リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『岸辺の旅』を見た。

ひとつの青い照明
2010年に発表された湯本香樹実の原作を映画化した作品。第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門において監督賞を受賞した。監督は黒沢清。出演には深津絵里浅野忠信蒼井優小松政夫ら。

ピアノの教師をしている瑞樹(深津絵里)の下へ、3年間行方不明だった夫・優介が突然戻り、「俺、死んだよ」と告げた。優介は死後、妻の元へ戻るために旅をしてきたという。そしてその道中で旅してきた場所を、瑞樹と共に見るため、旅に出ないかと誘うのであった。3年間の喪失を抱えた妻は、もう二度と離れたくないと思い、共に旅をすることとなる。

3年間行方不明だった夫が、幽霊になってふらりと帰ってきた。カットの変わり目、影の中に突如として現れたその幽霊は部屋の中、靴を履いたまますっくと立っている。妻はその姿に少々動揺した後、静かに「おかえり」とこぼした。
黒沢清監督最新作はまたもや幽霊が登場する映画であるが、決してホラーではないのだとこの冒頭数分間で明かされる。それどころか、本作の幽霊は生きている人間とまるで変わらない様子で存在している。幽霊は生きている人間と違和感なく関わり、食べて、寝る。人間と幽霊の境界も、ルールも曖昧だ。死者と生者の曖昧な世界、その岸辺を旅する。



この曖昧さは非常に奇妙であるが、しかし奇妙でありながら黒沢清にしては親切な映画でもある。登場人物が何を思って行動しているのか、何を語ろうとしているのかは、おそらく過去作と比較してもかなり納得しやすい。そしてなぜそのような作品になったかといえば、それはしっかりとメロドラマをやろうとしたからであろう。本作は夫婦のロードムービーでありながら幽霊は出てくるし、少ないとはいえ突如介入するホラー要素が強烈なため、やはりジャンル分けの難しい作品ではあるのだが、しかし中心に据えられているのがメロドラマ、感傷的な恋愛劇である。いつになく音楽が大仰なのもそのためだろう。そしてまた、メロドラマの巨匠ダグラス・サークがそうであったように重要なのが照明である。本作の照明は時に優しく画面を、人物を包み、時に真っ黒な空間を作り上げ、時に無機質に光を反射させ、時に挑戦的になってみたりと、光を自在に変えてみせる。
しかし画面を自在に照らし出す光は、映画という技術の奇妙な面白さを際立たせるに留まらない。というのも『蛇の道』のごとく、浅野忠信は何やら教師のような立場から、光について教えている。ここで語られる内容とはつまり、質量がゼロの光とはその存在自体が無というわけではなく、ごく微小な波のように存在しているのであり、そのゼロの集まりこそ世界の姿である、というものであろう。ここでは光と、そしておそらく黒沢作品では欠かさず漂う風について語られているのであって、この2者が、世界と幽霊の関わりであるというのではないか。事実、幽霊はその光量に生者との違いが与えられているし、不意にゆるやかな風が通る瞬間というのは、目に見える形でこそ存在こそしないものの、しかし確かに存在する何かを画面に運んでいるはずなのである。照明の永田英則は『贖罪』『リアル 完全なる首長竜の日』で監督とコンビを組んでいるが、ここでひとつ飛びぬけたようにも思う。
ちなみに光といえばスイッチのオン/オフによる効果も忘れてはいけない。それは浅野忠信が2度目の講義を行うシーン。一つ一つは小さい電灯の光がだんだんと波及してゆき、やがて画面全体を照らし出す。光は、劇中においてそれまで主に風と併せ、儚さとでも呼べるような情感をもたらしていたことに対し、この場面では力強く、そして優しく画面に降り注いでいる。



優しい光と風といえば『トウキョウソナタ』にも見られたが、あちらよりもさらに確かな優しさが感じられるこのシーンには驚かされた。しかし驚かされたことといえば他にもあって、それは例えば柱だ。黒沢清で柱といえば、部屋の構造的に謎の柱だ。何故そんなところに柱があるんだ、邪魔だろ?と思うのだが、これはアクションの支点であったり、画面に立体感をもたらすために設置されている。勿論本作でもそのように用いられている場面もあるが、本作では以前の作品のように、柱や格子を利用した自由な動きをそれほど見ることが出来ない。それよりもこの柱は、夫婦を区切る役割を担っている。柱を支点にして、夫婦が別の空間を持つように設計されているのだ。
この区切りは柱以外にも様々な線で表現されるが、区切りはバスのシーンで爆発する。バスで静かに交わされる口論が遂に頂点に達し、飛び出した妻は道路を斜めに横切る。するとこれもまた黒沢作品ではお馴染みの「垂直の違和感」が登場する。これは例えば『CURE』で萩原聖人が海辺にぽつんと立つ登場ショットや、『蜘蛛の瞳』の杭、『叫』の埋め立てにに建てられた棒、また『カリスマ』の木もそうであると言えるかもしれないが、この垂直の違和感は暴力的雰囲気と破滅の予感を伴いつつ斜めの動作の後にロングショットで収められ、こちら側とあちら側という、夫婦の隔たりを確固たるものにする。
だがこのショットの後、夫婦の間を隔てる線は取り除かれることとなる。そしてその経緯の一つに、夫の不倫相手であった蒼井優との対決がある。いかにも黒沢清らしい、分かり合えない人間同士というモチーフがここでは真正面からの切り返しショットさえ駆使されつつ展開する。ここで妻は、「わかった気がする」という言葉とは裏腹に、夫を「わからない他人」であると認識し、それでも再び会いたいと願い、そうして再会した時、二人の間の線は取り除かれるのだ。線が取り除かれた世界において浅野忠信は、あれだけ忌諱していた行為にさえ及ぶ。境目の曖昧になった世界で、存在するかしないかの微かな存在に対し確かなつながりを求め触れる、その行為が美しい。



意外なことといえば「旅」がある。『CURE』『叫』では、夫婦が交わしていた旅行の約束は果たされずに終わってしまった。しかし今回は旅をする。何故旅をするのか。思えばそれまで旅とは、これまでのことを忘れ、現状を変えたくてとりあえず提案されたものであったが、この「忘れる」ということが重要なのではないか。『叫』は言うに及ばず、黒沢清は数多くの作品で、しかも『廃校綺譚』や『大いなる幻影』のような作品においてまで、忘却する、という命題を盛り込んでいた。そして黒沢作品に頻出する廃墟とは、忘却ということについて暴力的に露見させるための装置なのではないかと思うのだが、とにかく夫婦の旅は、忘却のために提案されてきた。しかしそう簡単に忘れることは許されない。強制的に無かったことにして新しいスタートを切ってしまう人物もいたにはいたが、その時人物はもう、ただの人ではなくなっている。
では『岸辺の旅』はどうであったかというと、妻の「新しくここで生活しよう」というセリフの通り、やはりここでも忘却は示唆されている。しかし結局は夫だけが向こう岸へと行き、妻は戻る。勿論これは、何も変わっていないということではない。これから彼女は、そこらじゅうにあるゼロの集まりと共に生きてゆくのだ。かつて黒沢清監督作品に、ここまで優しい作品があっただろうか。世界を切り裂き視界を変貌させてしまうような恐怖をこそ彼の映画に求める身としては、この優しさに多少の慣れなさを感じつつも、しかし映画という光に触れるメディアだからこそできる表現が詰まったこの作品に、やはり魅了されてしまうのであった。

岸辺の旅 (文春文庫)

岸辺の旅 (文春文庫)