リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ちはやふる-上の句-』を見た。

さしも知らじな 燃ゆる思ひを
末次由紀による大ヒット漫画の実写映画化2部作の前編。主演は広瀬すず野村周平、真剣佑、上白石萌音矢本悠馬森永悠希ら。監督は小泉徳宏


競技かるたに情熱を燃やす綾瀬千早(広瀬すず)は、高校入学と同時に競技かるた部の設立を決意し、部員集めに奔走する。そんな中、幼いころ一緒に競技かるたで遊んでいた真島太一(野村周平)と再会。千早は彼と共に更なる部員集めに走り、なんとか部活動の成立に必要な5人のメンバーを集める。5人の内2人は競技かるた未経験であったが、千早の情熱によって徐々に力をつけ、絆が生まれてくる。そんなある日、太一は幼いころ自分と千早に競技を教えてくれた存在であり、一緒に遊んだもう一人の幼馴染、新(真剣佑)と再会する・・・

しんと静まり返る場内に、上の句を読み上げる声が通り抜ける。畳の上に並べられたかるたを前に、競技者たちは、すっと前傾姿勢を取った。緊張が高まる。そして下の句を読み上げる声が空間を震わせたその一瞬、畳をはじく音が響き渡る。そうか、競技かるたというのはこれほどまでに激しい、映画的に言い換えるのであれば、アクション性の強い競技なのかと驚かされる。序盤こそ、そのアクション性がいかにも漫画的に誇張されるものの、物語が動き出すにつれ、競技かるたは映画という虚構内での興奮を生み出す恰好の題材となる。
そしてまた、競技かるた部の面々が行う練習は殆どが運動に関するものである。かるたを覚えるというような練習にしても早いカットと指の動きで処理し、画面が停滞しないまま、競技かるたとはいったいどういうものなのかが、画面を見れば伝わるように設計されている。そして試合に関しては、緊張感の高まりを切り裂く水平の手の動き、腰の動き、カルタの飛び散り、団体戦における集団としての動きとその反復など、正座して行う競技のイメージに反し、とにかく動きの魅力に満ちている。
次に重要なのが音である。衣が擦れるような微かな音から、畳をはたく暴力的なまでの乾いた音へ。静と動の緊張感が、音により増幅される。そもそもがかるたは百人一首という和歌、つまりは口に出される形態を取る文化であり、中でも競技かるたにおいては、音の連なりによって運動を要請する競技だといえる。したがって画面に響く音には耳を傾けざるを得ないのだけれど、『ちはやふる』では、千早の「音になるまえの音」を聞き分けるという特徴に対して、どれだけ映像が迫れるのかという問題が残る。この問題に対し過度な味付けをしなかったのは好感が持てるところではあるが、草木や水といった自然的なイメージによる、そのある種の神的な意図はわかるものの、より肉体的なイメージの羅列に絞った方が良かったのではないのか、とも思う。



そう思うのは音と呼応して見開かれる目のアップが素晴らしいからだ。そしてこの目へと至る契機となる、髪を耳にかけるという動作についても、やはり素晴らしい。これらは千早の癖だが、それ以外のキャラクターにしても過度な味付けと言動に始めこそ戸惑うものの、練習と試合通じてだんだん役者の表情と動きによるドラマが作り出されてゆく。随所で台詞に頼らない演技、そして目をやる、手を差し出す、手を置く、切り返す、切り返さないというような演出によって、視覚的・肉体的にドラマを紡ぎだす。終盤にも過度な、漫画的と言い換えても良いような表現も見受けられるが、問題はいかにその表現に観客を乗せるかということなのであり、本作に関して言えば、役者の魅力を引き出しつつ丁寧に画面を作り出すことによって、大きな効果をもたらしている。千早を赤のイメージで統一させたもの良い。
さらに撮影については、競技かるたの水平性を全身で捉え、また競技場とそこで横に並ぶ競技者を広く見せるなどシネスコを活用した撮影が映える。競技以外でも、例えば脇を電車が走る夜の道など、記憶に残るシーンは多い。また技術面でいえば、編集の素晴らしさを忘れてはいけないだろう。特にそれが輝くのは別々の場所にいる競技かるた部の面々をクロスカッティングで繋ぐ場面であるが、全篇に渡り競技かるたの静と動の魅力を殺さない、むしろさらに増幅させていくような繋ぎを見せてくれる。



これらは競技かるたという題材に対し真正面から向き合おうとした結果の産物であり、その的確さに思わず感動してしまうのだが、脚本面においてもその素晴らしさはいかんなく発揮されている。はじめ、千早はたった一人で競技かるたを続けていた。しかし競技かるたのために5人のメンバーを集めなければならないとわかったとき、ちょうど上の句が下の句を要請するかのごとき運命と千早の無限の動きによって、登場人物たちは結び付けられる。この「ちょうど上の句と下の句のように」というのがポイントだ。というのも、登場人物たちはそれぞれにバラバラの思いを抱えており、その噛みあわなさは競技においても反映される。しかし本作で行われるのは主に団体戦。つまりチーム戦なのであって、そこでは繋がりこそが勝利への道になる。この展開の上手さ。それを解決に導くのが編集・演出、そして、かるたそのものなのだ。登場人物たちは、ちょうど上の句が、バラバラに撒かれた下の句を導きただ一つを要請するかのように、かるたによってチームとなっていく。
しかしそんなスポ根青春劇的魅力を超え今回の最も感動的なのは、かつてかるたによって犯した大きな失態を、かるたによって挽回するという、太一の最後の一手に違いない。太一は人生において、自らの陣地にある下の句が読まれるのを延々と、ただ待っていたような男だ。だが違う。そうではない。いくら相手の陣地にあろうとも、下の句は取りに行かなければ意味がないのだと彼は気付く。自らバラバラにして置いておいたままの上の句と下の句を、自らがもう一度繋げに行くと決意したそのとき、本作が積み上げてきた全ての要素が一気に突き抜ける。青春・恋愛・部活・過去・情熱。そのすべてがかるたの一手に集約されるこの脚本の力に感動させられた。



しかしこれはまだ-上の句-である。冒頭の台詞が最後に違う意味をもって繰り返されるが、千早も太一もまだまだドラマは終わっていない。つまり今回は、-下の句-を要請したところなのだ。しかしこの上の句の出来が予想外にいいものだから、僕は早く下の句に手を伸ばしたくて、仕方がないのである。必見。