リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を見た。

割れたタマゴ
ニューヨーク・タイムズによって暴露された政府の最高機密文書=「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる実話の映画化。メリル・ストリープトム・ハンクスボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツらが出演。監督はスティーブン・スピルバーグ


ベトナム視察から戻った軍事アナリストのエルズバーグ(マシュー・リス)は「ベトナムに対する政策決定の歴史」と書かれたトップシークレット表記の資料を持ち出し、その資料の一部がニューヨーク・タイムズによって報じられた。ワシントン・ポストの編集主幹・ボブ(トム・ハンクス)率いる記者たちも文章の入手に動き出し、ボブはかねてより国防長官のジョー・マクナマラ(ブルース・グリーンウッド)と親しかったワシントン・ポスト社社長のケイ(メリル・ストリープ)に、文章を渡してくれるよう説得を頼むものの、機密保護法違反であるからと拒否されてしまう。数日後、ニューヨーク・タイムスは罪に問われ、発刊差し止めを言い渡された。時を同じくして、ポスト社も資料を手に入れるのだが・・・

冒頭で映し出されるベトナムの森が、思いのほか『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』に似た夜であったことに懐かしさと嬉しさを感じたのだけれど、考えてみれば丁度その辺りからスピルバーグカミンスキーのタッグによる作品の方向性は定まってきたのであり、しかもそれは画面の効果としてだけではなく、戦争の歴史という題材にまで及ぶ変化であったはずで、事実それ以降の作品では2つの大戦、黒人奴隷、テロリズム、冷戦という題材を中心としつつ例えば難民という主題をそれ以前よりも多く撮っているわけだし、そしてついにベトナム戦争を扱ったことによって、いよいよスピルバーグも近代史作家としての存在が強固になってきているのは間違いないだろう。



そんな近代史作家としての作品群を支えたカミンスキーの撮影としては今回、人物の動きを流麗に捉えるショットが目立っている。いうなれば限定的な空間であるオフィス内を人物はひたすら動き回り、たとえ物語上の動きは一方向であってもそれを動きが入り乱れる空間全体の中で捉えることにより、画面は豊かに活気づくのである。また新聞社への出入りを背中から捉えて追うショットでは一人だけを追うのではなく、入る人と出る人がそれぞれ別であろうとも一つのショットの中で捌き、また伝達物や情報が人から人へ繋がっていく様子もカット割らないため、心地よい流れで見続けることが出来る。
このように彼らが動き続けるのは地位や名誉からではなく、真実を暴き出し伝えるという新聞記者としての性質からだ。だから本作は、隠されていたものが、もしくはバラバラだったものが繋ぎ合される場面が多く出てくる。隠されているのは勿論機密文章なのだけれど、それは時には引き出しに、時には箱に入っており、時にはページがバラバラになっており、さらに空すらも舞う。彼らはそれらを繋ぎ合わせ、新聞記者としての性質ゆえに、情報を国民の下へと戻すのだ。この性質を「あるものをあるべき場所へ戻す」と言い換えれば、それはまさしくスピルバーグ作品、例えば『レイダース 失われたアーク』にも『E.T.』にも『ロスト・ワールド』にも、数え上げればきりがないほどに何度も登場してきたモチーフである。



ところでカメラの動きといえばもう一つ、人物の周囲を回り込むカメラの動きも忘れ難く、それはむしろ人物の動き自体はあまり多くない時に見られるのだが、例えばケイとマクナマラが会話をするシーンでは、丸テーブルを挟んで対峙する2人の背後をカメラが回り込むように動いている。そしてこのテーブルというのは、本作において一つ重要な要素なのではないか。というのも、本作の主人公たるケイは記者たちと違うリズムの人物であり、その社会的立場から落ち着いた席での会話が必然的に多くなるのだけれど、その際に彼らが囲むテーブルの位置関係、もしくは立っていることと座っていることの関係が面白いのである。例えばベンとコーヒーを飲みつつ仕事についての対話をする場面において、二人は対面こそしていないが隣り合うという距離でもない。取締役会議でケイは一人でスーツの男に囲まれるような雰囲気で席に着くこととなる。フリッツとは机を挟んで立場こそ上下の位置関係だが、目線は別だ。株式公開の場でケイは扉を開いて単身男たちの社会の中へと階段を上り、彼らに向けて上から話しかけるための席へと着く。そして既に述べていたように、マクナマラはその関係性の揺らぎから対立する位置となり、更に上から物申される。これらの、テーブルを挟んだ関係性が最も視覚的興奮を伴って表出するのは、機密文章を掲載するかどうかを決める場面でああろう。
ここでは電話というアイテムを、緊迫感のある細かいカッティングによって効果的に登場させているのだが、ただ電話を介し話すというだけではなく、視線設計によりベンとアーサーがケイを挟んで対立しているかのような、まるで空間的な隔たりなどないかのような演出がなされている。そしてケイの周りをカメラが回りだすと益々一堂がそこに会しているかのようでもあり、意見の噴出する卓の中心に、彼女が孤軍として一人立たされているかのような錯覚を起こさせるほどだ。勿論、本作は激しくも綺麗に情報が整理された会話劇としても一級品であるがゆえに、このシーンは白眉として一つのクライマックスを迎えている。
本作でのケイは記者たちとも他の経営陣とも違い、その経歴ゆえに「あるものをあるべき場所へ戻す」性質に揺らぎがある。だからこそ彼女は中心で孤独に決断することを強いられるのであるし、その決断の重さに感動するのだ。このような決断のシーンはもう一度繰り返され、そこでもやはり席に着く彼女を役員や弁護士らが取り囲んでいるものの、やがて席を立ち背を向けて言葉を発するその時、そこにもう揺らぎはない。はじめ、ケイの前に開かれた道はなく、男たちが壁のごとく立ち並んでいたわけだけれども、自らの決断によって道を作り出したということが、最後には視覚的に認知されることとなる。



一人の男が持ち込んだ事実を一つの新聞社が暴き立てる。その灯を絶やさないようにと連日の報道が引き延ばす。無名の女性が引き延ばす。社を超えて引き延ばす。無数の信念が一つの決断によって広まる。発行という希望が機械の振動を伴って画面に表出する。多くの作業員のつながりを経て事実が知れ渡る。広まった灯が更なる光となる。この過程は、一つの室内を捉えた長回しが多用される前半から無数の空間を繋ぐ編集へと移行する後半という、画面上の移行によっても理解できるだろうし、巨大な機械が延々と動き続ける様子からも連鎖のモチーフを見受け取ることが出来るだろう。そしてさらにこの作品は『大統領の陰謀』へと映画史を遡って連鎖しさえもするのであって、近代史から現在へ、映画から映画へと繋ぐその丹力にも恐れ入る。傑作。

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