リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『マン・オブ・スティール』を見た。

破壊神降臨
1938年に生まれたアメコミ初のスーパーヒーロー、スーパーマンが、2006年に公開された『スーパーマン・リターンズ』以来何度目かの映画化。監督はザック・スナイダー。主演は『インモータルズ-神々の戦い-』で主演を務めたヘンリー・カヴィル。その他エイミー・アダムスマイケル・シャノンラッセル・クロウケヴィン・コスナーなど実力派キャストが集結。


高度な文明を持つ惑星クリプトンは、長年に渡る天然資源採掘のための乱開発により、惑星崩壊寸前にまで追い込まれていた。指導者のひとりであるジョー=エル(ラッセル・クロウ)は早々から危機を訴えていたが、議会は意見を受け入れなかったのだ。そんな中、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が軍事クーデターを起こし、議会を制圧。将軍への協力を断ったために捕らえられそうになったジョー=エルは、命を賭して生まれたばかりの息子を宇宙船に乗せ地球へと送り出した。それから30年後の地球。その船に乗ってやって来たクラーク・ケント(ヘンリー・カヴィル)は、父(ケビン・コスナー)の教えを守り、自らの使命を見つけるため放浪の旅に出ていた。ある日、クラークは氷河に埋まっているという謎をの物体を調べるためカナダへ行き、そこで自分がクリプトン星で生まれたカル=エルという存在だと知る。

いやー凄かった。何がってアクションシーンがである。超人たちによる超高速肉弾空中戦!ここまで速く、かつ破壊力の高い肉弾戦というのは未だかつてなかったのではないか。ぶん殴って遠くに飛ばした相手に追いついてさらに殴るという高速っぷり。まるで実写ドラゴンボールではないか。もしくはゲームの「Shinobi」や「デビル・メイ・クライ」も思い出す。監督曰く「鉄腕バーディ」というアニメから影響を受けているらしいが、まぁつまり、超人バトルもの最先端の映像だったという事であり、こんなスゲーもん見せられたらそれだけでもう一応満足というものである。
だが、そんな面白い見せ場があるというのに、全体としては乗りきれない映画であった。以下ネタバレ。



テーマも良いと思う。力を使う事への苦悩が本作では描かれており、そこに「選択する」という事の重みが加わる。そしてそれがゾット将軍との対比となるわけだが、そのゾッド将軍の設定が凄く良い。『冒険篇』の「俺はエライ。ひれ伏せ」もカッコよかったが、使命を背負ったがゆえに悲劇的運命をたどる今回のゾッド将軍は泣かせるのだ。最終決戦で自らの鎧を脱ぎ捨て襲いかかるシーンのかっこよさたるや!
その他のキャラクターもいい。ラッセル・クロウケビン・コスナーという、二人の父親は流石の貫録を見せる。特にケビン・コスナーは押さえた演技で泣かせてくれる。ヒロインのロイス・レインを演じたエイミー・アダムスは可愛いしちゃんと年上だ。ゾッド将軍の女性側近ファオラは『冒険篇』にはあったお色気がなくなっったのが残念だが、カッコよさは健在。そしてそんなファオラに肉弾戦を挑もうとする大佐(クリストファー・メローニ)。彼のかっこよさも忘れてはいけない。



このように映像もテーマもキャラも良いのに何故乗れないのだろう。その一番の理由は「語り方」なんだと思う。本作は回想を随所に入れるという形式を取っており、それは全てクラーク・ケントの傷をなぞる回想になるんだけど・・・どうもこれがうまくいってないように思う。時間が無駄に交錯し、本編の流れをぶつぶつ切っているようにしか感じられず、映画全体を効果的に盛り上げるているとは思えなかった。淡々としてメリハリも感じられなかった点も僕は好きではない。
スーパーマンとしてどうか、という問題もある。過去作と比べて、という話ではない。あれだけ街をぶち壊しておいて、彼をヒーロー(救世主)と誰が思うだろう。最後にスーパーマンは殺人を犯してしまうわけだが(もっとそのことの「重さ」を描写しろという文句もある)、その前に散々お前のせいで人死んでるじゃねえか!なんで市街地で戦うんだよ!とも思う。
スーパーマンに対する新解釈は確かに面白い。しかし、その解釈・意味ばかりに気を取られ、リアルにすることで生じる、元々ありえないものであるというファンタジー的部分との溝に僕は疑問を持ったのだと思う。例えば、なんでカル=エルだけあんな色のコスチームなのかも意味がわからない。喧嘩後に車を破壊するシーンもユーモアで許されなくなっている気がする。
それと本作で一番ズッコケたのは終盤、ヘリの中でのシーンである。作戦に必要な装置がなかなか作動しないという緊迫したシーンなのだが、ある科学者の、非常にどうでもいい行動ですべては解決する。それがほんとに馬鹿馬鹿しいもので、もうガッカリというか、呆れるというか、残念な感じなのだ。



話は飛ぶが、少年時代のクラークがプラトンの本を読んでいることがわかるシーンがある。何故プラトンなのか。その理由について、ちょっと考えてみた(間違ってたらごめんなさい)。まずプラトンは理想的国家には3つの階級(哲人君主・軍人・生産者)があるとし、それぞれ役割を全うするため、幼いころから能力で選別し、専門に教育させるのがいいとしていた。これはクリプトン星の制度そのものだ。ちなみに君主は哲学を学び、善のイデアを知った者がなる。
もう一つ、プラトンの思想をこの映画からは見つけることができる。それは洞窟の比喩と言われているものだ。簡単に言うと、<人々は洞窟に囚われており、人外の世界にある太陽=真実(善のイデア)を見ることはできず、太陽によりできる影を実体と思い込んでいる。しかしある人はそこから抜け出して太陽のある方向を目指す。最初は目が眩むが、だんだんと慣れ、太陽を見ることができる。しかし、その本質を伝えようと洞窟に戻ると視界は暗黒に満たされ、人からは笑われ、解放しようとすると処刑されかもしれない>といった内容だ。これはスーパーマンと地球人の関係に当たるといえないだろうか。スーパーマンは指導者として人々に道を照らすことができる存在かもしれない。しかし、人々に力を見せるのは無理かもしれないという葛藤を、プラトンの書物で表現しているのだ。



というわけで、そういった意味付けは別に嫌いじゃないし、非常に画期的な戦闘シーンも見どころではあったのだが、どうにも不必要に重いトーンや語りの効率の悪さから乗りきれない映画だった。ただまぁ、本当の活躍は次回からなのであり、彼はまだ国家の脅威ではあるが、次からは真のヒーローとしての活躍を見ることができるのだろう。レックス・ルーサーも出るだろうしね。というわけで、一応続編には期待しておく。

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