リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『それでも夜は明ける』を見た。

人間性の真夜中へ
黒人奴隷を題材とし、第86回アカデミー賞において作品賞、助演女優賞、脚色賞を受賞した作品。監督はイギリス人のスティーブ・マックイーン。主演はキウェテル・イジョフォー。その他、ルピタ・ニョンゴベネディクト・カンバーバッチマイケル・ファスベンダーポール・ダノ等が出演する他、ブラッド・ピットが出演だけでなくプロデューサーに名を連ねている。


1841年、ニューヨーク州。自由黒人でバイオリニストのソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は妻と二人の子供にも恵まれ、仕合せに暮らしていた。ソロモンは、ある日妻が留守のうちに、ワシントンで行われるショーの演奏を依頼される。興行師と共にワシントンへ赴いた彼は、仕事を終えると上機嫌で酒を飲んでいた。翌朝、彼が目覚めると手足は鎖でつながれ、身ぐるみはがされ地下室に閉じ込められていた。彼は身分を奪われ、ジョージア州からの脱走奴隷として売られたのだ。弁明すれば鞭で打たれる。抵抗すれば殺される。そんな状況の中ソロモンは、なす術もなく南部へ連れて行かれるのであった。

大学1年のときだったか、アメリカ文化についての授業で「Strange Fruit」という曲を聞いた。「南部の木には奇妙な実がなる」とはじまるその歌はつまり、木に吊るされた黒人のことを歌った曲であった。今思えば、それがどれほど暴力的な光景であるのか、曲を聞いただけではまだ、理解できていなかったのかもしれない。
苔垂れ下がる大きな木から出る枝に、男が吊るされている。ぬかるんだ土にかろうじて届くつま先は落ち着きがなく、男はしきりに体を震わせていた。白人が、この「お仕置き」を放置したままでその場を去ると、背後に建てられた小屋から、男と同じ奴隷たちがおそるおそる外へ出てきた。助けに来たのではない。いつものように仕事をしに出てきただけだ。子供たちが、遊びに出てきただけだ。水を飲ませる者はある。だが、誰もその装置を外そうとはしない。いつも通りの静かな時間が流れる中に、ぽつんと置かれた異物。だがそれは、「奇妙な果実がなっている」だけなのだ。
もはや感情が存在しないようにすら見えるこのシーンには心底恐怖を感じた。ロングショット長回しで映し出されるこの光景の恐ろしさは、今後忘れることができないだろう。また横長の構図に、画面手前奥の人物配置でドラマを作っている点も特筆に値する。本当に衝撃的であった。
全体に、この映画は非常に画面設計の凝られた作品だ。綿花畑、大屋敷、湿地帯、森、木々。まずはそんな南部の美しき風景に見とれてしまう。だが美しいだけではない。時に人物を画面端に配置することで空白になる部分を効果的に使い、台詞ではなく、間や風景をはじめとする画面が物語を語っている。この点において、僕はテレンス・マリックの作品を思い出したりもした。アカデミー賞授賞作だからといってベタな演出をしている作品ではなく、むしろクセの強い作品なのだ。ある人物と出会った後の、ソロモンの顔をじっと捉えたショットも印象に残る。



さて、そんな長回しについては、アカデミー賞で監督賞とオスカーを分け合った『ゼロ・グラビティ』と地獄を我々にも体験させるという点で同じような効果をもたらしているように思う。この映画は、否応なしに我々を奴隷制度の中へ放りこんで見せるのだ。
その地獄の中で、ソロモンが如何に生きるのか。それが物語の肝であると思う。黒人として、不屈の精神を持ち、反抗する・・・わけではない。しかしだからといって、白人におもねるわけでもない。奴隷制度という枠の中で、家族に再び会うためにはどう生きればいいのか。そんなせめぎあいが重要となってくる。
これはソロモンだけではない。彼が農場で出会うパッツィーという女性もそうだし、白人についても同じだと言える。枠の中で、どう振る舞うか。奴隷制度という病がはびこる中で、個人としてどんな選択するか。それがこの映画のテーマなのではと思ったし、そう考えると自分が奴隷になった時だけではなく、憎々しく見える白人たちに対しても「じゃあ自分がここに居たらどうしただろう」と考えてしまう。白人を単純な悪とするわけではない。ソロモンに対してすら、自由人のときは奴隷について深く考えていなかったじゃないかと突きつけてみせる。この映画が心苦しいのは、もちろん残虐な仕打ちに「参加」させられてしまうからだが、見終わった後にこういったことも考えさせてしまうからでもあると思う。
作品がアメリカの歴史を描いているからといって、アメリカ人だけが見ればいいというわけではない。人間はどういう存在か、どう生きるべきなのかということすら、この映画は問うているように僕は思った。それはまるで、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」のようにである。



ところで『それでも夜は明ける』という邦題だが、僕はこれに反対したい。以下少しネタバレになってしまうが、はっきり言って、全然夜は明けていないからだ。原題が示す通り、彼は12年間の奴隷生活で済んだかもしれない。だが、他の奴隷は?例えば、パッツィーはどうだ。農園に残された彼女はその後どうなったのだろう。ソロモンがいなくなった腹いせから、もっと過酷な目にあったかもしれない。彼女の子供はどうだ。おそらくは他の農園に売られたであろうあの子はどういう運命をたどったのか。親子は再会できたのか。夜明けは遠い。
ソロモンだって夜明けが来たとは言い難い。彼だって結局、奴隷体験の本を出したり奴隷解放活動を行ったりしている中で、行方不明になったというではないか。奇跡的に、そう、自由黒人であるうえで更にありえないほど「奇跡的な」運命に助けられた彼でさえ、そんな運命をたどったのだ。いったいどこに、夜明けがあるというのだろう。
ありえないほどに、と書いたが、それを一層ありえなさそうに見せているのが、ブラッド・ピットの存在だろう。カナダ人の彼の活躍があって、ソロモンは自由の身に戻れた。彼の唐突な登場には「プロデューサーだからと言ってカッコつけすぎ」「おいしいとこ取り」なんて声も聞く。だが僕はそう思わない。ブラピは、作品のバランスを崩してまで、ただ自分のイメージのために役を演じるような人ではない。彼の出演作からもそれは分かる。このバランス崩しは、奇跡的であることを強調したかったからではないか。ソロモンは、多くの黒人の中で「奇跡的に」助かった。ここを強調したかったがために、あえて現実感のないキャスティングしたのだと僕は思うのだ(金集めの問題もあるんだろうけど)。
先に書いたように、この「奇跡」によってよりパッツィーやソロモンの悲惨さは強調されている。黒人奴隷というものが、いかに救いのないものかという事を、より強く考えさせる効果があったと僕は思うのだ。奇跡はめったに起こらない。しかも起こったとしても、その先が光に溢れてるということなど、ありはしないのだ。



なんと苦しい映画だろう。見終わった後も、「なんでこんなことに」と思わずにはいられない。しかし思ったところで何ができるわけでもなく、行き場のない思いだけが残り続ける。どうやら僕は、こういう映画が好きらしい。ここ最近の作品賞受賞作の中では、一番好きかもしれない。そんなわけで、これはとてもいい映画だったと思います。おすすめ。

それでも夜は明ける オリジナル・サウンドトラック

それでも夜は明ける オリジナル・サウンドトラック