リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その31

『牯嶺街少年殺人事件』(1991)



映画を好んで見ていると、時に「見られない作品」に出会うことがある。例えばDVDが廃版になっているだとか、もしくは日本版や日本語字幕の入ったDVDが発売されておらず、VHSに頼るしかないものの、それすら手に入れることは困難であるとか、さらに中にはパッケージ化されていない作品まである。こういった、「見られない作品」の中でも高名だったのが、エドワード・ヤン監督による『牯嶺街少年殺人事件』である。丁度僕の生まれた1991年に台湾で、そして翌年に日本で公開されたこの作品は、長らくの間容易には見ることの叶わない幻の作品として存在しており、「クーリンチェ」という聞きなれない名前の付いたこのタイトルはまるで『悪魔のいけにえ』こと『The Texas Chain Saw Massacre』のようにそっけなく、それでいて強烈に興味をそそられるものであった。そんな作品が何と今年になって突如全国で復刻上映されることとなった。タイトルの魅力や、既に傑作として名高いことからも僕はほとんど約束された傑作を見に行くという感覚で劇場へ向かった。しかしそれは間違っていた。これは約束された傑作などという安心感を持って臨めるものではなかった。それどころか、途方もない傑作を目にしているのだということに慄くような作品であったのだ。



この作品を説明するとしたら、まずは闇の映画であると言わざるを得ない。闇とは言葉の通り画面上に現れる闇のことであり、この作品では無数の豊かな闇が画面を覆っている。それと関連して、光の映画でもある。しかしこの光は闇を完全に照らし出すような強さをもってはおらず、懐中電灯に電球や蝋燭というおぼろげで心もとない、瞬間的な光であって、せいぜい深い闇の一部をぼんやりと浮かび上がらせるだけだ。だから『牯嶺街〜』においては、光というより光源に対して意識的なのだと言えるだろうが、ともかくこの光と闇が生み出す画面一つ一つの充実ぶりを見ているだけでも相当に素晴らしい。ただし重要なのは、こういった画面がただ一枚の写真として存在しているのではなく、人物の動きや音を伴いながら世界の広がりを実感させているという点である。『牯嶺街〜』における光の届かない闇の深さには、それだけで見ている側にその奥の世界への想像力を引き出させる力があるのだが、登場人物たちはその中で生きているということを、動きや音の広がりによって見せている。
勿論、その広がりとは暗闇のシーンに限るものではなく、例えば小四が足を痛めた小明と出会い、歩き、止まったかと思うと脚のショットを挟み込んで塀を乗り越えるに至る昼間の場面も素晴らしい。画面奥手前や上下の構造を利用し世界と動きを捉えるフレーミング、設計、タイミング、それにロケーションなどが、これしかないという精密さでもって全編連続することにひたすら驚かされる。
そしてさらに面白いのは、このようにして世界の広がりを見せた作品でありながら、この作品に漂うのはむしろ閉塞感であるということだ。それは物語から要請さているのだろうが、しかし決して『牯嶺街〜』はある一定の時代を取り巻いていた状況を再現しているのみではない。「あの頃」を思い出すとか、それに乗じて今を見つめ直そうなどといった手合いのものではなく、『牯嶺街少年殺人事件』として再構築された世界が画面の中に存在しているのだ。だからこの作品が作り出した世界は現実の時代とは無関係に映像の中で生き続けると確信しているし、それはつまり、映画として最も理想的な形の一つなのではないかとも思っている。



