リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た新作の感想その20

『白鯨との闘い』回想形式でドラマを進めてしまったことが、すべての失敗の原因ではないだろうか。一人のキャビン・ボーイが体験した、ある船での出来事をハーマン・メルヴィルに語るということに、異様なもたつきがある。何故か。画面の流れを断ちきってメルヴィルのパートにいちいち戻るからである。またその回想にしても、船員間の交流などはほとんどないまま、話のポイントは二人の男の対立に偏ってゆく。しかもその対立にしても、前作『ラッシュ プライドと友情』ほどうまくは纏まっておらず物足りなさを感じる。もし回想するのであれば、回想者の視点に合わせてすべて描写していけばいいものの、そうはしない。例えばスピルバーグ作品にもそういうシーンはあるが、この場合問題なのは、この形式のせいで、物語がただ散漫になってしまっているからだ。
そして最大の問題点は、主人公たちが「ある行為」を行うシーンである。その行為自体は、人間という存在に対する理解を覆してしまうほど強烈な行為であるに違いないものであって、目を覆い、避けたくなる気持ちは理解できる。しかし本当に描写を避けるのであれば、それは『ライフ・オブ・パイ』のようなトリックを駆使してでないと、やはり腰が引けたようにしか見えない。先ほども書いたように人物の描写は希薄で、しかも「今から重大なことを話します」という前フリをした上での腰が引けた回想となると、この行為が持つ重みも抜けてしまうのではないだろうか。メルヴィルのパートに戻ってからの妻のリアクションも、あまりに安っぽすぎて不安になる。この腰の引けた様子というのは、鯨の解体は描かず、空洞になった体内へ潜り込むという抑制された描写(しかもそれすらすぐに画面が切り替わってしまう)にも通じる。
回想形式を採用したこと、つまり、メルヴィルが一人の老人の語りをもとに『白鯨』を出版したことまで描いたのにはおそらく、本作を海という新たなる地平を切り開いた者たちによって築かれた、一つの時代が終わりを告げるまでの物語にしたかったからだろう。ほとんど神のごとき神々しさで登場する鯨が牙をむき、身勝手に海を傷つけてきた代償を払わされた男達が、生と死のサイクルの果てに、一つの時代の終わりを感じ取り、それがメルヴィルの手によって世へ出される。そして時代は、新たなる時代へと踏み出していた。こういった物語にするには、たしかにメルヴィルを登場させ、回想形式にするほか方法はなかったのかもしれない。しかしやはりその形式は、少なくとも映画として見せる上ではうまくいっていなかったと思うし、『ラッシュ』と同じような接写をしようとも、マシンの音とエンジンの振動によって高揚感が上がっていくような、あの映像の感覚までは、再現できていなかったように思う。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)



『オデッセイ』「未知のものにうっかり手を出してしまったがゆえに手痛いしっぺ返しを食らう」という、特にここ最近のリドリー・スコット作品の流れにあり、しかも前作『エクソダス 神と王』と地続きだなと思うのは、これが取り残された男の物語だからである。『エクソダス』はトニー・スコットへの、やりきれなさばかりが残るメッセージでもあったわけだが、しかし今回取り残された男を救うのは個人の知恵と勇気と不屈の精神と、その個人を支えるチームの知恵や技術と情熱である、そしてそれらが連携しあった結果の生還、つまりプロフェッショナルな者たちが知恵と技術を武器に、利害を超えて一つの目標に向かった結果の生還だという点に心を打たれる。だから宇宙を舞台にしたSFといっても『インターステラー』のようなロマンとも違い、また『ゼロ・グラビティ』のような恐怖と個人的葛藤とも違った、燃えるチームプレイものとして楽しむことが出来る。そして更にマット・デイモン演じるマーク・ワトニーが火星でしていることといいえばこれは「開拓」であり、宇宙を舞台にしつつも西部劇的な要素、純粋なフロンティア精神が散りばめられているのも面白い。勿論デザインについてはさすがとしか言いようがなく、世界に対してあまりにちっぽけな個人であるというのが際立つショットであるとか、宇宙服にしてもオレンジという温かみのある色彩が、ワトニーという人と作品全体のトーンを支えているように思える。また砂嵐の描写、特に白いダクト内で乱れ暴れる砂の描写が良い。こうしてみると、『プロメテウス』のデザインも『悪の法則』の冷酷さも『エクソダス』の虫襲来も、この作品では精神的な面でのプラスへ転じてきているという気さえしてくる。冒頭の数会話だけでワトニーがクルー間での通信を断たれてしまうほどに会話好きでうるさい奴なのだという情報を入れ、ポイントでその性格を上手く利用しドラマにする展開もうまいと思う。
しかしこの作品で残念に思うのは、火星での生活において、思いのほか遊びが少ないことである。確かにワトニーは陽気だし、地球からの反応をよそに音楽をかけてノリノリな様子は笑える。しかしただ単に音楽に身を任せるというような余裕はほぼ存在せず、ワトニー初めから目標に向かって直進しているため、実は窮屈さを感じる。火星で一人ぼっちなんだからそんな余裕はないと言われればその通りだろうが、例えば『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のタイトルシーンが何故気持ちいかというと、意味もなくただノリノリだからであって(キャラクター描写としての意味はあるが)、そういう遊びには実は乏しいのではないか。ここ最近の、正確に冷徹で均一なリドリー・スコットの視線を好んでいた僕としては、どうせやるならもっとはっちゃけてほしかったというのが、ないものねだりの残念ポイントであった。あと地球側の描写、特にワトニーの作業が途切れている間の地球側の描写は基本的にショットとして面白味に欠け退屈になりがち。並行して行動しているときは良いのだけれど。

火星の人

火星の人