リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その10

『堕靡泥の星 美少女狩り』(1979)

鈴木則文監督唯一の日活作品であり、東映の作品と比べるとそのハードさに驚かされる問題成人映画だ。僕は今までロマンポルノは見たことがなく、ロマンポルノ童貞だったわけだが・・・まぁいい経験なのかな。
ある晩、裕福な大学教授の家に強姦殺人鬼が押し入り、妻(飛鳥裕子)がレイプされ妊娠。夫(名和宏)はその事件以降妻を折檻するようになり、子・達也を産んで数年後。妻はその仕打ちに耐え切れなくなり自殺してしまう。それから数十年経ち、美しい青年へと成長した達也(土門峻)は、表向きこそ絵にかいたような好青年であったが、その本性はナチに傾倒する、加虐趣味を持つ悪魔的人間であった。事故に見せかけ父を殺害し、莫大な資産を手に入れた達也は次々と美少女を監禁・凌辱する・・・。
まさに「とんでもない」という言葉がぴったりとあてはまる、美少女監禁凌辱ショーのこの映画は早い話がSMポルノであるが、エロいのと同時に、これは哲学的問いかけも含むような作品でもあると僕は思う。
彼が狙うのは、青年の主張としてテレビで「人を信じることこそ人間の本性」などと宣う女子高生や、大衆という虚像の上に胡坐をかくアイドルとその付き人である。達也は単に犯すだけではない。女子高生には「この主張を書いていた時もどうせオナニーしていたんだろ」と暴き、「青年の主張」を朗読するビデオを見ながらのオナニーを強要する。また、アイドルを調教するときは直接自分は手を下さず、付き人を懐柔・利用することで2人の立場を逆転させてしまう。献身的だった付き人を、アイドルを鞭打つことに悦びすら覚える人間に変貌させてしまうのだ。
なぜ達也はそんなことをするのか。彼はナチスに傾倒し、「アウシュビッツは人間がどれだけ残虐になりうるか、人間が人間の尊厳をどれだけ否定しうるかということのサンプルだ」という高校教師の言葉を、加害者の立場で解釈する。そして「呪われた誕生の俺に必要なのは加害者の道だけだ」と言い、ナチスに関連する書籍の山の中でオナニーをするような男なのだ。そんな達也は、ナチスに倣い、性によって人間の肉体と精神を打ち破ろうとしたのである。
性によってというのは、自分がレイプによって生まれた犯罪者の子供だからというのがあるのだろう。呪われた出生と自覚する達也にとって、レイプは自分自身の存在を肯定するための行為だったのかもしれない。達也と、達也によって調教され変貌していく女性が問いかけるのは、人間の本性とは何かという事なのだ。
暗く救いのない物語ではあるが、鈴木則文監督らしさがないわけではない。例えば「うんこしっこ感覚」。ドエロな映画なのにちゃんと小学生らしい下ネタがあって、あまりに勢いよく吹き出す小便に思わずこちらも吹き出してしまう。小便といえば『聖獣学園』でも踏み絵におもらしをするというシーンがあったが、どちらもフェチというより小学生レベルの下ネタが好きなんだなぁと思わせる感じ。
『聖獣学園』は修道院を舞台にした映画だが、この作品とはキリスト教というワードでつながる部分がある。ヒロインは胸に十字架を掲げ、達也に一瞬の救いをもたらすのだが、しかしそれが真の救いになることはない(遠藤周作の「沈黙」を思い出させるセリフをヒロインは放つが、達也にとっての救いはどこにあるのかわからない)。キリスト教に対する不信は、鈴木則文作品において度々登場し、反権力を根底とする作風においてそれは重要なものだったのだろう。

最後に、濡れ場がちゃんとエロいという事の正しさについて書きたい。これは単に興奮するというだけでなく、それにより、こちらもある種の共犯関係にしようとしているのではないかと僕は思う。「こんな簡単に女性が折れたりしないでしょ」とは思うが、しっかりエロく興奮させることによって、『時計じかけのオレンジ』や『ダークナイト』にも通じる、悪の哲学への陶酔感を、この映画は含ませているのだと思う。「神に反逆するハレンチ」を、是非とも鑑賞してほしい。いやぁ、こんなすごい映画があったとはなぁ。とってもオススメですよ。
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母親が自殺するときの構図とか、どう撮影したんだろうと思わせるアイドルの末路とかいろいろ映像的に面白いところがあるのもいいよね。