リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ゴーン・ガール』を見た。

愛の作家・フィンチャー

2012年に発表されたギリアン・フリンによる同名小説の映画化。監督は鬼才デヴィット・フィンチャー。主演にはベン・アフレックロザムンド・パイク。脚本は原作者自身が担当している。


ミズーリ州。妹とバーを経営するニック(ベン・アフレック)の妻・エイミー(ロザムンド・パイク)が、結婚5周年記念のその日、忽然と姿を消した。人気児童小説のモデルであるエイミーの失踪にマスコミも大々的に報道を始め、警察だけでなく地元住民も動き始める。捜査を進めていくにつれ、不審な人物が浮かび上がってきた。それはエイミーの動向も嗜好も、彼女については何も知らない夫・ニックであった。ニックは容疑を否定するが彼に不利な証拠は次々と発見され、更に彼がいくつもの嘘をついていたことも発覚する・・・

※ネタバレ



夏だというのに全く気温を感じさせない街並みをカメラが映し出し、そこへやたら性急に浮かんではすぐ消えるクレジットが被さる。どこか不穏さを感じさせるクレジットだ。オープニングクレジットに拘りを見せるフィンチャー作品では、『パニック・ルーム』にも似た雰囲気だと思う。その『パニック・ルーム』のタイトルは『北北西に進路を取れ』のオマージュであることを全く隠していないものであったが、本作もやはり、随所にヒッチコック、特に『めまい』『サイコ』からの影響が見られたように思う。



『めまい』はテーマ的に似ている部分がある。しかしヒッチコックとは違い、本作は女性に対する執着を描こうとしたわけではないだろう。フィンチャーが興味を持ったのはおそらく「理想を演じて生きる」という部分であり、それは「いかに生きるのか」というフィンチャーらしいテーマにも通じる。本作には「人から見られていることを意識させる場」が度々登場する。記者会見、テレビ、ネット。これらの場面で「演じられた」人物像は見る側にシェアされ、その姿が真実であるとしてどういう人間か判断される。だがこの演技は、何もメディアという特別な媒体を介してのみ行われているのではない。人間は大なり小なり演技をしており、そしてそれが夫婦となれば、お互い理想を望み、押しつけ、そしてその姿を生きようとするではないかと本作は言うのだ。そしてその夫婦が住む「家」とは、最も他人からの視線を避けられない場であろう。その場において、ニックはいかに生きたか。そしてその結果、エイミーをどうさせたのか。
もう一つフィンチャー的なテーマを見つけることができる。それは他者に操られる恐怖という点だ。不気味な他者(主に殺人者)の掌で転がされるような運命をたどる主人公は、フィンチャーのいくつかの作品によってみられる特徴だろう。それに付随して「情報社会との格闘」もフィンチャーらしいといえるかもしれない。『セブン』『ゲーム』は不気味な他者から与えられる情報の上で転がされる物語だ。『ファイト・クラブ』の主人公が住む部屋は雑誌情報的価値観で構成されている。『ゾディアック』は殺人鬼の情報に人生を操られた人間たちの物語だろう。『ソーシャル・ネットワーク』で情報を構築させた男が最後に見せるアクションは何か。そして『ドラゴン・タトゥーの女』では、情報は武器となった。



フィンチャー作品らしいという言葉を使っておいて映像面に触れないわけにはいかない。人間味を感じさせないカメラもいいが、特に僕はやはり、編集に面白味を感じた。例えば、キスをする二人→唾液検査をされるニックや、シーツというアイテムを使用することで皮肉的な連続性を持たせ過去と現在を流れるように繋いでいく。倉庫でプレゼントを見つけるニックと日記を見つける警察、ニックとエイミーが対決の様相を呈するときのクロスカッティングも気持ちいい。集会場でエイミーの妊娠を知らされるシーンにおいて短いカットを刻んでいくのも、動揺する群衆の視線が交錯しているようだった。
非常に短い間隔でカットを割る場面はもう一か所ある。それは終盤にある本作最大の直接的なショックシーンにおいてである。ヒッチコックの影響については上記したが、ここに僕は『サイコ』の影響があるのではないかと思う。その理由は、細かくカットを繋いでいるというだけでは当然ない。後半から捜索を主にした展開に変更すること、殺されるデジーの佇まい、そしてロザムンド・パイクの下着姿がジャネット・リーを想起させることから、僕は本作が『サイコ』も思い出させる作品だと感じたのだ。



構図やカット割りによってもはっきり対立した二人が、最後は重なってお互い見つめ合うという冒頭と同じ構図で幕を閉じるのは素晴らしい。愛と疑念によって始まった物語は憎しみと対立を経て、共犯と支配によって幕を閉じた。ただしこの円環の果てに愛はないのかと言えば、やはりここにあるのは愛であろう。ニックはエイミーによる支配を受け入れ、そしてまた、実のところ完璧な知能犯などではない反逆者エイミーも「Amazing」であるためにニックを必要としている。つまりこれは理解不能な他者との共依存的関係なのであり、それはつまり、愛の形なのである。こうして「ニック」と「エイミー」は理想の夫婦となる。この関係性が成立するインタビューはとにかく肝を冷やす怖ろしい映像であると同時に引きつるような笑いを促し、かつドン引きさせつつも、しかし何故か涙を流してしまうという、非常に複雑な感情を呼び起こす。強烈なブラックジョークとも取れる本作において皮肉的に見させられるその複雑な感情を一言で表すのは難しいが、敢えて言ってしまうならそれはやはり、「愛」なのかもしれない。



フィンチャーは、彼の作品から連想されるイメージとは違い『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の頃から愛を主眼とした作品を撮っている。その愛とは、基本的に交わることはなく、すれ違うものと言っても良いかもしれない。だが本作においては、すれ違いの先にある愛を描いた。いくつかのフィンチャーらしさを挙げてはみたものの、より重要なのは本作がそういった「らしさ」を含みつつ、フィンチャーが愛についての作家へ本格的に変貌したことであると、僕は考えている。必見。

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 下 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 下 (小学館文庫)