リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『凶悪』を見た。

深淵を覗くとき
ある死刑囚の告発から真相を暴き、首謀者逮捕に至るまでを綴ったノンフィクション小説「凶悪 -ある死刑囚の告発-」の映画化。監督は長編映画はまだ2作目の白石和彌。事件の真相を追うジャーナリスト役に山田孝之。事件の真相を話す死刑囚にはピエール瀧。そして事件のカギを握る、先生と呼ばれる男をリリー・フランキーが演じる。


スクープ雑誌の記者・藤井(山田孝之)の元に、ある日収監中の死刑囚・須藤(ピエール瀧)から手紙が届いた。「まだ誰にも話していない余罪がある」という須藤は、それを藤井に暴いてもらい、事件の黒幕である先生と呼ばれる人物(リリー・フランキー)を追い詰めたいというのだ。初めは半信半疑だった藤井だが、調査を進めていくにつれ次第に真実味を帯びてくる須藤の証言にのめりこむようになり・・・


※ネタバレしています


映画を見るとき、私たちは基本的に傍観者である。登場人物がどれだけ危険な目に遭おうが、観客は安全圏からそれを眺めることができる。興奮と感動はコーラとポップコーン共に、ひと時の娯楽として消費されていく。
しかし、中にはそうではない映画もある。倫理観を揺さぶり、安全圏から引きづり下し、無邪気に楽しむ私たちの喉元に刃を突きつけるような映画も存在するのだ。



『凶悪』は藤井という一人のジャーナリストを通じて、観客もとある凶悪な犯罪を追うことになる。その過程の中で藤井はどんどんこの事件へとのめりこみ、ある時、藤井は須藤と先生の殺人現場を幻視する。そこで行われている行為はおぞましいものばかりだ。須藤も先生も人を殺すことも何とも思っていない。特に先生は「役に立たない老人は油田と同じだ」と老人ホームを眺めながら言う。「善悪はどうでもいい」。金のため、しかも大した金額でなくても、彼らはなんてことなくホイホイ人を殺してしまうのだ。この2人が、私たちの日常の中に実在した悪魔なのだというのが恐ろしい。



須藤の話を聞いた藤井は、「何としてでもこの事件を明らかにせねば。殺人犯を野放しにできない」という思いを強めていく。彼のこの姿は共感を覚えるものかもしれない。しかし、彼が観客の安心感の拠り所になることはない。
結婚をしている藤井は妻(池脇千鶴)と痴呆症になった母(吉村実子)との3人で暮らしており、妻は1日中ずっと母親の面倒を見る生活に疲れ切っていた。しかし、「正義」の仕事に熱心な藤井は、そのことに真面目に向き合おうとはしない。「こんな大事件をほっとけないだろう。死んだ人の魂はどうなるんだ」と藤井は言う。しかし、それは実のところ家の中のめんどくさい事情から避けるための、安っぽい正義感と都合のいい口実でもあるのだ。そして藤井は、ついに須藤から聞いた真相を雑誌に掲載した後、妻からある言葉を受け取る。
「殺人犯を追うのは楽しかったでしょ?私も読んでて楽しかったよ」
テレビで非道な殺人事件が起こったとき、私たちは「うわぁひでぇ」と思いながらも「真相が知りたいな」「現場はどんな感じなんだろうなぁ」と思ったりはしないだろうか。殺人を、安全から消費できる娯楽として私たちは楽しんでいるのではないか。そして観客である僕も、この妻の言葉にに対し「はい、楽しんでいました」と答えるしかなかった。須藤や先生の行う犯罪に不快感を示しながらも、いくつかのシーンでは笑って楽しんでいたからだ。
また同時に、こんな告白も聞くことになる。
「私、お母さんに手を上げるようになったの。もう、罪悪感も感じない。自分がこんな風になるなんて、思ってもみなかった」



確かに、この恐ろしい凶悪犯・須藤と先生は、私たちの日常に普通に潜む悪であるとはいえ、それでもやはり、その価値観や行動は自分たちとは違うと思わせる存在だ。「いやぁ怖いなあ」と、まだ他人事でいられる。しかし、妻はどうか。彼女も自分の利益のため、老人がいなくなることを望んでいる。もちろん殺したりはしないが、最後には藤井の了承を得て老人ホームに、そう、先生が見つめていた、老人ホームという場所に送る。私たちは、あるかわいそうな老人が須藤らに殺されてしまうところを目撃した。極悪非道だと思っただろう。その老人殺害が身内の者による依頼だというのが怖ろしかっただろう。では、妻の心境は、そこからそんなに離れているだろうか。僕には、須藤や先生のしている行為よりも妻の告白の方が重く感じ、人間誰しもが持つ無自覚な「凶悪」さを認識させられた。



そしてこの映画は最後に観客の喉元に刃を突きつけて終わる。先生と藤井の面会。先生は「誰よりも俺の死を望むのは・・・」と言い、人差し指でガラスをたたく。その指先は藤井を突き抜け、私たち観客に向けられている。人殺しの魅力に取りつかれ、「正義」を掲げ人の死を望む藤井を通し、「ほら、お前たちはどうなんだよ」と、そう語りかけているのだ。



そんな挑戦的なこの映画を成功させている最大の要因は、ピエール瀧リリー・フランキーの存在だ。本人の魅力をそのまま反映させつつ、凶悪犯罪者に見せる演技が素晴らしい。ジジ・ぶぅをいじめ殺すシーンなんかは白眉だろう。この2人が起用された時点でこの映画は勝利したのだと思う。「ぶっこむ」「あ、これ関係ねえやつだった」などの名セリフも飛び出していて面白い。
もちろん、徐々に事件に憑りつかれ正義を暴走させていく藤井を演じた山田孝之の顔つき、目つきも素晴らしい。だんだん疲れていくにつれ、非対称な目の大きさが強調されていくのも印象的だ。池脇千鶴演じる妻のくたびれた感じも良い。
撮影、画づくりもなかなか良かったと思う。私たちが良く見る、日常の風景が殺人の現場になったのだという事を画面からは感じさせたし、特にラスト、面会室の鏡に藤井の顔を反射させるカットは意味深でハッとさせられる。殺害シーンだけが緊張感のある場面なのではない。座っているだけの面会室でのシーンにも力がある。最後の最後で先生と藤井を反転させ、藤井こそ囚われているという事を示したショットも良い。



また子供が近くにいるところでセックスしているのをワンカットで捉えているシーンも今時珍しく、非常にいい映画でしかもこの身ではあるのだが、少し残念なのは、この物語が問いかけようとしていることを直接台詞で語りすぎているように思えてしまうところだ。が、そんなことは些細なものであり、さほど問題ではない。役者の力強い演技に支えられた、意欲的で攻撃的な、必見の作品だった。『ゾディアック』が好きな人は間違いなく好きになるであろう、実録犯罪映画の新たなる代表作。是非劇場で、突きつけられて欲しい。

凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

ところで、終盤須藤がキリスト教に入信するシーンがあるのだが、あれはオリジナルの展開なのだろうか。だとすれば『シークレット・サンシャイン』とかなり似ている展開なのだが、どうなのだろう。