リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ジェーン・ドウの解剖』を見た。

わたしは死にました

トロール・ハンター』で知られるアンドレ・ウーヴレダル監督最新作。2016年度ファンタステック・フェストのホラー部門において最優秀作品賞を受賞した。日本では松竹エクストリーム・セレクションの第1弾として公開。主演はブライアン・コックスエミール・ハーシュ


田舎町で遺体安置所と火葬場を経営し、検死も行う親子の元にとある遺体が運ばれてきた。一家惨殺事件が起こった家屋の地下に埋められていたその死体は、ジェーン・ドウ=身元不明と呼ばれており、全く情報がないという。二人は早速死因を調べにかかるのだが・・・

検死官の親子が身元不明の女性の遺体=ジェーン・ドウを解剖し、徐々にその内側に秘められた恐るべき真実を知るという物語ではあるものの、実際のところそんな論理的な筋立てなどあざ笑うように、冒頭から彼らの運命は決まっていた。何故ならジェーン・ドウは自らの死の理由や理解など求めておらず、はじめからただひたすら純粋に呪いとしてそこに存在していたからであって、検死官親子は出会ってしまったが最後、否応なしにその呪いを受ける他に道はないのである。つまり、最初からすべては終わっていたのだ。
本作がホラーとして素晴らしいのはまさにこの部分である。中盤までは、ある死体の謎を巡るサスペンスがスリリングに進行するものの、ジェーン・ドウが呪いそのものであったと判明するその時、死体であったはずの「それ」は我々が理解できる範疇を超えた呪いという別の次元へと変貌しこの世界に屹立する。だから検死官がなにか答えを得たとしてもそれは所詮人間の理解であるから事態の解決になるはずはなく、ただひたすら、一方的で理不尽な呪いにひれ伏すしかない。秘かに動き出していた不条理によって人間は蹂躙され、抵抗のしようもなく世界はぬりつぶされる。なんと素晴らしいホラーであろうか。



もちろん、ホラーとしての素晴らしさはそんな感性にのみ託されているのではない。例えば恐怖の舞台は、解剖室とそこへと通じる短い廊下といくつかの部屋しかないものの、わずかな空間の中で検死官たちと「何か」の距離を生じさせ、その「何か」が画面の奥からじわりとやってくる恐怖をうまく見せているし、時にはその距離を真っ白な煙で混乱させもする。限定的な空間でありながらも多様な顔を見せてくれるのが素晴らしい。このような演出、ショットの組み立てというのは冒頭、惨殺事件が起こった家を捜査するシークエンスから素晴らしく、凄惨な現場をたどりつつ最後に土に埋まる美女の死体へと行き着く流れでまず引き込まれる。



登場人物が極めて少なく、また彼らが無駄な行動はせずひたすらプロとして解剖を行うのも嬉しい。無駄な描写で人間ドラマを描いた気になるのではなく、検死官という役割に沿って行動させ、親子ならばするであろう会話を適度にさせておけば自然とキャラクターが生まれ感情もついてくる。解剖が進めば進むほど彼らは後戻りのできない世界へ足を踏み入れることになるが、それでも解剖を辞めないのは彼らがプロだからで、滑らかな手さばきにより徐々に死因が判明すると同時に怪奇が積み重なる流れは経済的で心地よくもある。悩んだり葛藤したり放棄したりなど、映画にとってはまったくの無駄でしかない。



そしてなにより、ジェーン・ドウである。微動だにせず中心に置かれ続けるこの死体の素晴らしさがやはり本作の肝であって、本当にただそこに置かれているだけにも関わらず、物語も画面も支配している。この死体の、まぎれもなく死体であるという存在感とそれに似つかぬ美しさが中心にしっかりと据えられているがために細部は有機的に動きだし、呪いというシステムとして機能しているのだと思う。だからこの作品の主役はやはりジェーン・ドウであり、目を見開いたままそのすべてをさらけ出すオルウェン・ケリーの肉体あってこその作品なのである。というわけで傑作。