リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『バードマン(あるいは)無知がもたらす予期せぬ奇跡』を見た。

ひとめ見たならあとはトブだけ
第87回アカデミー賞において作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞を受賞した作品。監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。主演はマイケル・キートンエドワード・ノートンエマ・ストーンナオミ・ワッツザック・ガリフィアナキスアンドレア・ライズボローら。


『バードマン』というヒーロー映画で世界的スターとなったリーガン(マイケル・キートン)は次なる代表作を手にすることができず、今やすっかり過去の人となっていた。自業自得な振る舞いで結婚に失敗し、娘・サム(エマ・ストーン)からも見放されたリーガンは再起をかけ自身の主演・演出・脚色で初のブロードウェイの舞台に立とうとする。ところが、用意していた俳優の一人が大けがを負い降板。窮地に立たされたリーガンであったが、共演者の一人レズリー(ナオミ・ワッツ)の提案により、実力派で人気もあるマイク(エドワード・ノートン)を代役に抜擢することができたのだが・・・

安易な続編やリブートを生産し一瞬で過ぎ行くエンターテイメントに対して冷ややかな態度を見せるが、しかしただ見下し軽視するようなことはなく、華やかなショービジネス世界や向けられる愛に軽くいじけているようでもある。またネット社会にしても、その薄っぺらさに呆れつつ強大なパワーを見過ごさないし、芸術と娯楽の対立についてもどちらかに傾き片方を貶すようなことはせず、本作は常に皮肉と愛の中間で曖昧な態度を貫く。それはおそらく監督自身が業界の中でどうしたらよいのかと迷い自問自答しているからであって、皮肉が薄いのも愛が足りないのも、本作が業界に身を置く人間が持つ悩ましい問題にまつわる打ち明け話としての側面を持つからであろう。
こういった中間の浮遊感を強調するのがエマニュエル・ルベツキによる疑似ワンカット撮影である。そもそも主人公が浮遊しているところから始まる本作は現実も妄想も演劇も現実も時間も喜劇も悲劇も境目なく浮遊し続ける。全編ワンカットであるかのように見せると決めたのはおそらくリーガンの途切れない問答とエゴと悲惨な現実を追体験させるためであろうが、それだけではなくカメラは時折彼が見ているはずのない風景にも付いて行く。それはサムの、マイクの、ジェイクの狂騒や孤独やエゴであるが、ここに観客を付き合わせることで人は誰でも内面的な現実に囚われており、バードマンは誰の傍にも浮遊しているのだと主張しているようにも思えた。



カメラは登場人物の周りを浮遊するが、その中に不思議なカットがある。それは燃え盛る物体が墜落し、浜辺では打ち上げられたクラゲの肉に鳥たちが群がっているという幻想的な場面だ。これは舞台上で自らを撃ちぬいたリーガンが、病院で目覚める前に挿入される場面である。
まず確認したいのは燃え盛り落下墜落している物体についてで、これは隕石と思ったのだが実はそうではなく、序盤で引用されるイカロスではないか。そして太陽に近づきすぎたがために蝋が解けて墜落したイカロスとは、名声を失ったリーガンのことであろう。次にクラゲに関してだが、劇中、浮気により妻の愛を失い死を望んだリーガンが海に入ったところクラゲに刺され、痛みにのた打ち回り引きはがしたのだという話が語られる。クラゲとは、リーガンの感じていた愛なのではないかと僕は思う。元妻が言うように、リーガンは褒められることを愛と思うような人間であるので、栄光から一転、失墜した際に感じた愛の離散はまさに地獄であったろう。そして死骸となったクラゲを啄もうと集まっているのが、鳥である。見当違いの愛が彼を苦しめたにもかかわらず、それでも死んだ愛の元に群がる鳥は今まで我々が見てきたリーガンの無様で痛々しい姿と重なるように思える。この幻想は、いわば愛を求め迷走した男の走馬灯のようなものである。



リーガンは自らを撃ちぬいた。宝物のように持ち歩いていた、メッセージというにはあまりにも粗末な一枚の紙も捨て、偽物でも空想でもない銃を持った彼が舞台上で思ったのは、愛することも愛されることもなかった世界において自分は作品に命を捧げようという事ではないのか。物語と本当の人生の区別はなくなり、彼自身が作品へ昇華されたのではないかと僕は考える。
病院で目覚た後、それまでと違う明るく優しい光がリーガンを包んでいる。つまりここで彼は讃えられているのであり、迎え入れられているのである。病室は、それまで私たちがワンカットで見てきたブロードウェイとは違う空間である。愛も評価も人気も手に入れたが、画面が証明するように彼は既にその執着から解放されている。目と鼻を覆うマスクの下に隠された素顔に付け加えられた高い鼻は、彼自身がバードマン=ヒーローとなり、過去の栄光とエゴの幻影に別れを告げたという事であろう。そしてその後窓から飛び立ったのは、彼の肉体ではなく解放された魂なのであり、その飛行を見たサムの視線が下から上へと移行したことに対し、希望を見出すこともできるだろう。窓には鳥が、クラゲという死に群がっていた鳥が飛び立つ姿も映っている。



さて、こう長々と解釈の真似事のようなことをしてきておいてなんだが、実のところ僕はこの映画を面白いとは思わない。意味の解明には確かに興味を惹かれ、考える面白さというものがあるとは思うのだが、それをしたからといって作品自体まで必ずしも面白くなるとは限らないのである。
まず長回しについては、確かに凄いと思う。特に最初の数十分については、完璧な統制によって映し出される画面に酔うことが出来なくもなく、特に、できそこないの共演者の頭に機材が衝突し、それを目撃したリーガンがそそくさと控室に戻ろうとする箇所は面白いし、場面によっては演技のマジックが起きているとも思える。だが数十分もすればそれを凄いとは感じなくなり、その後も映像のみで語るような力強い場面は結局登場しない。また何度も廊下を登場させるにも関わらずその構図を生かして重層的な画面は作ることはほとんどなく、もしくは、例えばあれだけの人物と扉があるのだから1人を追い続けるだけでなく複雑に入り乱れさせて見せれば面白いのではないかと考えるも、そうはならないなど、どこをとっても物足りない。長回しの技術力とそれを選択した意味は理解できたとしても、面白さにつながっていたと僕には思えない。個人的な感想としては、これはただ長いだけだ。
物語はもう、一言でいうとパワー不足だ。初めに書いたが皮肉にも愛にも振りきれずどちらも目配せした結果、単に中途半端でパワーがない。思うに、劇中リーガンが犯したような大博打を、この映画自体は仕掛けていないのだ。常に自問自答と自己批判はするものの、それらの言葉はすべて「保険」であるように思えてくる。その煮え切らない態度に「きっとそうなんだろうね」と頷くことも確かにできる。でも僕は理解や納得の先にある飛躍をこそ見せてほしいというのに、本作は最後までそれを見せず、ただ「思わせぶり」で終わってしまう。なので僕は本作に対し、映画の力強さや奇跡を感じたりはしないのであった。

Ost: Birdman

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