リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『悪の法則』を見た。

ほら、ここはもう、死の世界。
巨匠リドリー・スコット監督最新作。脚本には『血と暴力の国』『ザ・ロード』などの小説でも知られるコーマック・マッカーシーが参加。キャストもマイケル・ファスベンダーブラッド・ピットハビエル・バルデムキャメロン・ディアスペネロペ・クルスと豪華な面子勢揃い。


メキシコ国境に近いテキサスの街。「カウンセラー」と呼ばれる若き弁護士(マイケル・ファスベンダー)はフィアンセ(ペネロペ・クルス)との結婚を控え、今まさに幸せの絶頂にいた。しかし、カウンセラーは内緒で実業家のライナー(ハビエル・バルデム)とともに新しいビジネスも始めていた。それは裏社会のブローカー、ウェストリー(ブラッド・ピット)も一枚噛んでいる仕事で、巨額の利益をもたらす一方、危険も底知れないものであった。そしてある事件が起こり、カウンセラーは全く身に覚えがない件によって「組織」に命を狙われる羽目となる。

対話の映画である。しかもその対話が難物で、何気ない話から緊張感のあるやり取り、そして下世話まで多様なセリフが劇中積み重ねられていくのだが、これが示唆的であったり哲学的でもあるのだということは、映画を振り返るとわかるようになっている。この対話の読み解きこそ、この映画の醍醐味だろう。
対話の意味するもの、それはこの恐ろしい世界の不確かさと不条理さだ。普段見えてはいないが、確かに存在し、触れてみようと一旦手を伸ばしてしまえば、否応なしに引きずり込んでいく世界。その存在を、この映画では会話によって徐々に認識させていく。ただ、認識とは言っても直接その姿をとらえることや、その全貌を把握することは結局できない。登場人物は何らかの働きを通し、そのあまりに不条理で恐ろしい世界を痛感するのだ。
例えば、キャメロン・ディアスハビエル・バルデムの前で<真の意味でのカーセックス>を見せるという、本作屈指の名シーンがある。はじめはそのあまりのとんでもなさに、私たちもハビエル・バルデムと共にその光景を口あんぐりと眺めている事しかできないだろう。しかし、このシーンが意味するのは「ガラス1枚越しに行われている世にも恐ろしい出来事」であり、それは「触れようと思えば触れられる」が「触れてしまうにはあまりにおぞましい」事なのである。そしてその世界は「いつでも誘っている」という事をあのシーンは意味しているのだと僕は思った



映画前半はその「世界」がじわじわと登場人物達の周りを逃げられないように囲んでいく空気を作り上げ、ある事件から一転。後半はそれが一気に襲い掛かってくる様子を描く。ここで問題になるのは「選択」だ。一度選択してしまったことは取り返しがつかない。そのことをこの映画は陰惨な暴力を交えながら描いていく。
ここでまたカーセックスの話に戻る。ハビエル・バルデムはカウンセラーにこの出来事について何故か話してしまう。「聞かなきゃよかった」「話さなきゃよかった」と2人は言うが、それはもう、取り返しのつかないものなのだ。
「選択」の果てにたどり着いた世界。たとえそれがどれだけ不条理なものであったとしても、今、ここにはその現実しか存在しない。悲しんでも意味はない。わかったな。だから、受け入れろ。救いの手を期待するな。それが世界だ。カウンセラーはそのこと理解していなかった。だから彼だけは、その件についての罰を受ける。



残酷で無慈悲な世界において不条理や悪は常に待ち構えており、私たちは直前の選択ではなく、それ以前の無数の選択の結果として、気づかぬうちにそこに辿りついてしまう。それはもう、取り返しはつかない。ギリシア悲劇を思い起こさせるような、このどうしようもなさ。それがこの『悪の法則』であり、それは多分、コーマック・マッカーシーの世界なのだろう。全編を支配する対話の、それが意味するものもさることながら、いちいち印象的でカッコいい台詞からも、本作が脚本の強く出ている作品であるこということは否定できない。
では監督の特徴は出ていないのかというと、そういうわけでもない。リドリー・スコットのドライでクールな画面作りは本作にも見られる。また、トラック奪還の際における銃撃戦などは流石のカッコよさであり、相変わらずの暴力描写も随所に見られて楽しい。室内撮影での陰影の使い方、メキシコのバーにおける暗さなどは特に「らしさ」を感じられた。対決にこそならないが、捕食者と獲物という構図も特徴と言えるだろう。
色彩設計もユニークで、様々な色が登場し、それがキャラクターを語る。例えば、カウンセラーははじめ白いシーツに白い部屋という空間で暮らしている。それは無垢さの象徴だろう。紫の壁紙に青や黄色のシャツといった派手な服装をするライナーは、部屋にはマックイーンのポスター、バイク、レーシングカー、飛行機の模型などを飾っており、これは彼の空虚なカッコつけを意味しているのかもしれない。



このように、思考することを要求する脚本からコーマック・マッカーシーのエッセンスを感じ取ろうとするのは楽しいし、映像からリドリー・スコットの世界を見つけていくのも興奮する。しかし、実のところこの映画の本当に面白い部分は、そんな小難しいことではないと僕は思う。



では何が面白いかって、それは「いやぁ世界って怖いよねえ」(ニンマリ)という悪趣味さであろう。本作は、欲と下世話と暴力によってこの世は地獄だぜと皮肉ってみせる作品であり、「神なんかいやしねえし、いたとしても救いなんかもたらさねえよ」と言ってのけた『プロメテウス』と同じ、触れちゃいけないものに触れようとしたら大惨事が起こるという、楽しい楽しい地獄めぐり映画なのである。続けざまにこんな世界を描くなんて、リドスコ、(トニー・スコットの悲劇の影響もあるのかもしれないが)衰え知らずだなぁ。というわけで、これは傑作なのであった。

悪の法則

悪の法則

ところで、今年4月に函館で首なし死体が見つかったのだが、あの事件は一体なんだったのか。この映画を見た後、そのことを思い出したりもした。