リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『007 スペクター』を見た。

空と君のあいだに

007シリーズ24作目でありダニエル・クレイグのボンドとしての5作目。共演はナオミ・ハリスレイフ・ファインズベン・ウィショー、レア・セドゥ、モニカ・ベルッチ、そしてクリストフ・ヴァルツら。監督は前作に引き続きサム・メンデス

MI-6の諜報員007ことジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)はメキシコである男を追っていた。激しい格闘の末にその男と始末したボンドは、男の指にハマっていた指輪を抜き取る。そこにはある組織のマークが刻印されていた。ロンドンに戻り、メキシコで混乱を引き起こした件についてM(レイフ・ファインズ)に咎められたボンドであったが、その行動はすべて前任のM(ジュディ・ディンチ)による指示だったと判明する。その指示に従い、ある秘密組織への会合へ潜入することとなったボンドであったが、そこで思わぬ事態が起こり・・・

※ネタバレ



007シリーズというものは時代の変遷を取り込みつつも、基本的にジェームズ・ボンドという人間像には変化がなかったように思う。しかしダニエル・クレイグという、いささかユーモアや余裕に欠いた硬派な顔をする俳優が『カジノ・ロワイヤル』よりジェームズ・ボンドを演じることになってから、ボンドという人間に変化がみられた。それが時代の要請だったのか、はたまた長寿シリーズ故の変革であったのかは分からないが、『カジノ・ロワイヤル』という仕切り直しから傑作『スカイフォール』までの活躍において、ボンドは変化を取り込みつつ、ボンド映画としての再生を果たし、再びの頂点を迎えたと言っていいだろう。



さて、本題の『スペクター』である。スペクターとくれば当然シリーズ共通の敵組織の名であって、つまり本作はボンドが再生したということをしっかりと確認させる作品になっている。世界を股にかける男の活躍に謎の秘密組織や秘密基地。酒、女、博打。屈強な敵と大がかりなスペクタクル、秘密兵器。そして車。これらがどこか馬鹿馬鹿しさを伴いながら、しかし前作の美しさ、格調高さを完全には消さないまま揃ったのが、この『スペクター』である。『スカイフォール』のロジャー・ディーキンスによる撮影では明暗のくっきりとしたコントラストに見惚れたものであるが、本作で撮影を担当したホイテ・ヴァン・ホイテマの画面にはどこか浮遊感とでも言うか、柔らかさを感じる。個人的にこの作品での、物語も含めた全体のルックと馬鹿馬鹿しさの間には今一つ噛み合わなさを感じ、そこが本作最大の難点でもあったのだが、ここでひとつ余裕を見せたいシリーズにとってホイテマは、ディーキンスよりも適任ではあったのかもしれない。
本作で最も素晴らしいシーンを挙げるのであれば、それは冒頭の長回しである。とりわけ女と別れ2階の窓から外へ飛びだし、屋上を伝って狙撃ポイントへ悠々と向かうボンドの姿に見惚れる。画面奥で「死者の日」というメキシコの祭が行われている中、スーツ姿に銃を持つボンドが余裕の歩きを見せるこのシーンは画としてキマっているだけではなく、『スカイフォール』と『スペクター』を繋げているようにも思う。なので非常にデザインされたこの恰好良さの後に『スペクター』では大がかりな仕掛けとチェイスが始まるし、前作で多用された落下というアクションにしても、今回はソファーでその衝撃が緩和されているのだ。



ところでこの『死者の日』からしてそうなのだが、本作においてスペクターという言葉は、お馴染みの敵組織であるというより、むしろ言葉そのものの意味、つまり「亡霊」として機能していたのではないか。『女王陛下の007』オマージュでもあったオープニングクレジットには亡くなった人物たちの顔が現れては消える。ボンドが行動を開始する理由についても、それは死したMの意志によってである。他にもいたるところに亡霊の足跡は残されており、ボンドはそれらと対峙することとなる。
その亡霊たちをボンドと再度対峙させたのが、クリストフ・ヴァルツ演じるオーベルハウザーだ。彼自身、ボンドにとっては亡霊のような存在であったわけだが、登場シーンの勿体ぶり方はいいものの段々と素性が判明するにつれこの男、とてもその亡霊たちを束ねていたようには見えなくなってくるのが惜しい。その点においても、本作はやはり物語を含めたルックと馬鹿馬鹿しさの間にある溝を埋められなかったと思うのだが、それでも僕はこのオーベルハウザーを擁護したい。かつてボンドと兄弟に近い関係でありながら今や「亡霊」として登場するオーベルハウザーは、ボンドとは違い、愛を受けられなかった男である。親の愛を受けられなかったというこの男はおそらく親のみならず他人からの愛を受けたことがなく、実感としての愛を感じたことがないのではないか。ではそういう人間がどうなろうとするかといえば、手に入れたくなってしまうものなのだ。奪いたくなってしまうものなのだ。他人というものを。だからこそ彼は世界中の情報を網羅し、他人を管理下に置こうとした。自分が得られなかった他人という価値観を、無理矢理手に入れようとしたのだ。これはサム・メンデスの過去作であれば『ロード・トゥ・パーディション』に通るだろう。裏から社会を牛耳る秘密組織の親玉としては確かに小狡く、矮小なキャラクターだが、この歪んだ人間に対し、僕はどうしても親近感を感じずにはいられない。
そんな彼が悲哀を誘うのは最後の場面においてである。どうしようもなく地面を這いずり回る彼の姿を迫力不足と捉えることもできる。しかし惨めに這いずり回る姿を見て僕は少し涙を流してしまった。思えば、この男はボンドと兄弟のような関係といえどもその行動はまるで違っていた。ボンドは自ら危険に飛び込み、世界を生身で体験している。ボンドは本作においてよく空を、水面を滑走している。ヘリコプターであったり飛行機であったりボートであったり、またパラシュートであったりと、ボンドは自ら操縦して乗りこなす。しかしオーベルハウザーは自ら操縦することはない。ただ影を潜め待つことしかできない「亡霊」だ。だからボンドのように自ら飛び立つことのできないオーベルハウザーには、ただ惨めに地面を這いずり回るという敗北しか残されていなかった。それも結局は愛を得られなかった男の暗い欲望の結果であり、愛を得たボンドは颯爽と去っていく。



もちろん、なぜボンド映画でそんな話を見せられなきゃならんのだ、しかもスペクターで。という意見には賛同する。悪役がこの有様なら秘密基地も呆気ないし、どうしたものかとは僕も思う。だがそういうことは抜きにして、とりあえずこのしょうもない悪役に僕は心動かされる部分があったのは事実なのだ。もちろん、他にも屈強な暗殺者たるデビット・バウティスタはその佇まいと持っている異様な形状の銃が素晴らしいとか、モニカ・ベルッチがただセクシーシーンを演じるためだけに出てきて、物語としての意味の無さの結果、ただセクシーだけが残っていることに対しての敬意であるとか、レア・セドゥの美しさであるとか、褒めたいポイントは他にも多く残っているのだが、どうしてもこの悪役の惨めさについては、ちゃんと書いておきたかったのである。

「007/スペクター」オリジナル・サウンドトラック

「007/スペクター」オリジナル・サウンドトラック