リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ラブライブ!The School Idol Movie』を見た。

廃校綺譚
電撃G's magazine、サンライズランティス三者による合同プロジェクトから出発し、2013年にアニメ化された作品の劇場版。監督は京極尚彦。出演は新田恵海南條愛乃内田彩三森すずこ飯田里穂Pile楠田亜衣奈久保ユリカ徳井青空ら。


スクールアイドルがパフォーマンスを競い合う「ラブライブ」が、アキバドームでの開催を検討していることを知らされた前回優勝チームμ'sの面々は、ドーム大会実現のため、海外のテレビに出演し、知名度をさらに上げてほしいとの要望を受ける。それを引き受けたμ'sのメンバーは海外でのライブを成功させ、日本での知名度も上がった。この成功を受け、ドーム大会実現のため、3年生の卒業後もμ'sは続けてほしいとメンバーに伝えられるが・・・

スクールアイドルという、学校でアイドル活動を行うことが物語の発端となる作品だが、ここで重要なのは「アイドル活動」という部分ではない。「学校で」という部分こそが『ラブライブ』にとっては重要なのだ。なのでこの作品の中における「アイドル」とは、殆ど形骸化したものであるといっても良い。何故本人達の許可なくグッズが堂々と街中で売られているのか。スクールアイドルは各地に居てそれぞれがラブライブというフェスに参加することを目標としているようだが、この大会や、そもそもスクールアイドルとはどのように運営されているのか。またファンが増えてきたという割には家族とクラスメイト以外のファンがさっぱり映らないが、彼女たちのファンとはいったいどこにいるのか。こういった、アイドルとしての姿や成功・成長についてはさっぱりわからない。しかしそれは先にも書いたように、この作品が「アイドル」を描こうとした作品ではないために切り捨てられた部分である。その代わりに描かれたのが「学校」だ。
そもそも『ラブライブ』は、「廃校が決定した学校を再建するため、アイドル活動を行い人気を得ようとする女の子たち」の物語である。なので当初の目的からして彼女たちは「アイドル」になりたがっていたわけではない。私と私の大好きな仲間、先輩後輩がいる「学校」を救うことこそが目的であって、そのための「部活」として、スクールアイドルを選択した。この「部活」というのも重要な要素であって、2期最終話において彼女たちの練習場所であった屋上に礼をする場面からも、これが「部活」の物語であったいうことは強調される。つまり本作で描こうとしたことの優先順位は「学校」=「仲間」>「部活」>「アイドル」なのである。だがそれゆえに展開としては非常に都合がよく、内輪向けの閉じた世界に居るような印象も受ける。2期最終話の、μ'sによる卒業式の私物化などはその最たる例であろう。全体に曲は良い。



