リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『何者』を見た。

ワタシ私を殺しテク
三浦大輔監督最新作。原作は『桐島、部活やめるってよ』でも知られる朝井リョウ。主演は佐藤健有村架純菅田将暉二階堂ふみ岡田将生山田孝之ら。


就職活動を始めた拓人(佐藤健)とその友人光太郎(菅田将暉)、そして光太郎の元恋人で拓人が秘かに憧れを抱く瑞月(有村架純)は、偶然拓人と光太郎の棲むアパートの上の階に住み、同じく就職活動を開始した理香(二階堂ふみ)とその恋人の隆良(岡田将生)と共に互いに情報交換しあいながら就活を乗り切ろうと協力しはじめるが・・・

不用意に動くカメラは何を捉えるでもなくただブレ続け、そのカメラによって捉えられる画面は一部屋ごとでの会話が大半を占めているため動きも空間も失われ、画面は閉塞し、ひどく鈍重である。さらに回想が多く入り込むことによって語りも停滞してしまうため、特に序盤は非常に退屈である。もちろん場面によっては、限定された空間での会話シーンであろうと光るものがある。例えば佐藤健菅田将暉が車内で会話するシーンは光、というかライトの当て方も面白いし、また多用される視線の演出にも見所がないわけではないが、しかし映画としての根分には欠ける。



ただしこれらは終盤に明かされる、ある展開のための伏線として機能している。だから序盤の退屈さを指して作品を即否定するということもできない。事実、その展開は舞台を有効利用しつつしかし映画的な見せ方によってそれまでの不満を「納得」はさせてくれる。例えば先に挙げた室内での会話シーンでは、集団の中において佐藤健だけ1人、という状況が多くみられる。彼を含む4人の会話シーンでも、他3人が同時にカメラに収めつつ1人だけ切り離されているとか、1人だけ画面に背を向けているとか、そういった方法によって彼は幾度か他者と分離されている。それは後に明かされる佐藤健の有り方と密接にかかわっており、また視線についても、佐藤健の目線に散々注目させつつ、それを反転させることでドラマを作り出している。ちなみに佐藤健についてはこの視線よりも、何かを言いたげだが言わない・言えないという状況において見せる表情がいいと僕は思ったし、もちろんそれも「納得」させられる。
終盤にあるその展開は、舞台という装置を利用しつつ拓人個人を、ツイッターを、そして就活という要素までを包括する。あの場に観客として存在し、劇が終わるとと共に表情を変えず拍手をする人たちの、その拍手とはいわば「いいね」と「リツイート」、もしくは面接官の佇まいでもあろうが、ともかくここではそれまでの見る・見られるの構造が入り乱れて佐藤健を叩きのめし、やはり全編に漂っていた閉塞感を反転させてゆく。また、有村架純が親の事情について語るシーンももちろん佐藤健の行為、というより、ツイッターを通して他人を見るという他の人物の行っていた行為にぴたりとハマる。本作はSNSという武器、もしくは暴力を手にした人間達ばかり出てくるけれどSNSの物語ではなく、登場人物の誰もが多少なりとも隠し事や偽りを抱えて他者とそれなりの関わりを持ちつつ生きているという、普遍的な状況を浮かび上がらせている。



