リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ブリッジ・オブ・スパイ』を見た。

不屈の人、たちずさんで
スティーブン・スピルバーグ監督最新作。コーエン兄弟が脚本を担当していることでも話題になった。主演はトム・ハンクス。共演にはマーク・ライランス、スコット・シェパード、エイミー・ライアンら。


1957年。米ソの対立が深まる中、ニューヨークでルドルフ・アベル(マーク・ライランス)という男がスパイ容疑で逮捕された。逮捕後もアメリカへの協力を拒んだアベルは連邦刑務所へ連行される。アベルは裁判で裁かれることとなり、弁護人として、優れた交渉術を持つジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)が選ばれた。弁護を引き受ければ自分だけでなく家族にも世間からの批判が集うことを危惧しながらも、ドノヴァンは自由と平等、そして正義の精神から引き受けることを決意した・・・

※ネタバレ


私の顔はひとつだが、私の顔を見る目は一つではない。鏡に映った自分の顔を見ながら自画像を書く男を映し出す冒頭のショットが、まずそのことを伝えている。顔が3つに分裂したアベルという名のこの男は、画家を装いアメリカで暮らしていたが実はソ連のスパイであり、それが発覚したために、FBIに捕らえられる。
アベルの弁護をすることとなった弁護士・ドノヴァンも、その弁護のうちに分裂しはじめる。保険法と交渉術において優れた能力を自負するドノヴァンは、ソ連のスパイを弁護することによって売国奴となじられる。その行為がアメリカの謳う自由と平等の精神に則ったものであろうと、新聞の見出しにはそのように記され、人々の目には裏切り者として映る。そしてドノヴァンもまた、鏡に何度も姿が映る人間だ。その時彼は得意の交渉術によって自らをうまく演じ、そして隠す。鏡は分裂を映し出す。
自らの姿を映し出す装置としては、窓もまた、見逃せない役割を担っていたのではないだろうか。窓といってまず思い出されるのは、銃撃によって割れたドノヴァン家の窓であろう。そして次ドノヴァンが2回車窓から眺める<壁と柵を超える人々>も忘れ難いと思う。窓の向こう側というのは、言うなれば手出しの仕様がない、共有できない者たちの世界であって、窓はつまり、社会というフィルターを通した上での自らの姿を映し出しているのではないか。ドノヴァンは無力にも壁を越えようとする人たちを救うことはできないし、無邪気に遊ぶ子供たちは彼の活躍とは無関係に存在しているし、銃弾を撃ち込まれる窓は社会から彼がどう見られているかの証明に他ならない。
だが窓といってもう一つ思い出されるものがある。それはドノヴァンとアベルの取り調べ室だ。異様なほどにこの室内は、窓から差し込む光に溢れていたではないか。ここで彼ら二人は、何のフィルターを通すこともなく、互いを直接見て共有することにより、一つの関係を築くこととなる。



では、ドノヴァンとアベルはお互いをどう見ていたのか。アベルは質問する「君は私がスパイかどうか気にならないのか」。ドノヴァンは答える。「私にとってあなたは芸術家だ」。ドノヴァンは、政治を超えた自分の信念に従い仕事を成した。その結果彼の目には、忠誠を守る一人の画家の姿が見えた。ではアベルはというと、彼はドノヴァンのことを、「不屈の人」と呼んだ。ドノヴァンのことを有能な弁護士としても売国奴としても英雄としてでもなく、ただただ「不屈の人」と呼んだ。その証として渡されたのが、絵である。あの絵はアベルの目に映った、「不屈の人」としての姿であった。鏡に映りこんだ自分の姿を見ることが出来る彼らの間柄においては、鏡も窓も関係ない。彼らは互いに自らの目を通して理解した相手へ、敬意を表したのである。



鏡、窓による演出が政治を超えた信念による行動を起こす男たちを支えるが、こういった演出面において、巨匠としての余裕すら感じさせる場面は他にも多くある。まずは電話。電話に始まり、電話に終わるような作品なのだが、その電話一本で緊張感を生み出す力は、いまだ衰え知らずであるとしっかりと示している。また既に書いた柵の使い方にしてまたも、例えば『ミュンヘン』の世界貿易センタービルに通じるものがあると言えよう。2回の柵越えでは列車の進行方向が真逆になっていることや、窓の向こう側の人々が進行方向に対しどう移動しているかにも差異がある。冒頭の追跡シーンも見事だ。ほとんど台詞なしでアベルの行動を淡々とカメラが追う様は、貫禄という言葉がふさわしい、見事な演出であった。勿論このシーンはマーク・ライランスの佇まいや仕草あってこそではあるが、この数分間だけで信頼できる。また鏡にしてもそれは人物の分裂だけではなく、東西に分かれる国や、人質の数等、分裂の要素はいくつも散りばめられている。そしてもちろん、キーとなる橋のシークエンスに関しては、張りつめた空気、気高く美しい光、しかしたしかに引かれた線と、見送るというスピルバーグ作品における一つの「らしさ」が見られる、素晴らしいシーンであった。
しかしそれらのシーンと比較し些か不思議だったのは偵察機墜落のシーンだ。どこか『ゼロ・グラビティ』を彷彿とさせる浮遊感のあるシーンではあったが、スペクタクルとして見せるというのではなく、しかし破壊と墜落の恐怖が妙にのっぺりと張り付いたこのシーンは、イーストウッド監督作に漂う不気味さを醸し出していた。イーストウッドとの関連性でいうと、すべてを終えて帰宅したドノヴァンがベットに寝そべっているのを妻が優しく見つめるというシーンがあるが、このあたりもイーストウッド作品らしい部分であった。
巨匠はスピルバーグだけではない。当然のごとく編集を担当したマイケル・カーンは、『リンカーン』で見せた音の連続による繋ぎをさらに大胆に発展させたような編集をそこかしこで利用している。例えば、法廷の「起立」から小学校の授業へ、といった具合だ。そして撮影ヤヌス・カミンスキー。残念なことにその全てのシーンが素晴らしいわけではないとはいえ、要所要所で異様に素晴らしい光を見せてくれる。ちなみにこれはスピルバーグの好みもあるのだろうが、東ベルリンに来てからの画面の力は目を見張るものがある。ついにスピルバーグは、ベルリンの壁を自身の映画内において建設してしまった。
そしてもう一つ。今回は脚本にコーエン兄弟が参加している。実は僕はコーエン兄弟が好き嫌いということに関わらず、これが不安要素でもあったのだが、意外にもすんなりとはまっていたのには驚いた。しかしドノヴァンがソ連大使館に初めて訪れるシーンでのやり取りは、コーエン兄弟作品的な悪夢感があったのではないか。この場において回収されるコートの一件もなかなかに恐怖であったし、面白い演出だと思う。



地味で予定調和ともとれる(実話なのだから当然だが)物語にあっても、スピルバーグがその巨匠たる力量を見せつけた本作は、個人的には『ミュンヘン』以降では一番の出来ではないかと思う。いや、『タンタンの冒険』も個人的には捨てがたいし、『戦火の馬』や『リンカーン』だって間違いなく面白い作品ではあった。しかし本作は、その力量に貫禄や余裕を感じることが出来たような気さえするのだ。その余裕とは、揺るぎない正義を貫くドノヴァンの人物像から来ているからかもしれず、その点を持って、揺さぶり続けるスピルバーグ作品が恋しいという気持ちもわかるが、その揺るぎなさが、どこかジョン・ウェインを彷彿させさえすると言ったら、褒めすぎであろうか。