リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』を見た。

巨人、侵入
諫山創による大人気漫画の実写映画化。主演は三浦春馬長谷川博己水原希子本郷奏多ピエール瀧ら。監督は平成ガメラ3部作の特撮監督を務めた他、『ローレライ』などを監督した樋口真嗣

100年以上前、突如として現れた巨人によって人類の大半は捕食され、文明は崩壊した。生き残った人類は巨大な壁を作り、その壁の中で生活していた。エレン(三浦春馬)は壁の中で生きることに疑問を感じつつも、ミカサ(水原希子)、アルミン(本郷奏多)らとともに平和に暮らしていた。しかし、ある日世界は一変した。伝説かと思われていた巨人が突如として現れ、壁を壊し人間たちの住む世界へ侵入してきたのだ。エレンらは対抗するすべもなく、ただただ逃げまどうのみであったのだが・・・

進撃の巨人』を映画化するときに最も重要なことは何か。それは原作に忠実な物語を語ることではなく、当然、原作の絵に似た見た目の俳優・女優をキャスティングすることでもない。最も重要なのは、『進撃の巨人』という作品における全ての発端であり肝である巨人をいかに表現するのかということだ。漫画やアニメであれば、巨人という存在を作品の中に違和感なく描くことも可能であろう。しかし実写となれば、質感の問題などハードルは相当に高いはずだ。なのでこの部分さえうまく出来ていれば少なくとも最低ラインはクリアしたということになるし、この部分がうまく出来ていなければ、実写化は失敗と判断できてしまうことになる。
では本作はどうなっていたかというと、初めに画面に現れる人体模型風の巨人こそ微妙だったものの、その後にわらわらと出てくる巨人は本当に気持ちが悪くグロテスクである。しかもその巨人たちは容赦なく人を喰い、血肉をまき散らす。限りなく人間だが、しかし畸形チックで異質な皮膚に覆われた巨人たちは、「でかい人間」ではなく、「怪物」として人を喰うという残酷さ、気持ち悪さをしっかりと表現していた。ここがまず素晴らしい。人を喰う怪獣といえば『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』を思い出すが、ここまでアグレッシブに血をまき散らし喰い回るというのは見たことがない。喰われる直前の人間のリアクションがこれまた嫌な間で描かれているのも良いところだ。ちなみに人が死ぬシーンにおいて嫌な間で繰り広げられる、残酷とギャグの薄皮一枚での共存はスピルバーグの諸作品に通じる要素だろう。
そして特筆すべきは終盤、ある理由から巨人と巨人が激突するという展開になるのだが、このシーンはまさに「こういうのが見てみたかった!」を見せてくれる。アニメで当該シーンを見ているときも、「おそらくこれは『ヱヴァンゲリオン』の後継者で、怪獣映画的なことをやりたいのだろうな」と思っていたのだけれど、となればそれは監督お手の物。技術の粗が見えたとしてもハリウッドが何倍のお金をかけてもできないようなことをやってやろうという気概も感じられて感動した。



巨人に関しては原作を踏襲しているように感じたのだが、物語はいくつか改変がなされている。特にエレンとミカサのキャラクターは原作と大きく違う。これは僕にとっては嬉しいことで、原作のエレンと、エレンが周囲のキャラクターに及ぼす影響については全く納得がいってなかった。エレンは熱血というよりどう考えても他人と共存できない超強硬派の狂人でありながら、周囲はなぜか彼に引きつけられたりということが何度かあったと思う。そしてミカサはただエレンに付きそい、彼を守るという都合のいいキャラクターだ。
そこを思い切って、エレンを自分が置かれた閉塞的な状況になんとなく憤りを感じているという、青年が抱く普遍的な不満を持ったキャラクターへと変更したのだ。それを象徴するように鳥が登場するわけだが、これはどことなくニューシネマ的なキャラクターで(しかも定職にありつけない)、本作の脚本を担当した映画評論家の町山智浩が好む形なのだろう。
実際にはどのように脚本が書かれたのかわからないので推測するしかないのだが、他にも町山智浩らしいと思う箇所はある。それはエレンとミカサが再開する場面だ。エレンは、一度失ったミカサをもう一度失ってしまうこととなるのだが、ここでエレンの弱さ、ふがいなさを表すのに、いわゆる「寝取られ」を用意したのはなんとなく好みなんじゃないかと思わされるし、おそらく今後はエレンにとって通過儀礼のような話になってゆくと思うのだが、そのためにひたすらエレンを精神的・肉体的に堪えがたい痛のなかへ放りこんだのだろう。もちろんこの痛みと屈辱というのは、「駆逐してやる」という台詞を発しエレンが反撃を食らわせる引き金にもなっている。ちなみに「寝取られ」の直後に同じ仲間とセックスしそうになる展開は、「自分が死ぬかもしれないというときに子孫を残そうとするのは自然」という旨のことをリメイク版『日本沈没』公開時に書いたいたので、まぁそういうことなのだと思う。