ところで、『牯嶺街少年殺人事件』を形作る要素として非常に気になっている要素に「夏」ということがある。どうにも暑そうな夏を舞台としているが、ふわりとした風が入り込んでいることからも、じっとりとした不快感、つまり湿り気に関してはあまり感じられなかった。とはいえタイトルに類似を感じる『悪魔のいけにえ』の暴力的な暑さともまた違っており、そこで気になったのが、水の扱いである。まずは冒頭、登場人物たちは食事をとるよりもまず先に、季節外れに熱いお茶と、かき氷を食べる。その後も、お茶を飲む場面は食事よりも多く画面に登場し、さらに主人公に至っては「食欲がない」と言い、まともに食事を摂ろうとしていないことからも、飲み物がより強く主張されているように感じた。
そしてそんな飲み物よりも更に強烈に画面に出てくる水として、雨のシーンを忘れるわけにはいかない。217と呼ばれるグループを襲撃する夜の場面は、そのほとんどが闇に覆われたまま音と少ない光の中で進行し、本作でも最も素晴らしい影の見られるアクションシーンであるが、ここでは轟々と雨音が響いており、また雨合羽に笠を着込みずぶぬれになりながらゆるりと人力車でやってくる襲撃者たちの姿は異様に格好いい。ここで雨/水は、それまでより強烈な集団的暴力を運んできているのだが、もう一つ暴力を運んでくる水が存在する。それは小四の父親が尋問されるシーンで使われている、氷である。小四の父親が尋問質に連れて行かれたとき、その床は奇妙に濡れており、いったい何故かと思っていると、その後に違う男が下着一枚を履いて氷の上に座らされているシーンが出てくる。そして廊下には、無数の氷が並べられているのだ。この静かながら異様な暴力性を醸し出すシーンにはぞっとさせられる。暴力の気配が氷という形を持ってそこに存在しているのだ。
ここで僕が思うのは、『牯嶺街〜』における水とは、ただその暑さを紛らわせ潤わせるような癒しではなく、むしろ他者との断絶が起こる契機として存在しているのではないだろうか、ということである。実際、暴力的な場を抜きにして飲み物に関して考えてみた場合、冒頭の入学の件に始まり、教員と父親の会話や小馬邸等、登場人物が飲み物を口にする際にそこで交わされているのは、片方の望みが受け入れられないという状況や、何か食い違いの起こる場面ばかりではなかったか。そして小四にとって最も大きな他者との断絶が起こるとき、そこにもやはり、液体は流れている。



断絶というのはこの作品の、物語として一つのテーマであると思う。それは信念を追い求めた人々にとっての断絶であり、信念を追い求めることすらできなかった少年の断絶であり、理想など持ち得ない境遇に生きる少女の断絶である。それが時代感と呼応して、少年たちの姿を借りつつより大きな社会を映し出しているのは間違いないだろう。ただし、『牯嶺街〜』は、断絶を大きな一つの出来事で語るのではなく、些細なズレの積み重ねとして描いており、その中心にいるのは小四と小明である。小四は多くのグループや人物が崩壊してゆくのを見ていく中で、父親から教えられた信念の向う場所を結局一人の少女へと集約してしまっているが、しかし小明は既に理想や信念などは無縁の酷薄な現実にさらされている。だから実は彼らは最初から分かり合えないことが約束されているのであって、小明がまずその脚を画面に映し出すというのも彼女が本作のファムファタールだからではなく、おそらくその脚の傷を理解することもできないまま翻弄されたと憤る男たちの、無理解をこそ強調したいからではないのか。そして小四はそのことに気付きもしないまま、初めから約束されていた断絶へとたどり着くのである。
しかし小四の抱えた屈折について、僕はそれを、「幼いから」というような言葉で簡単に捨て去ることはできない。もちろんそういう面はあるだろう。とはいえ彼は、ほとんど運命的といっても良い些細なズレの積み重ねによって、本人も気づかぬうちに、いつの間にか何処へも向うことができなくなった少年である。そしてそんな彼の、それでもどこかにあるはずの理想を希求する姿は今の僕にとって軽くあしらえやしないものだ。勿論、社会情勢として背後に存在するものの大きさはまるで違うのだから、おこがましい共感ではあるだろう。だが何処へ向かうこともできぬまま愚かに朽ち果てた小四の屈折に、未だ懐中電灯をぶら下げては無作為に闇を照らそうとしているだけの僕は、涙を流したのである。