リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『かぐや姫の物語』を見た。

世界よ、これが日本アニメーションだ。
アルプスの少女ハイジ』や『火垂るの墓』等を手がけた日本を代表するアニメーション演出家・監督である高畑勲14年ぶりの新作。原作は日本最古の物語と伝えられる『竹取物語』。かぐや姫の声を務めるのは朝倉あき。他、高良健吾地井武男宮本信子高畑淳子立川志の輔など、豪華俳優陣が声優を務める。


今は昔、竹取の翁(地井武男)といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。子となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻の嫗(宮本信子)に預けて養はす。うつくしきことかぎりなし。いと幼ければ籠に入れて養ふが・・・

圧巻である。何がって、アニメーションの表現がだ。絵巻かまたは水彩画風の、和の雰囲気を感じさせる絵はどれも額縁に入れて飾りたくなるような美しさがあり、また動き出せばそれは時に優しく、時に荒々しく、「動く」という事の感動をひしひしと感じさせてくれる。ディティールにも驚かされるだろう。人や物の動きだけでなく、この時代はこうだったんだろうなと思わせる細やかさがまた魅力的だ。溝口健二の古き良き邦画を思わせるオープニングクレジットもいい。
芸術的であるが、しかし実験的でわからないという事はなく、娯楽は失わない。この演出力・表現力という点において、この映画が傑出した作品であることに間違いはない。実際、いくつかのシーンでは言葉を超えて画面を見ているだけでも涙が出てくるのである。
これほどまでに凄みを感じさせるアニメを僕は見たことないが、表現自体は斬新ということでもないように思う。例えば、エンピツの線が見える絵はフレデリック・バックを思い出す。高畑勲フレデリック・バックと対談もしているみたいなので、影響があるのは間違いないと思う。影響は絵だけではない。フレデリック・バックは『木を植えた男』はじめ、自然と人間のあり方について描く作家だ(活動家でもある)。そして『かぐや姫の物語』にも、そのテーマを見つけることはできる。



かぐや姫の物語』は基本的に『竹取物語』に忠実だ。大筋に変更はなく、意外性はない。大きな変更点があるとすれば、前半、姫が育つシーンに時間を費やしている点だろう。翁に拾われた姫は、野を駆け山を駆け、草木花に触れ、獣と戯れ、大いなる自然の中ですくすくと育つ。人も自然も生命力に溢れるこの序盤は、アニメーションの見事さもあって例えば花が咲くだとか、そういったふとした部分にも美しさを宿らせており感動を覚える。
本作のテーマは大きく2つあると思う。一つは、この世界に対する賛美だ。自然の何もかもは彩りに満ちて美しく、愚かで愛情深い人間ですら尊い。そんな美しさも醜さも含めた、この世界に対する肯定。そしてそれが圧倒的なアニメーションによって表現されているのが、『かぐや姫の物語』なのだ。
人間表現に関して、何より面白いなと思ったのは顔である。その表情の多彩さが面白いし、何よりまず造形が面白い。そしてこの面白さは、キャラクター作りという点のみに留まってはいないと思う。人の顔は、ただ顔だちによって決まるのではない。顔つきが重要だ。顔つきというのは、性格や経験、年齢によって如何様にも変わる。本作の登場人物は皆、面白い顔つきをしている。それはつまり、彼らが感情豊かな人間であることの証なのだ。それに対し、月の人はどうだろう。仏教面の彼らは悟りを開き解脱しいているために、その表情はやわらかだが、何とも面白味がない。かぐや姫にしてもそうだ、美しい顔立ちだが、時にその顔には表情が宿っていない。彼らに比べて、生き生きとした人間たちの、なんと魅力的なことか。ここに、愚かでおかしい人間への、温かなまなざしがあるように僕は思った。



もう一つのテーマは「どう生きるか」という事だろう。翁の願いにより姫は、都で育てられることになる。しかし、厳しい教育と「姫らしさ」に閉じ込められた世界は、まさに籠の中の鳥だった。そして姫は都で空虚な存在としてわがままを通すばかりの生活を長年過すことになる。
様々な愛に満ちたあの幼少期の事を忘れ、何と無駄な年月を過ごしたか。しかし、気づいたときにはもう遅い。月(=死後と捉えていいと思う)の使者は、地球に留まることを許しはしないのだ。姫は絶望する。なぜもっと、見せかけの幸不幸ではない、自分の生というものをしっかり生きなかったのだろう。終りは気づかぬうちに、すぐそばに来ていたというのに。ここまできたらもう、絶望か後悔しかできないじゃないか。『かぐや姫の物語』は自然の美しさを謳い上げ、次に人間と世界の醜さと限界を描くことでこの世界への絶望を描くが、しかしそれでも、わずかながら最後にこの世界を肯定して見せる。高畑勲は、日本最古の物語を現代のアニメーションとして復活させ、さらにそんなメッセージを託した。
かぐや姫の物語』は『竹取物語』に残る疑問を理屈的に解決・そして再構築したものだ。高畑勲は物語に手を加えるのではなく、解釈によって周知の物語の新たな一面を見せる。その点において、この映画は高畑勲による論文のようであると僕は思った。



と言うとどうも難しそうだが、非常にわかりやすい数々の対比表現もあるし、小難しい作品だという事はない。ただ、納得できないこともある。それは姫が幼少期を共にすごし、互いに思いを寄せる相手となる捨丸についてだ。再び出会ったとき、彼は既婚者だ。であるにもかかわらず、あの飛翔はセックスであると考えれば、開放感のある芝らしいシーンとはいえ、心情的に一歩ブレーキがかかってしまった。あと最後、月に姫が赤ん坊だったころの姿が映るシーンも、なんだこれは?と首を捻る感じだった。




最初はそんな疑問にも何か俺の考えの及ばない意味が、などと考えていたが、それは「巨匠だから」と勝手に考えてしまう罠なのではとも思った。いくらでも深読みはできそうだし、それも確かに面白い。しかし本作は、高畑勲による、混濁入り混じる世界への凄まじい賛歌であるということで僕はもう、それ以上言うことはない気もしてきた。世界と人間の素晴らしさ。そして生きることについて、これ以上ない方法で魅せるアニメーションの傑作。好き嫌いは置いといても、今年劇場で見るべき作品1本ではあったと思う。