リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』を見た。

高速の剣 鈍足の語り

2012年に公開され大ヒットした『るろうに剣心』の第2・3弾。原作は94年から99年にかけて連載されていた和月伸宏による同名漫画。佐藤健武井咲蒼井優青木崇高江口洋介藤原竜也神木隆之介伊勢谷友介らが出演している。監督は『プラチナデータ』等で知られる大友啓史。


かつて人斬り抜刀斉と呼ばれた伝説の人斬りである緋村剣心(佐藤健)は、時代の変容とともに刀を置き、今は不殺の誓いを立て、神谷薫(武井咲)らとともに神谷道場で静かに暮らしていた。しかしある日、剣心の後を継いで影の人斬りとなった志々雄真実(藤原竜也)が京都で明治政府の転覆を狙っていると剣心は聞かされる。政府の用意した討伐隊では歯が立たず、剣心が最後の望みだという。剣心は志々雄の野望を阻止すべく京都へ向かうが・・・

基本的にこの『るろうに剣心』3部作はどれも良いところと悪いところが同じで、いいところは、香港アクションを基本にしたハイスピードな斬り合いと、キャラクターを成立させるビジュアルであり、悪いところはそれ以外のほぼ全て、特に物語と演出であると思う。例えば1作目はアクションの斬新さや、鵜堂刃衛等、おかしなビジュアルを馬鹿馬鹿しくなく見せている点は素直に凄いと思えた。しかし、話しの流れやアクションの流れを止めていちいち説明台詞を入れてしまう癖や、どうしても「感動」「テーマ」に持っていこうとする強引さと勘違い、物語としての下手さが、映画全体の面白さに大きく泥を塗っていた。



『京都大火編』でも、人物の心情を「心の声」としてわざわざ聞かせ、また物語が進行する度、登場人物が言葉でその状況や心情を反復説明していた。『伝説の最期編』も、キャラクターの設定や説明だとか時間経過等を、言葉で語ってしまっている。ストーリーとアクションが分断されているのだ。
何故これが悪いのかといえば、まず映画の流れが悪くなるという事が挙げられる。せっかくアクションシーンでは画面が流れ、見ていて心地よいのに、その途中でいちいち止められてしまうのだ。言うまでもなく映画は映像でできているのであって、なんでも言葉で語ってしまうと、映像にする意味は何か?という根本的な部分を全く考慮していないように見え、その作品に懐疑的な態度を持たせてしまう。



アクションシーン以外の画面のつまらなさももったいない。僕は本シリーズを劇場で見るのは『京都大火編』からだが、シネスコの画面なのにその構図が生かされていることはほとんどない。それどころか、会話シーンで人物は中央に配置され、単調なバストショットを繰り返すばかり。特に『京都大火編』の、剣心と薫が水路沿いで別れの言葉を交わすシーンなど、僕には酷く退屈だった。もはや演者はそこに「立って喋っているだけ」であって、それは演技でも演出でもなかった。親を殺された子供の台詞や演技もくどいし、死体を見つけるシーンにも、もうちょっと画的な工夫がほしい。



他にも『京都大火編』では終盤の見せ場、タイトルにもある「京都大火」の部分も酷かった。戦闘が始まる前まではいい。しかし実際に2勢力がぶつかり合い、京都に火がつくのかと思うと、志々雄側の刺客たちは家の前に松明を「ポン」と置くだけであって、とても本気には見えない。このシーンは実は罠だからいいということはない。やる気がなさすぎて、罠にすら見えないのだ。
また、アクションが見所の本シリーズで、一番アクションがつまらないと感じたのもこの2作目である。何故かといえば、前作のような斬新さも、見せ方のバリエーションも少ないからである。手数の多い、時に曲線を描きつつ高速で動くアクションは、確かに面白いのだけれど、そればかりではむしろ単調とすら思えてくる。瀬田宗次郎との対決も、犬が自分のしっぽを追っているようにしか見えない箇所があったりして少し期待はずれだった。



