リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『her 世界でひとつの彼女』を見た。

もうすぐ 僕らの 何かが 変わるよ

人間とOSの恋を描いたスパイク・ジョーンズ監督によるSF恋愛映画。アカデミー賞では脚本賞を受賞したほか、作品賞、監督賞、美術賞、歌曲賞、作曲賞でノミネートを受けた。


少し未来の、ロサンゼルス。手紙の代筆を仕事とするセオドア(ホアキン・フェニックス)は1年前に別れた妻(ルーニー・マーラ)との思い出を断ち切れないまま、孤独な生活を送っていた。そんなある日、彼は最新式人工知能型OSの広告を目撃し、パソコンに取り入れた。実際に起動してみると、驚くほどに生き生きとした反応が返ってきた。そのOSはサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)と名乗り、2人はお互いに新鮮さを与え合い、そして恋心が芽生えていくが・・・

リアルと非リアルの瀬戸際を浮遊するような映画だと思う。例えば、服装やインテリア、街並み等の絶妙な非現実感。セオドアの仕事である手紙の代筆。テレフォンセックス。そしてもちろん、OSとの恋。恋の相手は非リアルな存在であるにもかかわらず、存在する気持ちはリアルなものである。さらにセオドアは、元妻に対してもOSに対しても、真にリアルな関係を構築できていない。現実に存在する相手に対し、自分の理想を押し付けてしまうからだ。心のリアルと、世界・他者のリアルとの間にある溝。それがこの映画では描かれているのではないか。



情けなさと内気さを漂わせるホアキン・フェニックスの演技は絶品だし、声だけで魅力を表現してみせるスカーレット・ヨハンソンも、今後代表作と言われるべきほどに素晴らしい。「声」がこんなにも力を持っていることに驚かされる。しかしもし、スカーレット・ヨハンソンをまったく知らない人が本作を見たら、サマンサのことをどう思うのだろう。知っている身からすれば、あのかすれ気味な生々しい声から生身を想像することができるが、知らないとどう思うのか。それが気になって仕方ない。
ところで、サマンサについては、僕は彼女言うあるセリフが気になった。それは「もしアナルが人間の脇にあったら?」という、人間の体をOSであるサマンサが面白がって言うセリフであるが、これはまさか、デヴィット・クローネンバーグ監督の『ラビッド』ではないか。
これは偶然ではなく、意識的な引用だと僕は思っている。というのもクローネンバーグといえば観念的なものが肉体の変化として現れ、現実を侵食していくというのが多くの作品でモチーフとなっているからだ。ならば、本作の疑似的な存在がだんだん現実性を帯びて、セックスまで実現させてしまうというのはどうも共通点があるような気がする。本作は意外にもあけすけなセックス描写があるが、その辺もまさか・・・というのは流石に考え過ぎかもしれないが。



セックスまで実現するOSとの、リアルと非リアルの間にある恋の面白さが特徴的ではあるもの、本作はそれだけでは終わらない。本作では全編に渡ってリアル、非リアルの関係性に貫かれているだけではなく、非リアルは所有され、リアルは手放されていることにもだんだん気がつく。セオドアの代筆によって書かれた手紙は非リアルであるが、読む人の心を動かすリアルとなる。自分の理想的な恋の相手であるOSは、二人の関係性がまるで本当の人間に近づくほど、セオドアの手の中に納められなくなっていく。離婚した妻はリアルな存在として自分を攻撃する。そして届けることのできない離婚届は、現実の関係性を認められていない証拠ではないか。



セオドアは、最後に手放すことを選ぶ。それはつまり、愛とは、相手を所有することではないということなのだろう。人は思い通りになる他人を望みがちだが、それは相互的な関係ではない。相手を他者として認めた先に真の関係性があり、人を愛するとはおそらく、そういうことなのだ。ラストシーンでセオドアの肩に優しく頭を預けるのは、エイミー・アダムス。そういえば彼女とは、一度だけ学生時代に付き合い、すぐに別れた間柄だったらしい。彼女は、幼馴染で結婚した元妻とも、自分の望みどおりになるOSとも違う。彼女とのほのかな予感が、映画を痛みも含めた優しさで包んでいた。少しの不思議さの中で、自分自身の失敗を思い出させ、そして前へ進ませるような、そんな「恋愛」について描いた、いい映画だったと思う。

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