしては異質に思えるこの場面は、まるでヤクザとは無関係な、銃も不要の、一見して死とは無縁のように思える世界である。しかしやはり北野武の海は死と無関係でいられないのであって、釣りという、引き延ばされ繰り返される北野武的遊戯の時間は、存在しないはずの太刀魚によって唐突な死への予感を示す。



このようにして、大友は白の軽トラックが走る世界から再び黒の高級車の世界へと戻ってくる。しかしながら大友が、単純に以前と同じようにヤクザの世界の中へ戻って来たとは言い難い。というのもアウトレイジシリーズにおけるヤクザの世界とは権力争いと陣地取のゲームであって、情念ではなく、欲望ともどこか違った、ほとんど組織の理論として殺しや恫喝が行われている。だから西野に利用されつつも組織には属さず、また前作で死んだ刑事・片岡の駒になるようなことも、木村の義理に応えるよう事もしない大友は、ゲーム上に存在しながらもヤクザの理論からは外れた立ち位置に居ると言えるため、以前とは違うと言えるのだ。
敢えて言うならば彼は死者のために行動しており、だからこそなのだろうが、大友自身からも生きている者の感覚が薄いように思える。ただしだからといってまるで死者だというのではなく、死の機能を果たす使者のように見えてくるのだ。彼は死によって召喚され、純粋に暴力を果たす装置として現れては死の機能を果たし、死に去ってゆく。おそらく初めに海が映されたのも、北野武作品に頻出する海が持つ死のイメージあってこその海なのであり、そこに留まっては、自らの使命を果たす機会を彼岸で待ちわびていたのであろう。
そんな中において大友と共に釣りをする市川については、北野武作品共通する特徴の一つである二人組の関係性に当たる人物であるといえるだろう。例えば本作の白眉でもある、黒い車が日の光に照らされた、色気が漂うような屋上駐車場のシーンにおいても、最早作品名を出すまでもないほどに、いつものように二人は横並びで登場する。付き合わせてしまうこと、という点でも(この点は李もそうだが)類似性を見ることが出来るかもしれない。そうして大友は最後『ソナチネ』のように帰宅を拒絶し、市川は『あの夏、いちばん静かな海』のように1人海を前に取り残されることとなる。そうして待ちぼうけする側となった市川が釣り上げるのは、ごちそうすることを約束していた太刀魚だ。この、本来ならば大友に食べてもらうはずであった太刀魚が「食べてもらえない」ことにこそ不在は強調されており、それは自ら頭を撃ちぬいた姿よりも鮮烈に、最終章であることを告げていたように思われる。



ところで、「食べる」というのは1作目から多くの場面で繰り返されてきた要素であって、それは前作の感想にも書いたことである。しかしどうもこのシリーズにおいては、「食べる」ことというよりもむしろ「食事の場」が登場すると言った方が適切ではないか。というのもヤクザ達がその食事の場においてしていることといえば密談であり、それは食事を楽しむと言ったような喜びからは程遠い行為だからだ。おそらくはその場というのが程よく外部と切り離されつつも、団らんと呼べるまでの親密さは獲得していないからこその密談なのであろう。そして逆に広く自分を知らしめたいときは例えば飲み屋やホールなどの開かれた空間の共有を強要することになる。
「食べる」ということに関しては、焼肉屋ではその場があだになったという面もあるけれども、もう一つ思い出すこととして、「食べる」ことを中断させられる者達がいるということである。本作であれば原田泰造じる丸山がそうであり、前作であれば新井浩文桐谷健太演じるチンピラであり、つまるところ、密談とは関係のない、若いヤクザ達の食事である。彼らに共通しているのは、なんの期待もかけられていなければ、同情があったとしてもわずかなものであるという点だろう。そこが深作欣二諸作品との大きな違いの一つでもあって、権力闘争に青春の挫折が重ねられるのではなく、老境の摩耗が見えてくるようなのである。



特に本作において、老いというのは要となる要素であろう。例えば、役者本人の衰えによる隠しようのない変化はむしろ利用され、例えば西野の斜めの座り姿など、肉体表現という点において非常に効果的ではある。しかし正直に見せつけられる身体の老いた様に対して心情がはっきりと全面に出ることは少なく、淡々とした語り脅しや、延々と続くゲームの中で、心情を奥底へとしまいつつ消耗していったような疲弊した顔が目に付く。また今まで以上に携帯電話が登場するのも、北野武映画らしいと思われていた、「歩くこと」の困難さが見えてくるようである。
そんな顔の破壊こそ今回大友が成し遂げた暴力である。北野武作品では顔への暴力はもともと多いけれども、今回はより明確に、顔を破壊せしめんとしているように思える。なぜならば、もとよりアウトレイジは顔のアップが多い作品であって、それを終わらせるならばその顔を破壊するしかないのだ。1作目のような乗っ取りも、2作目のような陣地の拡大もないまま浮かんでくる見知った顔達を、ただ粛々と顔を消滅させてゆくのが本作である。
龍三と七人の子分たち』において北野武は遊戯に参加しておらず、その姿に諦観と疲労を感じた。それは『アウトレイジ ビヨンド』からの流れとして受け止めることができたし、本作もやはり同じ流れの中にあって、一応の終わりが描かれてはいたけれども、おそらくは今後もこのテーマからは逃れられないような気がしている。こういった作品の流れを考えるにつけ、作品内の登場人物とは裏腹の作家的な素直さが見えてくるようであり、異色作とも思えた『アウトレイジ』をこのような形で終わらせるのもまた、反動としての素直さを感じるところでもあった。