I spent much to be youth
佐藤泰志によって81年に書かれた同名小説の映画化作品。主演は江本佑、石橋静河、染谷将太。監督は『Playback』『THE COCKPIT』などで注目を浴びている三宅唱。
函館郊外の本屋で働いている「僕」(江本佑)は同居人の静雄(染谷将太)と日々自由に暮らしていた。ある夏の日、「僕」は同じ職場で働く佐知子(石橋静河)と関係を持ち、それからは彼女も含めた3人で毎晩気ままに遊ぶ生活を送っていた・・・
普段歩いていても何とも思わないような風景が、光の加減によりこれほど美しくなるのかと冒頭に登場する映画館にて本作を鑑賞した身としては驚かされた。黒い夜の艶やかに濡れた街並みにオレンジのライト、朝になる前の心地よい青、海風なびく昼間の爽やかさなど、この映画は多数の光と色彩の魅力に満ちており、これら光のさまざまな混じり合いによって函館は、映画的な舞台として美しく存在している。
そんな街を歩く二人の男と一人の女の振る舞いが素晴らしい。他愛なく緩やかに漂い続ける気だるい空気感が、身体を借りて函館に定着しているのだ。そして彼らの歩みが不意な動きによって直線からの広がりを見せると、併せてカメラも浮遊するかのような動きをし、画面も不規則に広がってゆく。このような、厳密な計算がないように感じさせるカメラからも分かる通りこの作品は役者同士の振る舞いによって作り出される空気感をこそ大切にしており、そこにマジックが起こっているのだ。だからこそ、なんてことのない時間や空間に、実在としての愛おしさが宿っている。例えばハセガワストアで酒を買い、傘をさして外に出ていく3人のやりとりは意味もなくただ若い。笑いあってビリヤードをする姿が生き生きとしている。カラオケで歌う女と見つめる男の間に流れる空気感。そしてクラブで踊る姿はみずみずしい。
このような一夜のうちの些細な時間は、時に不思議なほどに引き延ばされている。長いワンカットが終わったと思ったら、贅沢にもまだ続きがあるのだ。この時間の感覚は物語や状況を推し進めるための類のショットによってではなく、集まって遊んだ3人の長い夜という、傘を差し並んで歩いた2人の道という、繰り返される暗い部屋で冷蔵庫を開ける1人の部屋というような、それぞれ当人たちにとっての感覚に沿ったようなショットによって引き出されており、そしてそんな時間の感覚こそが、三宅唱監督作品としての特徴なのではないだろうか。
というのも、僕が唯一見ている過去作『playback』もまた作品内における時間の感覚が特徴的であったということもあるが、まずは本作においても編集は監督自身が行っていることと、そしてこの贅沢に流れる、退屈で気だるくも幸福な時間をこそ何より印象的に思い返させる作品となっていることから、それこそが特徴ではないかと思わされるのである。そしてまた恐らく監督自身この時間を愛しすぎたがために、冒頭で「僕」が述べたこととまさしく同じように「いつまでも終わることがない」と感じさせるほど、時間は引き延ばされていたのではないか。
ところで、時間に関連したこととして思い出すのは三つの顔である。「僕」の前に120秒を待って現れた佐知子の顔。佐知子との性交の後に、同居人の静雄を特に気にするでもなく迎え入れ、初めましてと2人が挨拶する様子を見つめる「僕」の顔(このとき二人の姿は画面に映らず、「僕」の表情を捉えた画面の外から声が聞こえるだけである。つまりここでは「僕」の感覚に沿った画面時間が流れている)。そしてもちろん、走りだした「僕」と、彼の発する言葉を聞いた佐知子の顔だ。これらの顔は「僕」という主人公のエモーションの点となっている。はじめ「僕」はただ120秒を待っていただけであり、佐知子と静雄の関係をその出会いからして外から眺め、無為な時間の流れに身を任せる人物であったにも関わらず、彼は最後、120秒を待たずに走りだすのだ。そう思うとこの作品は、なんてストレートな青春映画であろうか。だから曖昧さを感じさせるその後よりも僕はむしろそんな瞬間の躍動にこそ感動したのであったし、身体の振る舞いによって引き伸ばされたモラトリアムな幸福を、曖昧に見据える表情で締めるという構成と役者陣の素晴らしさにも恐れ入ったのである。
- 作者: 佐藤泰志
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/05/07
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