更に言えば、この作品は就活の物語ですらない。エントリーから企業説明会に自己PRや面接等々、本作には就活に対する描写が不足しているように感じられるのだが、それはある意味当然だ。なぜならこの作品における就活とは、巨大な空洞だからである。就活とは本来ステップであるはずなのに、まるで登場人物たちは自分の存在を規定してくれる装置として就活・就職を捉えている。その意味でこの就活とは原作者を同じくする『桐島、部活やめるってよ』における桐島と同じような存在ともいえる。就活も桐島も、それらが本来備えている役割よりより大きなものをそこに見出してしまう者たちの右往左往によって自分自身を見失い・そして否定の先にもう一度自分を見つけてゆくことで作品が推進してゆく。だからその空洞たる就活に対し、その過剰になった意味から速く抜け出したものから就職は決まってゆくわけだし、その空洞に空疎な承認欲求を見出し憑りつかれた者たちはいつまでもそこから抜け出せない。もう一つ『桐島〜』との関連性では、ミステリー的であるということも挙げられる。それはつまり、個人それぞれに隠されていたことが徐々に明らかになるという点なのだが、しかしこの点に関しては『桐島〜』のように学校という限定された舞台を視線や移動によって徐々に広げてゆく手法の方が映画としては映えており、本作の、細かい台詞にまで張り巡らされた伏線をある一点で一気に回収してゆく物語には驚きがあるけれど、やはりそれまでの過程が、その物語的驚きのための準備という役割を担いすぎているのは、やはり問題があるのではないか。



ところで、『桐島〜』との関連性でいうともう一つ、ヒロイン的人物の役割が似通っているとも思う。本作の有村架純は最後、佐藤健に対しある言葉を投げかけ、そこではじめに書いた視線の反転が行われることによって消極的ではあるが光が差し込み、感動的なドラマを生んでいるのだけど、それは『桐島〜』における橋本愛が映画部の神木隆之介を見る視点と似ていると思う。『桐島〜』の橋本愛よりも多少、本作の方が優しい視点ではあるものの、男側の恋愛感情を全く受け付けはしないが好意らしきものは持っている女性、という点で共通していると思うし、だからこそ両者とも主人公を恋愛に留まらせはせず、自分たる道へ進ませるという機能を持っているように思う。ラストショットで携帯電話を見るため下を向くのではなく、前を見据える佐藤健の視線の先に見える光も感動的だが、ただあのようにして扉を用意するのであれば、それならせめて例えば企業説明会のシーンでクレーン撮影するより先に先ず扉が開くということを丁寧に撮るとか、もしくは就活対策部屋のシーンでも人物の出入りによって空間が広がるように使うとかはしてほしかったと思うのである。結局、就活対策本部の扉の先が「舞台袖」にしか見えなかったのだ。物語的に面白い構造とそれを映画的な演出を伴わせることによる効果、またセリフの端々に忍ばせてある意味によって面白いと感じる部分はたくさんあるものの、主に前半の勿体なさが目に付く作品でもあったと思う。

何様

何様


一応、本作を見て自分自身について感じたことも書いておこうと思う。僕は今、社会人として3年目を迎えたわけだが、今の会社に決まるまでまさに本作の佐藤健と同じく、2年間就活を行った。理由は単純に、どこからも内定が出なかったからだ。その理由は様々あるのだろう。対策不足であるとか、そもそも仕事をするということに対する意識の低さか、未だに歳の離れた人とは何を話せばいいのかどう話せばいいのか言葉に詰まるというようなことであるとか、それに付随して面接の下手さであるとか、自己PRが一つも思いつかないでエントリーシートに書いた内容に自分自身納得がいっていないこととか、挙げればきりがないのだが、そのどれが一番問題だったのかはよくわからない。ある会社の最終面接で自分なりに本心を答えたつもりがなぜか笑われたことに関しても、いまだに何がおかしかったのかよくわかっていない。何か変なことを言ってしまったのだろうか。その会社は結局落ちた。あまりに自分がみじめに思えて夜道を歩いているときに急に涙を流したこともある。今何とか拾い上げてもらった会社についても何故受かったのかさっぱりわからないし、他がないから今の仕事に就いた、という話でしかない。就活全体にしても、今の仕事と自分の存在についても、結局何もわかっていないというのが僕の現状だ。「登場人物たちは自分の存在を規定してくれる装置として就活・就職を捉えている」と書いたはいいものの、実は僕自身にとってもそうだった、というか、今でもそうなのだ。就活は終えたはずなのに、未だに自分自身は何者か、などという考えを捨てられず今を疑問に思い過ごしている。そうした、未だ就活という空洞から逃れられていない自分もまた、登場人物とは違う「何者」を飼っているのである。