『京都大火編』への不満が多くなってしまったので、次に『伝説の最期編』について。実は僕はこの伝説の最期編が3本の中では一番好きで、というのも見に行く時点で、だいたいこういうところがダメなんだろうなと予想がついていたからダメージが少なく済んだからというのが、その最大の理由だ。
しかし、それでも『伝説の最期編』は他の2本と比べてとにかく脚本が酷い。終盤の展開は、粗という言葉で済まされないほどに酷いと思う。明治政府の対応と、その結末があまりにもおかしいのだ。民衆の前であのような反乱を起こしておいた上での、剣心に対する処置には流石に無理があるし、また剣心らが乗った戦艦に対する対応を考えた上での、最後に政府高官らが行う「ある動作」は、もはや皮肉としか思えない。それにそもそも、政府にあれだけの軍事力があるならば剣心に頼る必要すらないだろう。中盤の「志々雄はあらゆる手を使い政府にゆさぶりをかけています」という言葉も、描写がなくまるで説得力がないため、何をしているんだと思わざるを得ない。なぜ皮肉として描かないのだろう。
細かい部分では、剣心が捕らえられる場面。あの見せ方では、剣心の身柄を売ったやつは一人しかいないし、そもそもあの服を渡すのは薫の役目だろう。前作ではせっかくカッコいい姿を見せた翁の登場にも、何の意味もない。
このようにいちいち挙げればキリがなくなるが、演出面についても少し。剣心が師匠と対峙する場面。右向きの福山雅治が剣心を蹴るショットの直後、何故か福山の顔アップが左向きで映るのだけど、これ、おかしくないだろうか。連続するシーンであれば、ふつう同じ向きにならないだろうか。
左之助と安慈の対決でも(ちなみにこのシリーズ、左之助がいなくなれば10倍は見やすくなる)、安慈が十本刀について説明する場面で彼らは戦いを一旦止めて語りだす。そんなものは、アクションをしながらでも、画面や物語に動きをつけながらでもできる。その説明の後に剣心の下へ宗次郎が現れるのもダメで、ここは画面を止めずともその様を同時に見せることができるはずだ。ここでもやはり、言葉が流れを止めてしまっていて快感に繋がらない。このシリーズは、はっきりダメなところのある映画だということに、間違いなはないと思う。



しかしダメとはいえ、アクションがいい。キャスティング(特に土屋太鳳の顔つきには目がいく)やパッと見のビジュアルがいいということで、激怒するとか、落胆するようなひどい映画ではない。それ以外でも、良いシーンはある。『京都大火編』なら、冒頭の志々雄が用意した舞台で斉藤一と邂逅→舞台劇を見る剣心(舞台で演じられるのは伝説の人斬りについての演目)という流れは、正直いい。翁ら御庭番集がいかにも忍者らしく隠し階段やらを引っ張り出し、戦闘準備する場面も盛り上がる。『伝説の最期編』では、宗次郎の画面を進んでいくスピード感、平行の走り合いもいいが、やはり志々雄との最終決戦。「誰だお前」という正直すぎるツッコミに同意せざるを得ないが、見せ場としては派手でいい。アクションの見せ方が洗練されてきたようにも見えた。志々雄真実というキャラクターもかなり魅力的だ。僕が『伝説の最期編』をいいと書いたのもやはり志々雄あってのことで、由美との関係も、そりゃあ良いに決まってる。ただそれに関しては、監督や脚本がどうこうではなく原作が優れているだけだとも、言えるのだけど。



このように、『るろうに剣心』シリーズは、いいところもちゃんとあるシリーズだとは思う。少なくとも、「人気漫画の実写化!」と聞いて「あぁ、どうせいつものあの感じでしょ」と高をくくって鼻で笑うには、もったいない作品だ。もしこの作品が、邦画界の一部にはびこる「感動病」「説明病」から解放されていたら、もしかしたら本当に称賛されるべき作品になって位なのではないか。そう思うと、勿体なく想わずにはいられないのが、『るろうに剣心』3部作なのだと、僕は感じている。

映画るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編 写真集

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