リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アウトレイジ 最終章』を見た。

太刀魚の味

2010年に公開された『アウトレイジ』シリーズの3作目にして最終章。監督は北野武北野武西田敏行塩見三省、白竜、金田時男らが前作に引き続き出演し、大森南朋ピエール瀧大杉漣らが新登場となった。


山王会と花菱会の対立の果て、韓国の済州島に移り歓楽街を仕切っていた大友(北野武)の下へ、ある日「女が気に入らない」と日本のやくざから文句が入った。花菱会の花田(ピエール瀧)と名乗るそのヤクザは、女を殴ったために逆に大友から大金を請求されるものの、要求に応えず大友の部下を殺し、日本へと帰ってしまった。帰国した花田は花菱会若頭補佐の中野(塩見三省)より、揉めた大友は張(金田時男)という会長が率いる、韓国一の巨大グループであると知らされ、急きょ詫びを入れに行くととなるが・・・

前作の感想にも書いた内容ではあるが、やはり今回も黒塗りの車に被さるようにタイトルが出る。1作目は列になって疾走する姿。2作目は海から引き揚げられる姿。そして今回は、異国の地を緩やかに走る姿に被さってタイトルが出る。1作目を見たときにまず驚かされた、あの黒の威圧的な色気の素晴らしさは今回も健在であるものの、しかしそれまでの陽光の下とは違う夜の雨とネオンの反射によって、車は異なる黒を見せている。そしてまたこの車の扱いは主人公たる大友という人物の立ち位置を示してもいるのだが、『最終章』では黒塗りの車よりも前に、不思議な、開けた画面での釣りのシーンが入っている。無論、北野武監督作品として見れば海の光景なぞ何も不思議なことではないものの、アウトレイジシリーズとしては異質に思えるこの場面は、まるでヤクザとは無関係な、銃も不要の、一見して死とは無縁のように思える世界である。しかしやはり北野武の海は死と無関係でいられないのであって、釣りという、引き延ばされ繰り返される北野武的遊戯の時間は、存在しないはずの太刀魚によって唐突な死への予感を示す。



このようにして、大友は白の軽トラックが走る世界から再び黒の高級車の世界へと戻ってくる。しかしながら大友が、単純に以前と同じようにヤクザの世界の中へ戻って来たとは言い難い。というのもアウトレイジシリーズにおけるヤクザの世界とは権力争いと陣地取のゲームであって、情念ではなく、欲望ともどこか違った、ほとんど組織の理論として殺しや恫喝が行われている。だから西野に利用されつつも組織には属さず、また前作で死んだ刑事・片岡の駒になるようなことも、木村の義理に応えるよう事もしない大友は、ゲーム上に存在しながらもヤクザの理論からは外れた立ち位置に居ると言えるため、以前とは違うと言えるのだ。
敢えて言うならば彼は死者のために行動しており、だからこそなのだろうが、大友自身からも生きている者の感覚が薄いように思える。ただしだからといってまるで死者だというのではなく、死の機能を果たす使者のように見えてくるのだ。彼は死によって召喚され、純粋に暴力を果たす装置として現れては死の機能を果たし、死に去ってゆく。おそらく初めに海が映されたのも、北野武作品に頻出する海が持つ死のイメージあってこその海なのであり、そこに留まっては、自らの使命を果たす機会を彼岸で待ちわびていたのであろう。
そんな中において大友と共に釣りをする市川については、北野武作品共通する特徴の一つである二人組の関係性に当たる人物であるといえるだろう。例えば本作の白眉でもある、黒い車が日の光に照らされた、色気が漂うような屋上駐車場のシーンにおいても、最早作品名を出すまでもないほどに、いつものように二人は横並びで登場する。付き合わせてしまうこと、という点でも(この点は李もそうだが)類似性を見ることが出来るかもしれない。そうして大友は最後『ソナチネ』のように帰宅を拒絶し、市川は『あの夏、いちばん静かな海』のように1人海を前に取り残されることとなる。そうして待ちぼうけする側となった市川が釣り上げるのは、ごちそうすることを約束していた太刀魚だ。この、本来ならば大友に食べてもらうはずであった太刀魚が「食べてもらえない」ことにこそ不在は強調されており、それは自ら頭を撃ちぬいた姿よりも鮮烈に、最終章であることを告げていたように思われる。



ところで、「食べる」というのは1作目から多くの場面で繰り返されてきた要素であって、それは前作の感想にも書いたことである。しかしどうもこのシリーズにおいては、「食べる」ことというよりもむしろ「食事の場」が登場すると言った方が適切ではないか。というのもヤクザ達がその食事の場においてしていることといえば密談であり、それは食事を楽しむと言ったような喜びからは程遠い行為だからだ。おそらくはその場というのが程よく外部と切り離されつつも、団らんと呼べるまでの親密さは獲得していないからこその密談なのであろう。そして逆に広く自分を知らしめたいときは例えば飲み屋やホールなどの開かれた空間の共有を強要することになる。
「食べる」ということに関しては、焼肉屋ではその場があだになったという面もあるけれども、もう一つ思い出すこととして、「食べる」ことを中断させられる者達がいるということである。本作であれば原田泰造じる丸山がそうであり、前作であれば新井浩文桐谷健太演じるチンピラであり、つまるところ、密談とは関係のない、若いヤクザ達の食事である。彼らに共通しているのは、なんの期待もかけられていなければ、同情があったとしてもわずかなものであるという点だろう。そこが深作欣二諸作品との大きな違いの一つでもあって、権力闘争に青春の挫折が重ねられるのではなく、老境の摩耗が見えてくるようなのである。



特に本作において、老いというのは要となる要素であろう。例えば、役者本人の衰えによる隠しようのない変化はむしろ利用され、例えば西野の斜めの座り姿など、肉体表現という点において非常に効果的ではある。しかし正直に見せつけられる身体の老いた様に対して心情がはっきりと全面に出ることは少なく、淡々とした語り脅しや、延々と続くゲームの中で、心情を奥底へとしまいつつ消耗していったような疲弊した顔が目に付く。また今まで以上に携帯電話が登場するのも、北野武映画らしいと思われていた、「歩くこと」の困難さが見えてくるようである。
そんな顔の破壊こそ今回大友が成し遂げた暴力である。北野武作品では顔への暴力はもともと多いけれども、今回はより明確に、顔を破壊せしめんとしているように思える。なぜならば、もとよりアウトレイジは顔のアップが多い作品であって、それを終わらせるならばその顔を破壊するしかないのだ。1作目のような乗っ取りも、2作目のような陣地の拡大もないまま浮かんでくる見知った顔達を、ただ粛々と顔を消滅させてゆくのが本作である。
龍三と七人の子分たち』において北野武は遊戯に参加しておらず、その姿に諦観と疲労を感じた。それは『アウトレイジ ビヨンド』からの流れとして受け止めることができたし、本作もやはり同じ流れの中にあって、一応の終わりが描かれてはいたけれども、おそらくは今後もこのテーマからは逃れられないような気がしている。こういった作品の流れを考えるにつけ、作品内の登場人物とは裏腹の作家的な素直さが見えてくるようであり、異色作とも思えた『アウトレイジ』をこのような形で終わらせるのもまた、反動としての素直さを感じるところでもあった。