以上がアニメ版に対する僕の感想である。このことを踏まえて劇場版についての感想を述べると、これがまた、強烈に「学校」という「場」に縛り付けられたような映画であった。確かにμ'sのメンバーは今回地元を飛び出し、前半は海外へ、後半は県外へと旅をすることになる。しかしその結果、むしろより彼女たちが「学校」から出られないということが、より印象付けられている。
まずニューヨークへ行く前半部分だが、ここで彼女たちは新しい世界に心躍らせているように見えて、実のところ、練習をし、ステージに上り、屋上に集まるという、いつも通りの行動しかとっておらず、しかも屋上では「秋葉原もニューヨークも同じ」などと零す。更に決定的なのがライブシーンで、μ'sはニューヨークのステージに立っているというのに、所々で背景が学校の風景へと切り替わる。つまり彼女らは海外へ行っても「学校」の中と同じ生き方・感じ方しかしていないのだ。この調子であるためか、画面の面白さにもやはり乏しく、せいぜいアニメ版とは背景がいつもとちょっと違うくらいで、画面が開けていくような動きの魅力はない。唯一の救いは1年生組のミュージカルシーンで、あそこだけは小道具や道路を踊る姿によって多少画面としての見応えはあったものの、画面の動きが一所に留まってしまう、橋をバックにした終り方は良くない。あれではただの、絵葉書だ。
次に後半部分となる大規模なライブについてであるが、μ'sのメンバーは全国各地のスクールアイドルを秋葉原に集結させるため、県外へと赴く。そのようにして集められたアイドルたちは、A-RISEなどのごく一部を除き全員同じ衣装を着て、バックダンサーのような扱いでμ'sと共に踊るのだが、このライブシーンにおいても所々でμ'sの在籍する学校の風景が背景として現れる。全国から人を集めようと、どんなライブをしようと、結局彼女たちは「学校」にしか居られない。
この「学校」という内側へこもる性向は徹底的な他者の排除と重なる。アニメにおいても名のついたの登場人物はほぼμ'sの同級生や家族しかいない。劇場版においてはようやく生身のファンも登場するが、知名度の割には不自然なほどに女子高生しかいない。例えば中盤、空港のロビーに置かれたスクリーンには、μ'sのライブ映像が流れている。しかしその場にいる大人の男性は死んでいるかのような無反応を貫き彼女たちに見向きもせず、女子高生だけがファンとして待ち構えている。先にも書いたように、アイドルという、外部との関わりは必然となる設定なのに、優先順位としては「学校」「仲間」が先になってしまっているため、大人の男という他者を物語に侵入させることができず、不自然な画面を生じさせている。
ところで、このように「学校」を優先させた理由として、青春物語にしたいという思いがあったことは間違いないだろう。限られた時間内だからこその活動とは、劇中でも台詞で、何度も語られる話だ。だがはっきり言ってこの部分は全く成功していない。というのも、彼女たちがいくら「卒業」と口にしたところで、全く卒業するようには見えないからだ。その理由としては、同じ問題をテレビ版でも語っており本作はその焼き直しでしかないことに加え、彼女たちが「学校」の外に出た後どんな人生を送るのか全く以て不明だということがある。「学校」の外には出ず、卒業後の人生が全く描かれないのであれば、結果、別れや期限という要素が薄まるのではないか。卒業に対する表現はここに存在せず、ただ言葉としての薄っぺらな「卒業」のみが残る。そのため、むしろ彼女たちは永遠と「学校」にいるかのようにも見えてきてしまうし、事実彼女たちμ'sはスクールアイドルとして永遠の存在になった。そしてその後の人生は、誰も知らないのだ。



これは不気味ではないか。そう、本作はいささか不気味である。卒業後の人生はなく、「学校」という場から出られないことを宿命づけられた少女たちの物語となれば、それはもう、ホラーだ。
本作をホラーだとする理由はまだある。問題は、クライマックスの秋葉原ライブシーンだ。既に書いたように、このライブシーンでは、A-RISEなどのごく一部を除き全員同じ衣装を着てバックダンサーのような扱いでμ'sと共に踊る。同じ衣装を着て、無個性な笑顔を貼り付けられμ'sと共に踊る無数のスクールアイドルは、はっきり言って生きている人間には見えない。人間の形をしてはいるものの、生き物としての内面や質感はなく、ただ同じ動作を繰り返すだけの、人間らしき何かにしか見えないのだ。その不気味さは同じ言葉を繰り返すRPGゲームの村人と同じである。幽霊と同じである。「哲学的ゾンビ」と同じである。
さらにこのシーンでは秋葉原の街中をジャックしてライブを行っているというのに、ファンの姿はどこにも見えない。道路を、街を閉鎖しての、観客の存在しないライブなのである。一体これはどういうライブなのだろうか。少し前まで湧いて出ていたファンたちはどこへ消えたのか。ここでも他者の排除は徹底されている。μ'sを中心に、無生物然とした全国のスクールアイドル達が観客の存在しない街中のライブで楽しげに踊る。この不気味さがホラーでないなら何か。



最後にもう一つ、ニューヨークで穂乃果が出会う女性シンガーについてであるが、この不可解な存在についてはもはや考える気が起きない。というのも、これは所詮「議論させたい」為だけの存在であって、マイクが2度忘れられようが、それが穂乃果の家に置かれ続けようが、そこには物語上さしたる意味もなければ物語としての機転にも運動にもならない。ただただ、その正体について「議論」させるためだけの馬鹿げた仕掛けだ。こういった無駄な要素や、何もかもを台詞で説明する演出、アニメを焼き直しただけの無意味な展開、映画的快感を欠いた画面から、僕はこの作品を褒めることはできない。しかし、やはりこの作品は不気味だ。その一点だけは僕の心の中に引っかかり続けているために、単なる駄作としては片づけられず、未だにこの作品とどう向き合ってよいのか、分からないでいる。