リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『フォックスキャッチャー』を見た。

狡兎死して走狗烹らる
第67回カンヌ国際映画祭において監督賞を受賞し、第87回アカデミー賞では主演男優賞・助演男優賞にノミネートされた作品。主演はスティーブ・カレル、チャニング・テイタムマーク・ラファロ。監督はベネット・ミラー


ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得したマーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、大企業の御曹司デュポン(スティーブ・カレル)から彼が率いるレスリングチーム「フォックスキャッチャー」へ招待される。偉大な兄であり、常に添え物のように扱われてきたデイヴ(マーク・ラファロ)と離れ、新たな人生を踏み出すチャンスを得たマークだったが・・・

レスリングとは肉体を密接に絡ませ合うスポーツであり、本作においても男同士が肉体を絡ませ合う様子は何度も挿入される。それはどこかセックスのようですらあり、この映画には馬鹿でかい銃にも象徴されるように、実際性の雰囲気が濃く漂っている。しかしこの性は抑圧されたものであって、銃も取り除かれた状態で登場しているし、また馬が一つのキーとして画面に出てくるが、その馬を御するのは、厳格な母親の存在である。このことから、本作は「男らしさ」の抑圧とも考えられるだろう。さらに言えば、「父性」と「父殺し」、「アメリカ的なるもの」の幻想を描いた映画だとも言えよう。画面のそこかしこにアメリカを象徴するようなアイテムが配置されているが、その内部で行われているのは、その滑稽さの暴露である(ちなみに関連して、本編自体とは関係ないがデュポンの顔が縁どられ、その奥に豪邸が見えるポスターの柄が、ジェファーソン・ニッケルと呼ばれる5セント硬貨のようにも僕には見えた)。



監督のベネット・ミラーは『カポーティ』『マネーボール』においても、ある実在した個人にアメリカという国の一面を重ねて語ろうとしていたように思う。しかし僕が興味を惹かれるのは国についてではなく、個人の姿に対してである。ベネット・ミラーが描く個人とは、トルーマン・カポ−ティにしてもビリー・ビーンにしてもジョン・デュポンにしても、彼らは皆、表面上は合理的に判断する人間に見えるが、内部には不可解な非合理と矛盾を抱えた孤独な人間である。ベネット・ミラーは彼らに寄りそうでも突き放すでもなく、白黒と断定するようなこともない。本作のデュポンにしても、表面上は冷静に事を進めているようだが彼が自分の感情の正体を整理しているとは到底言えず、そんな彼を悲哀と滑稽の間でどちらに舵を切ることもなく描いていたと思う。



ところで本作においてレスリングと密着する肉体というのはホモセクシャルを匂わせているだけではない。例えば互いに信頼し合っている同士、向いている方向を同じくしている同士であれば、彼らの絡み合う肉体にカメラもまた密着している。しかし互いの思いに齟齬がある場合、カメラの距離も変化してくる。この距離感が表すのはつまり、本作における肉体の接触はコミュニケーションの距離感と関係しているということだろう。
ここでデイヴに目を向けてみると、彼はよく、人の肩に触れる。彼はコミュニケーションをよく取ろうとし、それに長けた人物だからだ。また喋りにしても、デイヴはマークやデュポンに比べたらはるかに口数が多い。しかし言葉のコミュニケーションは本作において不穏な空気を加速させるものであり(その白眉がヘリコプターで薬を勧めるデュポンの姿であり、もしくはマークを再び試合へ向かわせる場面で交わされている、聞こえないデイヴとデュポンの会話)、マークがボディタッチや会話を行うというのは、デュポンにしてみれば自身が手に入れることのできない武器を彼は操っていることの証明となってしまう。そうなれば、デュポンとマークの辿る道は、一つしかない。



デュポンの行動は理解しがたいものかもしれない。怪物のように見える瞬間もあるだろう。しかしデュポンから見ればデイヴだって怪物に見えただろうし、あるいはマークはデュポンと何故共鳴し、デイヴに対しどんな気持ちを持っていたのかと考えると彼らの中に渦巻く精神を自分の中にも見つけることができる。本作は完全に掴み所のない特殊な人間の闇を描いた作品というわけではなく、普遍的に人間が持つ不可解さを見つめているのであって、それに気づいたとき、寒々しい風景の中で行き場もなく漂う不穏さが、ふと自分にもまとわりつくような感覚に襲われ心動かされてしまうのである。