リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『リズと青い鳥』を見た。

キラキラで目が眩むけど

2013年に刊行され、2015年にはアニメも制作された『響け!ユーフォニアム』の続編且つスピンオフとして制作された作品。監督は『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』『聲の形』などの山田尚子。声の出演に種崎敦美東山奈央ら。


吹奏楽部に所属する高校三年生の鎧塚みぞれ(種崎敦美)と傘木希美(東山奈央)は、それぞれオーボエとフルートのエースとして、高校最後のコンクールへ向け日々練習に励んでいた。自由曲として選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートの掛け合いがあり、二人は曲の元となった童話に自らを重ねていたが、次第に二人は噛みあわなくなり・・・

校門をくぐった先の階段に座り、すれ違う人には目を向けずうつむいている少女が、しかしある足音を耳にしてふと顔をあげる。目線の先には、軽快な足取りで、ポニーテールを揺らしながら歩いてくる友人がいた。その友人に引かれ後を追うように彼女も立ち上がると二人は列になって校舎を歩いてゆく。靴の履き方も、水の飲み方も歩き方も足音のリズムさえ違う二人は音楽室へたどり着き、今度は椅子を寄せ合い横並びになって楽器を取り出した。
このわずかな、しかしただ校門から音楽室への移動にしては不思議なほど長くも感じるシーンから一つの大きな主題が見えてくる。その主題とは距離だ。この冒頭からはうつむく少女・みぞれと軽快な友人・希美の間にある距離が、視覚のみならず、決して重なり合わずにリズムを生む豊かな音の演出によっても示されている。また距離は音楽室で再度、触れること、触れられないこととしても浮かび上がってきているのだが、ただしこの触覚とはそのほとんどが他者に触れる感覚としてではなく、自らを抑え込むための行為として描かれる。それは例えばやや重ための髪をにぎるとか、手首を押さえるといった行為であって、特にみぞれが髪をにぎることは、彼女がずっと見続けてきたのであろうポニーテールの揺れと対称的な癖である。また、みぞれにとって剣崎という後輩がまず手から視界に入るというのも、彼女が見つめている者との間に距離があるからこその侵入であったのだろうが、この見つめる瞳もまた印象的であって、何度もクローズアップされるみぞれの瞳は、不安定に揺れながら希美を見つめている。



これらの空間・音・触感・瞳といった描写によって映し出された二人の距離は、学校という場の中で変化してゆく。みぞれと希美の演奏は、それぞれ気付いていないふりをしていた事実の露呈によって変化する。ハグさせようとすることと拒否することが変化する。クローズアップされる瞳の主が変化する。こういった変化は、『リズと青い鳥』という童話の解釈と重なるように変化しているのだが、その子細よりもここでは学校という舞台自体が、柵や窓の利用された鳥籠の如き場所として設計されていることに目を向けたい。
事実として、この作品においては窓、もしくは枠が印象的に使われている。冒頭、二人並んで演奏を始めるシーンこそ籠の中という印象を受けるが、しかし会話シーンの多くにはその背景に窓が登場している。学校なんだから当然そうだろう、と言ってはいけない。そしてまた、窓の外を何度か鳥が横切るから籠だといっているだけでもない。例えば希美がフルートのパートメンバーと会話するシーンと、みぞれが剣崎と対話するシーンにおいてでは画角として窓の映し方に差があるように思うし、部室であってもみぞれと希美とではその左右、背後といった周囲にいる人数の違いから窓の見え方にも差があったはずだ。さらにみぞれと希美が中庭越しに窓際で光を反射させながらふざけ合うシーンは内側からの切り替えしによって撮られているが、希美の姿が消えると次はみぞれの、やや後ろ下の辺りから捉えたショットが入り窓の大きさと部屋の暗さが強調されるようになっている。また希美がプールへ行こうとみぞれに言った際、他の娘も誘っていいかと問われその予想外の返答に微妙に困惑が見えるシーンでは、希美はまず、窓を開けやしなかっただろうか。さらに希美が新山先生へ自分も音大入りを検討していると告げたとき、そこに大きく広がる窓はなかったではないか。そしてそもそもこの作品は校門という柵をくぐることで始まったが、再びその柵が登場するのはいつのことであったか。



こういった籠の如き学校を舞台に展開される距離の変化は、しかし決して距離を縮めたりはせず、むしろその距離が確実なものであることを認識させる。みぞれの音は希美の手の届かぬ域へと飛び立ち、希美を見つめていたみぞれの揺れる瞳は力強く前を見据える。逆に希美は、その世界へ自分はたどり着けないのだと、演奏するみぞれを見つめることではっきりと自覚する。みぞれがついに希美へと触れたその時、彼女らの思いはすれ違っているのだと、はっきり言葉として現れてしまう。
だがその認識が二人を引き離すようなことにはならない。変化の先に見えた道は確かに別々かもしれないが、しかしその道を歩もうとする彼女らは決別したわけではないのだ。音楽室と図書室へそれぞれ向かう彼女らは画面において一つの道から左右別々へ別れたように一見見えたとしても、ターンの癖とスカートの揺れる動きが全く対称に映ることと、そして窓の外を見上げることからも、それは決別ではなく、むしろこの二人だけの距離という特別な関係性を、冒頭とは違う印象を持って認識できるだろう。また、最後描かれる下校のシーンで階段の上に立つ側が逆転していてもそれもまた立場の逆転などではなくて、どちらでもあるということなのだろうと、やはり相変わらずみぞれの前を進む希美を見て、そう思えるのではないか。みぞれにとっても希美にとっても、距離は縮めるためでも離すためでもなく、その距離を通して自他を認めるために存在していた。



距離とは山田尚子作品に共通する主題であって、『たまこラブストーリー』も『聲の形』も、「投げること」「落ちること」という動きによって自己と他者の距離を変化させ、離し、繋いできた。ただし本作は動きそのものから映画的な興奮を感じ取るというよりかは画面に散りばめられたイメージが連鎖し合うような性質であるため、過去作以上に画面が意図に絡め取られるような印象もなくはない。だがイベントを排し、登校という埋もれた日常にこそ感情を与えて動かす力は繊細というよりむしろ大胆な技というように思え、しかも例えば3年生4人で話し合う鋭いシーンもさらりと入れつつ、それでも全体では美しく仕上げることにより山田尚子的アニメーション世界を生み出しているのであって僕はそれに感動したのだ。そして何より、中庭を挟んだ2つの窓際から、フルートに反射する光を相手の体に当てて笑いあう二人の、その距離によって生み出される光がなんとも美しかったではないか。もしかしたら残酷かもしれない、けれども美しいこの瞬間だけでも、僕は本作を愛することが出来る。