リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『夜は短し歩けよ乙女』を見た。

歩く姿は夜の花

森見登美彦によって書かれた同名小説の映画化。監督は同じく森見登美彦原作の「四畳半神話体系」や、「マインド・ゲーム」「ピンポン」等で知られる湯浅正明。声の出演には星野源花澤香菜神谷浩史秋山竜次ら。


クラブの後輩である黒髪の乙女(花澤香菜)に思いを寄せる先輩(星野源)は、「外堀を埋める」ため彼女の目に留まるよう日々行動していた。そんなある夜、今日こそは決断した先輩を余所に、黒髪の乙女は飲み屋街へと繰り出し、そこで摩訶不思議な体験をすることとなるが・・・

アニメーションによって自由に誇張された表現が連続する奇妙な作品でありながら、それをポップに見せてくれる。自由自在に変化する描線はのびのびとした世界を作り上げ、それは一見無茶苦茶なようでありながら、しかし混乱ではなく楽しさとして掬われているのだ。本作がそのように楽しさを掬い上げることが出来ているのは、いかに不思議で複雑な事態が起こっていようと黒髪の乙女がその場その場で起こっている状況に行動で対応しているからだろう。黒髪の乙女は次々巻き起こる喧噪の中、立ち止まることなく直線的な歩き姿によって自由に駆け抜けており、そんな姿を通すことによって、見ている側は誇張して創出された目まぐるしい一夜という非日常を、思考ではなくまずはそのまま非日常として楽しむことが出来る。



さてその一夜という感覚こそ、この作品においてもっとも自由に誇張表現されている部分である。数々の出来事が展開するこの一夜は季節の変化さえも受け入れながら幾つもの人生が一同に会する不思議な夜なのである。だからこの夜は、時間が引き延ばされているというよりはむしろ、本来別々に存在しているはずの一夜が重なり合い膨れ上がってしまった夜なのではないか思う。自分で書いていても全く不思議でならないのだが、つまり本来は個々人それぞれの時間感覚によって別々に体験するはず一夜にもかかわらず、ご縁を大切にする乙女の歩きによってそれらが不思議と積み重ねられた結果時間の感覚が失われ、一つの巨大な空間として夜が存在しているかのように思えたのだ。
時間を失っているのだから、当然空間だって自由である。どんなに馬鹿げた装置や状況がそこに登場しようとも、そもそもありえはしない馬鹿げた一夜の話なのだからそんなことは気にするまでもないのだろうし、先斗町という名からそこが京都であることは分るのだけれど、既に書いたように各々の個人的な夜が重なり合ってこの空間はできているのだから、それに従う形でこの京都だって摩訶不思議に存在していたとしても一向に問題はないのだ。



そんな夜の街を何故乙女は自由に歩くことが出来たかといえば、それは彼女がこの夜に至るまでの過程を持っていないからではないのか。重なり合った夜の中で右往左往する登場人物は、皆その右往左往に至るまでの理由や経緯を持っているが、乙女は一所に留まらなければならない理由もなければ、留まっていた歴史も持っていないために、奇妙な重なり合いの間をすり抜けられるのだろう。乙女は街の中へ没入していくように見えるものの、彼女は先斗町という空間に置かれた点と点、人と人とを好奇心で繋いで歩いているのであって、彼女自身がこの空間に一つの点として留まることはない。多くの人とのご縁を大事にし、他人のご縁まで繋げてみせはするが、彼女自身がこの京都の夜の中、「そこに行けばいる」という点にはならないのである。



しかしながら、そんな乙女にも変化が訪れる。それは「風邪」という状態で表されるのだが、ここで「先輩」の登場である。先輩は、黒髪の乙女に対し自らを意識させるためそこかしこで待ち伏せして出会い続けるという、大層くだらない作戦により外堀を埋めることを画策していたのだが、なんとこれは功を奏していたのである。というのも、乙女は自らの内側に好奇心という漠然とした欲望こそあれど、それらの欲望は彼女の心に点在しているものであって、その点同士繋がりあうものではなかった。歩いてゆく中で出会った人々は彼女の外側にあるものなので、彼女にとって繋がりは常に外部である。しかし、彼女が一夜を過ごす一方、先輩はとある絵本の存在を知り、それを手に入れていた。乙女はその行為を知ることにより、先輩と絵本という本来無関係に心の中に存在していた点を繋ぐこととなったのである。パンツ総番長は、とある一つの事柄がそれとは全く関係のない事柄と偶然結び付けられた瞬間のことをロマンチックと呼んだ。乙女についてはその繋がりがロマンチックであるとか、はたまた恋心であると決断するにはまだ早いのかもしれないけれども、少なくとも先輩の努力によって、彼が乙女の内側に入り込んだのは間違いないのだろう。先輩も乙女も知らぬ間にどこかで繋がっていた人物達を経由して、まさしく風邪のように、乙女に入り込んでいたのである。
風邪を引いた乙女には、もうあの夜はやってこないかもしれない。きっと先斗町には相変わらずのメンツが集まっているのだろうが、しかし乙女はもうあの夜とは違う人間なのだ。そんな人生を変容させる奇跡が、目まぐるしくて自由な躍動に満ちたアニメーションによって表現されることの幸福を存分に味わえる、素晴らしい作品であった。