ここまで褒めるようなことを書いてはきたが、じゃあこの映画はそんなに素晴らしいのかというとそうでもなくて、ダメなところも多い。まずこれはやはりと言うべきか、設定の改変こそ良かったものの基本的にドラマパートはアクションシーンと比べて出来が明らかに悪い。演出は平凡で編集はもたつき、セリフも辛いものがある。それでもまだ、アクションの途中でメッセージを泣きながら叫んだりして愁嘆場を演出するようなことはないし、登場人物が名台詞らしきことを叫びながら感動的な音楽を流すという愚行を行ってはいないため、擁護はできる。
だがどうしても我慢できないのは、邦画を見ているときに度々、例えば『るろうに剣心』にも登場するのだが、集団で人の話を聞くシーンの演出が酷い。国村隼人演じるクバルが演説するシーンで「シキシマ」という名を出した時に、その場にいる全員がその名を聞くと文字通り「ざわざわ」しはじめるのだ。これはものすごくダサいのでやめていただきたい。それと兵士たちがフェンス越しに家族と対面する場面。あれは必要な場面だし最小限にとどめてあるとは思うのだが、同じ見せ方の繰り返しで少々もたつく。
また本作は98分とタイトな上映時間になっているが、さすがにドラマを削りすぎである。エレンとミカサの関係性を変えるなら序盤にもう少し二人か、そこにアルミンを加えた三人でのシーンが必要ではないか。せっかく美術は悪くないのだから、どことなくホビット庄のようなこの世界の生活様式について描きつつドラマを膨らませることができたはずである。そうすれば、絶望もより深いものに変わっていたのではないかと思う。ちなみに98分でタイトとは書いたが先ほど書いたように編集はもたつくので、上映時間とアクションパートとの時間比の割には語ることのできている部分が少ない。
細かい部分では中盤の子供巨人を見つける場面。あれはもっとホラーとして演出するか、存在がバレるバレないのサスペンスをやってほしかった。また目玉がこちらを覗いているシーンも巨人の目だとわかってからアタックまでが長いため、ショックが薄れているように思う。



ところで本作のドラマにおけるキーワードは自分のものを「渡す」ということだろう。エレンがミカサにマフラーを渡す。アルミンが少年に自作の機械を渡す。サーシャに食べ物を渡す。シキシマがリンゴを渡す。兄弟がサンナギに人形を渡す。「渡す」というのは情愛の表れと言えるのだろうが、物資のない世界においては我々が生きている世界より重い意味を持つのかもしれない。まぁ、リンゴについては、その場面でのセリフからミルトンの『失楽園』に登場するサタンが言う「神の奴隷ではなく地獄の支配者となることを選ぶ」ことの表れとも考えられるのだが、それが情愛の受け渡しであろうと悪魔の誘いであろうと、エレンたちがこの後どういう局面を迎えるのかは後篇まで持ち越されたわけだ。見る前は相当不安に思っていた『進撃の巨人』だが、今は続きがどうなるのか期待は膨らむばかりである。愁嘆場大会にはなっていないことを願いつつ、後篇を待ちたいと思う。「やってやるんだ」という気合の感じられる作品。面白かった。