リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『沈黙 -サイレンス-』を見た。

てんたさんに放し給ふことなかれ

マーティン・スコセッシ監督最新作。アンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライバー窪塚洋介笈田ヨシ塚本晋也浅野忠信イッセー尾形リーアム・ニーソンら日米のキャストが集結した。原作は、遠藤周作の代表作「沈黙」。


1640年。日本で宣教活動をしていたフェレイラ(リーアム・ニーソン)が、厳しい弾圧に屈し、遂に棄教したとの噂が、彼の弟子であり神父のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)の耳に入った。その噂を信じられない2人は、危険と知りながら日本へ潜入することを決める。マカオで出会ったキチジロー(窪塚洋介)の手引きを得て日本へ上陸した二人は隠れ切支丹の里へ案内され・・・

いかにもスコセッシらしい作品である。まず作品のスタイルとして、ボイスオーバーや長回し気味の移動撮影に主観視点の移動、真上からの俯瞰、止め画の挿入、スローモーション、リズムを生むカッティング、素早いパン等、『君のような素敵な娘がこんなところで何してるの?』から今に至るまで数多くの作品で見られたいくつものテクニックが、抑え気味とはいえそこかしこに散りばめられている。
加えて、テーマ的な面でもいかにもな「らしさ」に満ちており、矛盾を抱えた人物、贖罪、友情と裏切り、精神的・肉体的な地獄を巡る物語、そして負けたその後の人生という、スコセッシ作品に遍在する要素が当然のごとく本作にも表れている。程度の差こそあれ、精神と肉体の地獄の中をパラノイア的人物が躁鬱気味に右往左往するのはスコセッシ作品の常であり、その地獄が快楽に基づけば作品は狂騒に、苦悩に基づけば作品は抑圧に向うのだが、もちろん本作の場合は後者で、苦悩に基づいた抑圧的な地獄を巡る物語となっている。つまりはいつものスコセッシ映画と言えるだろうが、映像も含め過去作で最も近いのは『最後の誘惑』や『クンドゥン』といった直接宗教を題材にした作品ではなく、『シャッター・アイランド』の雰囲気であろう。水に囲まれた霧のかかる列島の、その視界不良な様は真実を覆い隠す孤島に重なり、スコセッシ作品において頻出する炎が暗闇で灯る。火と水の恐怖を前に、格子の中にいる主人公は迫害されるのではなく、懐柔を望まれる。はっきりホラーとしては演出されてこそいないものの、間違いなく『沈黙』にはその要素がある。



もう一つ、スコセッシ作品の特徴として見逃せないものがある。それは生活スタイルの描写だ。生活スタイルとはつまり街と、そして街に住む人物たちの生活描写のことであるが、それは自伝的な初期作品の頃から拘っている部分だ。ギャングであれ聖職者であれ音楽家であれ画家であれ上流階級であれ金融業界であれ、スコセッシは彼らの生活スタイルをまずは丹念に描写してきた。本作であれば隠れ切支丹がそれにあたり、彼らがいかなる生活を強いられ、いかなる信仰を持つのかということは後の展開、つまり「沼」たる土地ということと併せ繰り返し描かれる。もちろん反対に、その「沼」へやってきたキリスト教者たちの傲慢さにも目はむけられている。
この生活スタイルの描写を支えている大きな要因として、それが正確であるかどうか僕には判断できないとはいえ全体のデザイン・造形の説得力があるのは間違いないだろう。またそれら諸々のデザインの後押しを受け、画面に生を与えた役者の演技も忘れ難い。本作では劇伴がほとんど流れないため、必然的に自然音や役者の声そのものに耳を傾けることとなる。そしてその、それぞれに持っている声の個性が『沈黙』という作品を形作っているのである。事実、物語としてもフェレイラの声なき声がロドリゴを日本に呼び寄せ、そこで彼ははじめ隠れ切支丹の声を聞き、自ら声をかけ手を差し伸べることで司祭としての役割を果たすものの、次第に見守ることしかできなくなり、終いには手を差し出すこともできないまま、聞こえ浴びせられる無慈悲な声だけが徐々に近づいていくその果てに疑念を抱く。そうして最早見守ることすらできなくなった彼の声は消え、最後には全くの第三者の声によって幕を閉じることとなる。声とその距離は、作品の最も重要な主題でありそしてそれは神や、神に仕える者ならず登場人物たち全ての声であって、見るもの、見られるものという視点の絡み合いを経て変遷してゆく。



