リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その25

『柔らかい肌』(64)
飛行機に乗り込んだ男がカーテン越しにヒールへ履き替える女の足首を盗み見る。そんななんてことはないような視線から不倫への第1歩は始まる。その直後、男はホテルで女と偶然再会する。ここで男は、ホテルの廊下端にずらりと並んだ靴を見る。ここまでくれば、男は女に対する執着を切り捨てることなど出来ない。そうして女をデートに誘い、男はことを成す。執着はこれで終わらない。後日田舎へ出かけた際にジーンズを履いてきた女に対し「スカートの方がいい」と男は残念がる。ここで女は男の知らぬうちにスカートへと履き替えるのだが、スカート姿の女を見たときの男の、情けないニヤケ面ときらもう最高である。そしてその女とベッドに寝そべるシーンでは、男は眠った女の顔よりも脚に愛を注いでいる。さらにその翌日彼らが森でデートをしていると、ここでも男はカメラを構え脚にこだわりを見せる。やたらフェティッシュな性であるが、この部分だけを見て、この映画をフェティッシュな性についての映画であるとは言うまい。というのも、監督の脚に対するこだわりよりも僕には気になるものがあったのだ。それは電気、というより、電気のスイッチである。
本作では何度も、不自然なほどに何度も電気のスイッチを触り、オンとオフを繰り返す。これにどんな意味があるのかというと、それは「隠す」ということと関係しているのではないか。例えば、男が女の泊まる部屋へ招待されたとき、男は女がオンにした電気のスイッチをすかさず消す。手のアップによってのみ描かれたこの「電気を消す」という動作は、おそらくエロティックな意味ではなく「隠す」ということ、つまり「明るみに出してはいけない関係」であることを意味しているのではないか。また、ひとつ前のシーンの、女に魅了され居ても立っても居られなくなった男が電話によってデートに誘う場面。女を誘うことに成功した男は、部屋の電気を点ける。ただ点けるだけではない。部屋にある電気という電気のスイッチをオンにし、うずうずした様子で扉という扉を開けるのだ。ここでは「隠しきれない」思いが電気をオンにさせている。そして終盤、妻に浮気を感づかれた男は、女と別れたのちそそくさと家へ帰り寝室へと進む。ここでは男は寝室の電気を点けない。それは寝ている(ように見える)妻への配慮からだろうか。そうではない。これは「隠したい」という気持ちの表れだ。もちろん妻は「隠させない」ので、電気を点ける。
「隠す」という行為はこの電気のスイッチのみに留まるものではない。「不倫」という不貞行為を描いた本作では、いたるところに「隠す」という動作が多くみられる。そしてそれは写真=フィルムによって露呈し、コートに「隠された」猟銃によって終結する。言ってしまえば本作の物語は、なんてことはない、よくある不倫の果ての悲劇であって、それを映画=フィルムによってつまびらかにさせただけである。「隠す」という行為は愚かな欲望であり、夫婦の寝室を「隠す」ためのせりあがる敷居のように、傍から見ればいささか滑稽なものだ。しかしその愚かな恋愛の滑稽さを、トリュフォーはサスペンスによって消化させている。細かくカットを割り、エレベーターや電話といったアイテムを使い、またしつこく書いてきた「隠す」という、後ろめたい快感を含んだ行為によって、本作は非常に良質なサスペンス映画となっていたように思う。