しかし、声のみならず肉体的に映画を動かす人物がいる。それがキチジローだ。彼は不自由な土地の中、一人惨めに動き回っており、そんなキチジローの動きを常に見ているのがロドリゴである。そのロドリゴの見つめる視線の中でも、捕らえられた後に牢の中からキチジローの姿を見つめる辺りのシーンは素晴らしい。踏み絵を断った切支丹の元へ侍が徐々に近づき、首が切り落とされる。その首が視線を左右に誘導させつつ、さらに早めのパンによってキチジローの「踏絵」と逃走を見せる。このシーンは、格子を使った見せ方や声の距離という観点から本作の白眉といえるだろう。そして窪塚洋介は、キチジローというキャラクターを歩き姿から立ち振る舞い、そしてせわしない眼や口の動きによって作り上げていると思うのだが、このキャラクターは非常にスコセッシ的でもある。卑しく弱く、救いを求めつつも相反する行動をとってしまうキチジローは、その性ゆえに苦しみから解放されることはなく、周囲から見下され、そして自らをも見下して生きていかざるを得ない。これは初期作品におけるハーヴェイ・カイテルに、ジェイク・ラモッタに、その他諸々のスコセッシ作品に共通するキャラクターの特徴であり、彼らのような、憧れた姿になることはできず、身勝手に「愛」を求め彷徨う惨めさは、少なくとも僕にとっては最も共感出来るキャラクターであり、スコセッシ作品が好きな理由の一つでもある。ただしこのキチジローは、最も卑小であると同時にロドリゴにとっては、最も偉大なる贈り物でもあるのだ。



以上のことからいかにもスコセッシらしい作品であることは間違いなく、また面白いとも思うのだが、しかし彼のフィルモグラフィーにおいて、取り立てて素晴らしい作品であるとは思わない。というのもまず、本作は役者の演技をこそ見せることに終始している印象を受けてしまう。確かに、会話シーンはクローズアップだらけとはいえ丁寧に演出されているから退屈ということにはならないし、ロドリゴと日本人の距離を演出するカメラワーク、またすでに述べたデザインと合わさったショットの充実に、洞窟内で松明の灯が画面右上からぼうっと登場する場面など楽しむことはできるものの、溝口健二と、そして何度目かの『狩人の夜』のやや無謀なオマージュには物足りなさを感じる。そして最大の不満点は、原作でも最も強烈な印象を与える「鼾」の描写があまりにもおざなりであるということなのだ。「鼾」かと思われた音の正体が明らかになるまでがあまりにも性急であるために、その音がもたらす混乱が、ひどく薄味に思えてしまったのである。
とはいえ、『沈黙』は個人的に感慨深い映画ではある。スコセッシがこの小説の映画化に着手しているとの話を目にしたのはもう8年ほども前の、僕が高校生だった頃にさかのぼる。当時『タクシードライバー』や『グッドフェローズ』に感銘を受けた僕はスコセッシが映画化することを知ってこの小説を読んだ。といっても、スコセッシが映画化するということに加え、学校が指定する読書感想文のリストにたまたま入っていたから読んだのであって、完全に自主的な選択とは言えないのだが、しかし読んでみて驚いた。キリスト教に関する知識などほとんどなかったものの、地獄めぐりの果て価値観が転倒し、「転んでくれ」と思わせる物語の面白さに引き込まれたのである。全く読書家ではなかったし、当時は感想文など授業でしか書かなかったからその興奮をうまく伝えることができないまま自分の中に残り続けていたのだが、それから長い年月を経て、ようやく映画として見ることが出来たという点において、嬉しい劇場鑑賞ができたのである。

沈黙 (新潮文庫)

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